2026年7月19日 年間第16主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

第一朗読「知恵の書12章13、16―19節」

「知恵の書」は紀元前1世紀にエジプトのアレキサンドリアで、ギリシア語で書かれました。アレキサンドリアには、ユダヤ人の大きな居住地(ディアスポラ)があり、当地のエジプト社会において影響力を有するような富裕な人びともいました。彼彼女らの多くはギリシア文化圏に育ったために、ギリシア文化に親しんでいて、旧約聖書を核としたユダヤ教の文化また信仰には、あまり親しみがなく、むしろ軽んじるような傾向がありました。

 そのため、ディアスポラに住むユダヤ人にユダヤ教の文化、信仰のすばらしさを知ってもらうために書かれたのが「知恵の書」であり、ギリシア語を公用語としていた彼彼女らに読んでもらうためにギリシア語で書かれました。そのため、ヘブライ語で書かれた旧約の「正典」ではなく、「読編」に編入されています。

「知恵の書」は三部に分かれていて、第一部(1:1―6:21)は「人生の意義と目的を教える知恵」、第二部(6:22―9:18)は「知恵の本質」、第三部(10:1―19:22)は「歴史における知恵の働き」(以上、雨宮慧神父様による表題『主日の聖書解説〈A年〉』246頁)というような内容で書かれています。いずれにも、ギリシア文化の「知恵」が人間的なものにすぎないのに対して、ユダヤ教の「知恵」は神からのものであることが一貫して述べられています。

 本日の個所は第三部に当たります。「歴史」といっても、それは旧約聖書に書かれているイスラエルの民の「歴史」です。本日の個所は、イスラエルの民がエジプトから脱出し、40年の荒れ野の旅を経て、カナンの地に入って、カナン人を征服して行った時代について述べられている箇所です。

「あなたの全き権能を信じない者(17節)」が、イスラエルの神を信じていなかったカナン人を指しています。神はイスラエルにあらがうカナン人に「御力を示され(同節)」ますが、同時に「寛容をもって裁き(18節)」を行われます。

 たいして、イスラエル人は「(神を)知りつつ挑む者(17節)」とされていて、神はその「高慢をとがめられ(同節)」ますが、「大いなる慈悲をもって(18節)」治められるのです。

 ここで言われているのは、イスラエル人と敵対するカナン人であっても、神は寛容をもって臨まれるということで、一方、神の民イスラエルであっても高慢におちいれば、とがめられるということです。

 このような、敵に対しても「寛容」な神の態度は、イスラエル人には不満であったのかも知れません。けれども、神は「敵」であるカナン人への「寛容」を示すことによって、イスラエル人に「人間への愛を持つべきこと(19節)」を教えられたのだと、「知恵の書」は説きます。「民族」を超えた「万民」への愛を説き、その「人類愛」こそが「神に従う人(19節)」が持つべき愛であるとするのです。 

これが神の「知恵」であり、学ぶべきことなのです。

 本日の「知恵の書」を読んで、私は現代のイスラエルの状況を思わずにはいられません。イスラエルにとって、聖書の時代の「カナン人」は、現代においては「パレスチナ人」に当たると思えます。

どうか、現代のイスラエルの人びとも、本日の「神の知恵」に従って、「パレスチナ人への愛」を持ってほしいと祈らずにはいられません。

 

第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙8章26―27節」

 本日の朗読箇所の「〝霊〟」は、本日の「聖書と典礼」4頁下の注釈に書かれているように「聖霊のことである」と一般的に解釈されています。

 けれども、この〝霊〟を「キリストの霊」であるとする解釈もあります。それはこの〝霊〟の「わたしたちを助けて(26節)」「うめきをもって執り成して(同節)」「神の御心に従って(27節)」という働きが、キリストの働きと考えてもおかしくなく、むしろ、聖霊よりもキリストの方がふさわしいと思えるからで、私もこの解釈に賛同します。

 特に「うめきをもって」というのは、ギリシア語の「スプランクニゾマイ」、直訳すれば「はらわたが痛む」、福音書では「深い憐れみ」と訳されている言葉に対応していると思われます。イエスは「はらわた」から絞り出すような「うめき」をもって、私たちのために神に「執り成して」くださるのです。

 それは私たちが「どう祈るべきか(26節)」を知らないほどに、神の思いではなく、自分の思いに従って生きている「信仰の薄い者(マタイ6:30)」だからです。神の思いをわかっていないから、神の思いにかなう「祈り」ができずに、自分の思いや願望に従って祈ってしまうのです。

 けれどもこんな、信仰の薄い私たちをイエスは怒ることなく、憐れんでくださるのです。そして、どうしようもない私たちだからこそ、キリストを「うめかせる」ことになってしまうのです。

「人の心を見抜く方(27節)」である神は、「〝霊(キリスト)〟の思いが何であるのかを知っておられます」とパウロは書いています。「キリストの思い」とは、こんなに弱く、罪深い私たちであっても、必死になってかばい、救おうとされているキリストのうめきを伴う「思い」であると思います。

 私たちは、このような「キリストの思い」に少しでも、応えて行かなければなりません。キリストの「うめき」を「喜びの声」に変えることができるように。

 キリストの「喜び」とは、私たちが神に立ち返ること、それ以外にはありません。私たちはまず、その「思い」を心に深く受けとめましょう。

福音朗読「マタイによる福音13章24―43節」

本日の福音「マタイによる福音13章24―43節」は先週の福音「種まきのたとえ」の続きです。「別のたとえ」という導入句に続いて三つのたとえが語られますが、すべて「天の国」のたとえであることが明確に述べられています。「天の国」はマタイだけの表現で、他の三つの福音の「神の国」と全く同義です。

本日の福音でも、先週の福音のように「毒麦のたとえ」についてイエスご自身が弟子たちに説明しています(37―43節)。この説明も先週の「種まきのたとえ」の説明(18―23節)と同じように、初代教会の解釈と考えられています。本日の「毒麦のたとえ」では、「終末における裁き」に重点が置かれています。

良い麦と毒麦が明確に区別されていて、良い麦は「父の国(天の国)で太陽のように輝く(43節)」。毒麦は「燃え盛る炉の中に投げ込ませる(42節)」というように裁きが行われます。この解釈は先週と同じく、紀元80年代頃の初代教会が激しい迫害にさらされていた状況が背景にあると考えられています。困難な状況にある信徒を励まし、勇気づけるためであり、終末においてキリストを信じる者は救われ、迫害している者たちは滅びるという解釈は、当時の時代の信徒にとって「福音」であったと思います。

 

ただ、現代に生きる私たちがこの解釈を読んで思うのは、「人間をこうまで単純明快に、勧善懲悪のドラマのように『良い麦』と『毒麦』に区別してよいのだろうか?」という疑問ではないでしょうか。

私たちはみんな、「中途半端」な人間だからです。「善」と「悪」の間を行ったり来たりしていて、どちらの側にも完全に至ることができません。もちろん、私たちは「善」の方に、キリスト者である私たちにしてみれば「神の思い」「キリストのように生きる」方向に向かって歩んで行きたいと願っています。 

けれども、自分の弱さのゆえに絶えず悪の方向に傾いて行ってしまうのです。

ですから、そんな情けない自分に思わずうめかずにはいられないのです。

けれども、第二朗読でパウロが書いていたように、〝キリストの霊〟はそんな私たちと一緒になってうめいてくださり、父である神に執り成してくださるのです。これが、私たちにとっての希望であり、慰めなのです。

いずれにしましても勧善懲悪のドラマのように、簡単に「善」と「悪」というように分けることができないのが私たちであると思います。

この「毒麦のたとえ」の解釈で、現代の私たちがしてはならないことは、具体的な「誰か」を「毒麦」であると決めつけることであると思います。

それは、私たちが誰かのことを「悪」と決めつけて、裁いてしまうことは間違っていると思うからです。

世の裁判においても、被告を「有罪」とするためには十分な証拠が必要とされます。もし証拠が不十分であれば、どんなにあやしく見えようとも「無罪」となるのです。それは「冤罪」という、無実の人が有罪とされて、時には死刑執行によって生命を奪われてしまうような、あってはならない事態を防ぐためです。

だとしたら、私たちは人を判断するうえにおいて、十分な「証拠」を持っていると言えるでしょうか。多くの場合、自分と接しているときの「相手」のことしか知らないのです。

その人が生まれてから今日に至るまでどのような人生を送ってきたのか、どんな家庭環境であるのか、他の人に対してはどのように接しているのか、多くのことに関して、ほとんど情報を持ってはいません。何より、私たちには他者の心の中を知ることができません。「見た目」だけで判断しがちなのです。

決定的に「証拠不十分」です。私たちには他者を裁く資格も権利もないのです。裁けるのは神だけ、私たちの心の中までも全て知っておられる神だけなのです。

 

「良い麦」と「毒麦」のいずれかに完全に該当する人はいないのです。むしろ、私たちは誰もが「良い麦」と「毒麦」の両方の「要素」を持っています。時に「良い麦」であり、時に「毒麦」となるのです。

そう考えて本日のたとえを読むと、ポイントは次のみことばだと思います。

「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい(29節)」

 ここには、神の私たちにたいする寛容と忍耐強さが表現されているのです。

 第一朗読にも、こう書かれていました。

「力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、

 大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる(12章18節)」

 神は私たちを簡単に「毒麦」とは判断されないのです。私たちの全て、弱さをもご存じなのです。裁きではなく、深い慈しみを注いでくださいます。ですから、同じ過ちを何度も繰り返してしまう私たちの「罪」を見られるのではなく、それゆえの「うめき」に心をとめてくださるのです。

 そして、寛容な心で忍耐強く、待っていてくださるのです。

 こんな「毒麦」のような私たちがいつか「良い麦」になることを信じて、待っていてくださるのです。だから「育つままにしておきなさい」と言われるのです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイ5章45節)」

 これが「天の国」なのです。簡単に人を裁かない、切り捨てない、慈しみをもって、弱い私たち、自分勝手な私たちを包み込んでくださる神の愛が満ち溢れる世界です。私たちも「神の国」をもたらすために、人を簡単に裁かず、切り捨てず、共に生きていく教会共同体を目指して行きましょう。