カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「ゼカリヤの預言9章9―10節」
本日の「聖書と典礼」の2頁の下の注釈にも書かれてあるように、「ゼカリヤの預言」は1~8章と9~14章とで内容が違っていて、異なる預言者によるふたつの預言がまとめられていると考えられています。聖書学では便宜的に、前半を「第一ゼカリヤ」、後半を「第二ゼカリヤ」と呼んで区別しています。
「第一ゼカリヤ」は紀元前520年代に活動したと考えられています。10年ほど前の紀元前539年、ペルシア王キュロスの勅令によって、ユダヤの民はバビロンの捕囚から解放され、エルサレムに帰還することができました。けれども、城壁は破壊されたまま、町は荒廃したままで、神殿は跡形もなく破壊されているような惨状でした。その中にあって第一ゼカリヤは人びとに神殿再建の必要性を強く訴えていて、いわばそれが預言のテーマになっています。
第二ゼカリヤは、その神殿が再建された520年以降に書かれたからか、神殿再建というテーマはもはや出て来ません。第二ゼカリヤでは「見よ、主の日が来る(14:1)」というように、黙示文学的な「主の日」の到来がテーマになっています。その「主の日」に、本日の朗読箇所にあるように、「神に従うまことの王」が来ると第二ゼカリヤは預言します。
本日の箇所がよく知られているのは、典礼暦A年の「受難の主日(枝の主日)」の「主のエルサレム入城の記念」に読まれる「マタイによる福音」の5節に本日の箇所の9節が引用されているからです。他に「ヨハネによる福音」の並行箇所(12:15)でも同様に引用されています。
本日の「神に従うまことの王」がやがて「メシア」へと発展して行きますが、イエスの時代に広く信じられていた「メシア」とは明らかに異なっています。イエスの時代のメシアはユダヤの民をローマ帝国から解放し、さらに「神の民」による世界の支配を実現する「メシア」であり、それはこの世的な、軍事的、政治的な「王」としてのメシアでした。
けれども本日の「王」は明らかに「軍事的・政治的」な王ではありません。それは「ろばに乗って(9節)」来ることによって明示されています。「ろば」は庶民の使用する乗り物であって、「平和」「貧しさ」などの象徴になります。対して「軍事力」「政治的権威」の象徴が「馬」であったのです。イエスの時代、最高権力者であったローマ皇帝は、軍事的勝利を成しとげての凱旋式にあって、必ず、きらびやかな軍馬に乗ることによって、自分が「軍事」「政治」の頂点に立っていることを示していました。
けれども、ろばに乗ることによって「神に従うまことの王」は軍事力によって支配する王ではないことを示します。ですから、10節以降、「軍馬を絶つ」「戦いの弓は絶たれ」「平和が告げられる」と書かれているのです。
「神に従うまことの王」は「平和」によって「支配」するのです。
おそらく、マタイやヨハネ以前に、イエスご自身が本日の朗読箇所をよくご存知で、自らこそがこの預言書に書かれている「神に従うまことの王」であることを示すために、ろばに乗られてエルサレムに入城されたと思われます。
本日の第一朗読にこの箇所が選ばれているのは、「高ぶることなく、ろばに乗って来る(者)」が福音朗読の「柔和で謙遜な者(29節)」に対応すると考えられているからです。実際、「聖書と典礼」の3頁の注釈にあるように、「高ぶることなく」は「『貧しい』『柔和』とも訳せる」からです。
第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙8章9、11―13節」
パウロはローマの教会の信徒に向かって「あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます(9節)」と書き送ります。
パウロの書簡を読むに当たって、押さえておかないといけないポイントのひとつに「肉と霊」があります。「聖書と典礼」4頁の注釈にも書かれていますように、それは「肉体と霊魂」の意味ではありません。初代教会の時代のローマ帝国に浸透していたギリシア文化、また多くの文化(日本も含まれると思います)では、人間を「肉体」と「霊魂」という二元論的な存在として捉えていると言えます。そして、しばしば両者は対立関係にあるとし、「肉体」は「霊魂」に対して劣ったものであると考えられています。
けれども、キリスト教の母胎であるユダヤ教の文化には、このような二元論はありません。「肉体」と「霊魂」は切り離すことのできない、ひとつの「体」であるというように、人間存在を一元論的に考えます。
ですから、本日のパウロの言う「霊の支配下」にあるというのは「神中心の生き方」であり、対して「肉の支配下」にあるというのは「自己中心の生き方」というように「生き方」の問題なのです。
この「自己中心の生き方」は「自分自身の力によって生きようとする生き方」であるとも言えます。このような生き方をしている人びとが、本日の福音朗読における「知恵ある者や賢い者たち(25節)」に対応しています。
「知恵ある者や賢い者たち」を正確に表現するならば「自分を知恵ある者や賢い者と思い、高ぶっている人びと」になります。彼らの「知恵や賢さ」はあくまでも「人間的な」ものであって、絶対性のない不確実なものなのです。けれども、そのような人びとは「人間的な知恵や賢さ」によって、何でもできるという万能感を有し、自らを神のような者とします。このような人びとは神を必要としません。神に求めようとしません。自己完結した閉ざされた状態であり、神に自分を開くことがないからです。
その結果、人間として生きてはいても、「神の子の命」は死んでしまっているのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます(13節)」になり、いわば「生きた屍(しかばね)」の状態なのです。ただ、本人はそれを自覚できません。
「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます(同節)」は、「神に従って生き、自己に従って生きる人間的な生き方を絶つならば、あなたがたは神の子の命を生きることができる」というような意味であると思います。
福音朗読「マタイによる福音11章25―30節」
本日の箇所は、それまでの文脈の流れを抑えて読み込む必要があります。
直前の箇所(20―24節)で、イエスはガリラヤ地方の「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始め(20節)」られます。
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ・・カファルナウム(イエスがガリラヤ地方の宣教で拠点とした町)、お前は・・陰府(よみ:地獄)にまで落とされるのだ・・裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む(21―24節より)」
この激しい叱責は、イエスと十二使徒たちのガリラヤ地方での宣教の「失敗」が背景にあると考えられています。町々は、イエスと使徒たちの宣教を受け入れなかったのです。イエスにしてみると、人びとのために考えていた「宣教計画」の「挫折」であり、そのためイエスはこれらの町々を愛し、救いたいと思っていただけに、「悲痛」の思いをもって町々を激しく叱責されたと思えます。
ところが、続く本日の箇所において一転して、イエスは喜びをもって父である神をほめたたえるのです。ここには、神の子であるイエスの父である神への絶対的な信頼が示されています。
私たちはよかれと思って練り上げた計画が、人びとから拒否された時、自分が否定されたような思いになって、怒り、人を、また神をもうらむものです。けれども、イエスはご自分のお考えよりも、絶えず、神の思いを優先されるのです。また、どのような結果になろうとも、それが神からもたらされたものであるとして受けとめ、そこに神のメッセージを読み取ろうとされます。ですから、この「失敗」も神がその計画を「止められた」と考え、自分の計画ではなく、神の「ご計画」に従おうとされるのです。
イエスは「(福音を)知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しに(25節)」なることが神の思いであったと受け止め、その思いを全身全霊をもって受け入れ、従って行こうとされます。
「幼子のような者」とは、「知恵ある者や賢い者」を「自分自身の力によって生きようとする者」であるとするならば、その逆で「自分の力ではなく、神の力に頼って生きようとする者」であると言えます。「幼子」は自分一人で生きて行く力がないことを知っていますから、ひたすら親の愛情を信じ、それにすがって生きようとします。そのように、自分を神に完全にゆだねきって生きる者こそが、「父を知る(27節)」ことができるのです。
そして、28節から30節までの有名な、イエスの慰めに満ちた言葉が出て来ますが、「柔和で謙遜」と一般的に翻訳されている日本語が近年、問題視されています。釜ヶ崎で働かれている聖書学者の本田哲郎神父様が、この翻訳を「権威主義的」であると批判されたことが発端です。労働者と共に生きる本田神父様は「柔和で謙遜な人格者」であるイエスが上から目線で、私たちを見下ろしているような感を与えてしまうというように批判されました。
第一朗読で指摘されていたように、「柔和」は「貧しい」とも訳されます。また、「聖書と典礼」5頁の注釈にあるように「謙遜」の原文は直訳すると「心の身分が低い」になりますが、これが難解です。「社会的身分」ではない、「心の身分」が「低い」とは何を意味しているのかが、判然としないからです。
本田神父様は「小さくされた人々のための福音(新世社)」で「心底身分の低い者」と翻訳されて、「心の」を「心底」というように「強調表現」であると解釈されています。
また、「心の身分が低い」を「精神的に劣った者」というように解釈するのはおかしいと思います。「謙遜」という解釈も間違ってはいないとは思うのですが、私としても「謙遜」の語感が仰々しく、どこか尊大な印象を受けます。
個人的には、第一朗読に用いられている「高ぶることなく」がいいのではと考えています。「心の姿勢が低い」というような意味なのかなと思っています。
「柔和」を「貧しい」とするのは、実際にイエスは貧しく生まれ、もっともみじめに死んで行かれたのですから、いいのではないかと思います。
ですからここは、私としては、次のような意味に考えています。
「私は貧しく、高ぶらない者だから、わたしの軛を負い、私に学びなさい。」
イエスは、私たちを上から見下ろして指導するのではなくて、いつも下から支えてくださり、「友(ヨハネ15:15)」として寄り添ってくださるのです。
「軛」とは、「田畑を耕すために牛などの家畜の肩にかけられた棒状の器具で、熟練者が軛と牛を操れば、耕された田畑にはその後がまっすぐ、直線的に残った(山下敦神父『福音宣教2026年7月号63頁』)」
イエスの軛を負うというのは、イエスによって「操られる」「導かれる」ということなのです。牛が熟練した農夫に安心して身をゆだねることによってまっすぐ進めるように、私たちもイエスの御手に自分を幼子のようにゆだねきったら、父なる神に向かってまっすぐに進んで行くことができると思います。
