カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「イザヤの預言55章10―11節」
本日の第一朗読にこの箇所が選ばれているのは、「わたしの口から出るわたしのことば(11節)」が、本日の福音の「御国の言葉(マタイ13:19)」に対応していると考えられるからです。
福音では「御国の言葉=神の言葉」は「種」にたとえられていますが、イザヤでは「雨も雪も(10節)」にたとえられています。「雨や雪」が「天から降れば、大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える(10節)」ように、「神の言葉」も「神の口から出れば」、私たちの心を潤し、養い、豊かな交わりをもたらしてくださるのです。人類の歴史を、社会を、神の望みに従うように働きかけ、導いてくださいます。
また、今日のイザヤの箇所を、新約の光に照らして読み込む解釈があります。
それは「わたしの言葉」を「イエス」として読み込む解釈です。
「ヨハネによる福音」の冒頭で「言(ことば)は肉となって(14節)」と言われているように、イエスは「神のことばが人間となった」方なのです。
それに従えば、「わたしの口から出る」は「三位一体の神の中から出る」というように読み取ることができます。
さらに、「天から降れば」は「三位一体の神の座から地上に降臨された」というように「主の降誕」を、「天に戻る」は「天に昇って神の右の座に着き」というように「主の昇天」を表していると読み込むことができます。
そして、「神の言葉=イエス」は十字架の死によって、「神の望むことを成し遂げ、神が与えた使命を果たした」のです。
第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙8章18―23節」
パウロは「被造物は虚無に服しています(20節)」と書いていますが、これはカトリックの教義にも反映されていますが、キリスト教では人類以外の被造物は山や川といった自然物だけでなく、生きている動物にも「霊魂」は存在しないというように考えているからです(犬や猫などのペットを飼っている方がたには不服であろうと思えますが)。ただ、「霊魂」はありませんが「生命」はあると考えていて、「生命」は人間のものであれ、動物のものであれ、変わることなく尊いものであると考えています。
そして、パウロはそのような被造物であっても「希望」を持っていると語ります。それは「滅びへの隷属からの解放」への「希望」であり、それは「神の子とされること(23節)」への「希望」なのです。
大切なことは被造物にとって「神の子」とされるためには、「神の子たちの現れる(19節)」ことが必要であり、そのためにそれを「切に待ち望んで(同節)」いるのです。つまり、私たちがまことの「神の子」となることによって、この世界のすべての被造物も「神の子」となることができるということです。
パウロは私たち人類には、被造物を救う責任があると言っているのだと思います。それは創世記の天地創造における神の言葉、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを(人間に)支配させよう(1:26)」に基づいた信仰であると思えます。「支配」は、人間が被造物を自分の都合のいいように利用し、搾取することではありません。神の支配が「愛と慈しみ」であるように、私たちも「愛と慈しみ」をもって、被造物を守り養うことなのです。
ですから、パウロにしてみると、私たちの救いは被造物の救いにもつながっていて、「虚無に服する被造物」はただひたすらに私たちが「神の子」として救われることを待ち望むことしかできないのだから、この全宇宙の救いのためにも、私たちは「神の子とされる」ように、神の思いを求めて祈り、働くことこそが、
神から与えられた「被造物にたいする使命」を果たすことになるわけです。
これは、後にアッシジのフランシスコによって、そして前教皇フランシスコによって受け継がれて来た「全被造界との高潔な兄弟愛(『ラウダート・シ』221)」
に基づく救済論であると思えます。
「知性と愛を授けられ、キリストの充満に引き寄せられている人間は、すべての被造物を創造主のもとへと連れ戻すよう召されています(『ラウダート・シ』83)」
ただ、今の私たち人類は被造物にたいして「高潔な兄弟愛」どころか、人類のための「消費物」「消耗品」であるかのように、搾取と破壊を行い続けています。これは神が私たち人類に託された「使命」を無視するどころか、踏みにじるような行為であるとしか、言いようがありません。前教皇フランシスコが何度も訴えていたように、私たち一人ひとりに「エコロジカルな回心」が必要なのです。
福音朗読「マタイによる福音13章1―23節」
本日の福音「マタイによる福音13章1―23節」は「種まきのたとえ」として、よく知られている箇所です。多くの人はこのたとえ話の「種」を「神のみことば」、「種」がまかれた「土地」を私たち自身の信仰のあり方として解釈されていると思います。なぜならそれは18節以下でイエスご自身が自ら語られている解釈に基づいているからです。
けれども皆さん、この18節から23節のイエスご自身の口から出たものとされている解釈はイエスご自身のものではなく、実は「マタイによる福音」の書かれた時代(およそ紀元80年ごろ)の初代教会の解釈であるというのが、現代の聖書学の定説となっています。
まずたとえ話と比較してみると、たとえでは「種」がどのような運命をたどるのかに主眼が置かれています。鳥に食べられる、枯れてしまう、茨にふさがれて芽を出せない、実を結んだ、というように。
けれども18節からの解釈では「種」ではなく、まかれた「土地」に主眼が移されています。そしてその「土地」が「御国のことば(19節)」を聞いた人びとの受け止め方とそれがもたらす運命のたとえとされています。そもそもたとえ話では「種」が「御国の言葉(神の言葉)」であるとは言われていません。
それでは初代教会はイエスのたとえ話の間違った解釈を、イエスの言葉として書き記す過ちを犯してしまっているのでしょうか?
違います。まず福音書の他のたとえ話を読んでわかることは、イエスはたとえ話を人びとに投げかけるだけで、その意味を語っていないということです。イエスの思いは、たとえ話を聞いた一人ひとりが自分で「答え」を見出してほしいということにあったのであろうと思います。なぜなら、一人ひとりの人格や状況の違いに応じて、たとえ話の意味も変わってくるからです。仮にどんなにすばらしい「解釈」であっても、それが自分の心に、人生に響かなければ、何の意味もないからです。
イエスの言葉である「福音」は、聞く人の人生を照らし、揺り動かし、導くのです。ですから「答え」はひとつではありません。一人ひとりが自分の人生を、現在の状況を照らし出してくれる「光」となる「答え」を見つけ出せばいいのです。それでこそ「たとえ話」は「私にとっての福音」となります。
18節からの解釈もまさに当時の初代教会の苛酷な状況を照らし出し、力を与える「光」だったのです。そのころ、ユダヤ教の中でイエスをキリストと信じ宣教するユダヤ教徒への迫害が激化していたからです。
「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる(マタイ10:17)」
「わたしの名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる(マタイ10:22)」
キリスト者は同胞であるユダヤ人から、時には家族からさえも迫害を受けていたのです。そのような状況の中にあって、キリストへの信仰に踏みとどまりなさい、「良い土地(23節)」になりなさいと励ますために、このたとえ話からこのような解釈、「光」を読み取ったのです。
私たちもこのように、自分の状況や社会の状況に応じて、たとえ話を、みことばを読み取っていくことが必要です。それはみことばを「過去」のものではなく「現在化」することです。みことばは絶えず新しい状況の中に受容され、解釈されることを通して、「生きた神のことば」として働き続けるのです。そのダイナミックは聖霊の働きによってもたらされます。私たちはみことばを単に読むのではなく、祈り、黙想の中で聖霊の光に照らされつつ、神のことばの中に浸されるのです。その中で「光」を見出すことができます。
その「光」を見出すためのヒントとなるような、ひとつの解釈を皆さんに紹介したいと思います。それはレオ14世が2025年5月21日に行った最初の一般謁見講話で、教皇はこの「種まきのたとえ」を取り上げたのです。
教皇の解釈の独自性は「種をまく人」に焦点を当てたことです。教皇はこのたとえ話の「種をまく人」を「かなり変わった人」だと言います。それは「石地」や「いばら」は見ればわかりますから、「普通の人」なら蒔いても芽が出ないだろうと考えて蒔きはしないはずなのです。ところがこの「種をまく人」は無駄になることがわかっているのに、「種を蒔く」のです。教皇は語ります。
「この『浪費的』な種まく人が種を蒔く仕方は、神が私たちを愛する仕方のイメージです。たしかに、種の運命は、土地がそれを受け入れる仕方と、種が蒔かれる状況にも左右されるということは本当です。ですが、このたとえ話でイエスが何よりもまず私たちに語っているのは、神がご自分の御言葉の種を、あらゆる種類の土壌に、すなわち私たちのどんな状況にも蒔くということです」
教皇は、「種まく人」の過剰なまでの惜しみなさ、気前の良さに着目し、その「浪費的」と言えるほどの惜しみなさが「神が私たちを愛する仕方のイメージ」だと言うのです。神は本当に、惜しみなく、「浪費的」なほどに、私たちに「愛」をふりそそいでくださるからです。
「神は遅かれ早かれ種が実を結ぶだろうことを信頼し、希望しています。これが神が私たちを愛する仕方です。すなわち、神は私たちが最良の土壌になるのを待つのではなく、常に寛大にご自身の言葉を私たちに与えてくださいます。ひょっとすると、神が私たちを信頼しているのを見て、より良い土壌になりたいという願いが私たちのうちに燃え立たせられるかもしれません。これが希望であり、それは神の寛大さとあわれみという岩の上に築かれているのです」
「道端の土地」「石だらけの土地」「茨の中の土地」「良い土地」は、私たちのその時、その時の「霊的状態」なのです。私たちは時に「石だらけの土地」になることがあれば、「良い土地」である時もあるのです。私たちの信仰の歩みはいわば「行ったり来たり」なのです。完全に「悪い土地」の人も、完全に「良い土地」の人もいません。私たちは、その時々によって、「良い土地」「悪い土地」になるのです。でも、神は私たちが「悪い土地」のような霊的状態であっても、「御言葉の種」を蒔いてくださるのです。私たちが「良い土地」にならなければ「蒔いてもらえない」ではないのです。神の「愛」は無償であり、無条件であり、いつも、私たちに「一方的」に与えられるからです。
*このレオ14世の最初の一般謁見講話については、山本芳久さんの著作「ローマ教皇―伝統と革新のダイナミズム(文春新書)」から引用させて頂きました。カトリックに関してのすばらしい入門書でもあります。ぜひ、ご一読を。
