カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「列王記下4章8―11、14―16a節」
預言者エリシャは、預言者エリヤの弟子に当たります。エリヤは紀元前9世紀の北イスラエル王国で活動しました。その当時の王はアハブで、シドンの王女であったイゼベルを后として迎えました。イゼベルは自国のバアル神やアシエラ神への信仰をイスラエルに持ち込み、何百人というバアル信仰の預言者をシドンから呼び寄せ、バアルやアシエラの神像が祀られている神殿を建造し、イスラエルの民にも礼拝を強要しました。エリヤはそれをきびしく批判し、イスラエルの神に立ち帰ることをアハブ王に要求しましたが、王は聞き入れず、エリヤの晩年はイゼベルの送り出す軍隊からの逃亡の日々となりました。エリヤはエリシャに後継を託した後、炎の馬車に乗って、天に帰って行きました。
エリヤとエリシャに共通するのは、数多くの奇跡を行ったことです。エリヤでは、カルメル山において、バアルの預言者450人と「祈り合戦」と言えるような戦いを行い、エリヤは祈りによって天から火を降らせて牡牛のいけにえを焼き尽くし、みごとに勝利しました。
エリシャでは、アラムの軍司令官ナアマンの重い皮膚病を、ヨルダン川に身を浸させることによって治癒させた奇跡がよく知られています。
本日の箇所では、北イスラエル王国の北部の町シュネムの裕福な婦人が自宅の階上にエリシャが休息するための部屋を造ってまで、エリシャをもてなします。それにたいしてエリシャは「彼女のために何をすればよいのだろうか(14節)」と言うと、従者のゲハジが「彼女には子供がなく、夫は年を取っています(同節)」と答えます。
当時のイスラエルだけに限ったことではありませんが、妻が子どもを産むことができないのは、神の祝福から除外されている、神から愛されていないためであると信じられていました。そのため、社会的に差別を受け、妻にとって「不妊の女」と言われることは大きな苦しみであり、それをゲハジは婉曲にエリシャに示唆したのです。
エリシャは来年の今頃、彼女が男の子を産むであろうことを彼女に告げます。
それは実現しました。「この婦人は身ごもり、エリシャが告げたとおり翌年の同じころ、男の子を産んだ(4章17節)」
第一朗読にこの箇所が選ばれているのは、本日の福音朗読のイエスの「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」という教えに対応させようとしているからです。
イエスの教えは家族愛を否定しているように思われるかも知れません。それに対して、第一朗読ではエリシャは裕福な女性への感謝として、息子を授けるという奇跡を起こします。もちろん、その奇跡はエリシャの力によるものではなく、エリシャはそれを神に祈っただけです。それを神が聞き届けられたということであって、彼女に息子を与えたのは神なのです。
このようにして、神が「息子」を与えることによって、彼女に「喜び」を与えたという出来事によって、家族愛は神によって与えられる大切なものであることを第一朗読によって示すことによって、福音のイエスもまた、家族愛を大切にしているということを先に私たちに示唆しようとして、この箇所が選ばれていると思います。
第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙6章3―4、8―11節」
本日の箇所では、パウロは「キリストの洗礼」について説明しています。
パウロは「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました(4節)」と語ります。
洗礼の秘跡において、司祭が受洗者の頭に聖水を注ぐのは「清め」のためではありません。それは、受洗者が水の中に沈められて「死ぬ」ことを表しているのです。単に「死ぬ」のではなく、「キリストと共に」、つまり「キリストの十字架の死」の中に沈められることなのです。
そこで死ぬのは「古い自分」です。それは、動物として弱肉強食を生きる自分、人間として自己中心的に生きようとする自分に死ぬことなのです。
そして、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです(4節)」とパウロは語ります。
「新しい命」とは、動物的、人間的ではない、「神の子」としての「命」です。洗礼の秘跡を受けることによって、聖霊の働きによって、私たちの命が神の子
の命に「復活」するのです。「キリストの死と復活」という「過越」が、聖霊によって私たちの中で「現在化」するのが「洗礼の秘跡」なのです。もちろん、「肉体」が変化するわけではありません。「霊」において、それが実現するのです。
パウロはしめくくりに「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい(11節)」と勧めます。「罪に対して死んでいる」とは「自己中心的な自分に死んでいる」とも言い換えられます。私たちの罪のほとんどは、自己中心的な生き方から生じるからです。
ただ、私たちは自分が「罪に対して死んでいる」とは、とても実感できないと思えます。洗礼の秘跡を受けていながら、絶えず罪を犯している自分がいるからです。それは「肉体」を伴って「地上」を生きているという「枠」の中に私たちが押し込められているからです。けれども、その「枠」の中でも、私たちは洗礼によって「天」の三位一体の神とすでに霊的につないで頂いたことによって、いつも「天」を見つめながら「地上」の旅路を歩んで行くことができるのです。
パウロは私たちがもうすでに「神に対して生きている」と言っているのではなく、それを「考えなさい」と言っているのです。私たちはまだ、完全に罪から解放されていないために、何度も罪を犯しますが、そのたびごとに、自分がすでに神の子の命を頂いていることを「思い起こしなさい」とパウロは言っているのだと思います。そして、少しでも「神の子」に近づけるように努力しなさいと励ましているのだと思います。
この箇所が第二朗読に選ばれているのは、「その死にあずかる」というのは「古い自分」に死ぬだけでなく、「古い家族関係」にも死ぬことであることを示唆して、福音のイエスの家族に関する教えを考えるためのヒントとするためではないかと思います。
福音朗読「マタイによる福音10章37―42節」
本日の福音も先週に続いて、イエスが十二使徒を宣教に派遣するに際して語った「派遣説教」の続きであり、しめくくりの箇所に当たります。
まずイエスは次のように使徒たちに言われます。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない(37節)」
イエスは家族への愛を否定しているのでしょうか。それは違います。イエスはけっして家族への愛を否定しているのではなく、「家族を愛する」以上に「わたしを愛しなさい」と言われているのです。ただ、そうであっても、何か釈然としない思いが残るのではないでしょうか。ある新興宗教の団体が信徒に家族よりも教団を優先させて、教団への奉仕や献金を強要するようなことが最近、社会問題化していただけに、なおさらのことです。
このイエスの教えを理解するためには、「マルコによる福音」の並行箇所を参照するのがよいと思えます。
「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、弟、姉、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける(10章29―30節)」
ここでイエスは「家族以上に私を愛しなさい」からさらに一歩進んで、「家族を捨てなさい」と言われています。けれども、「家族」を捨てることによって「今この世で」「家族」を「百倍受け」ると言われるのです。この「百倍」を弟や姉や母や父が「百人」もらえる、と考えるのはあまりにもばかげています。もちろん、イエスさまがそのようなことをおっしゃるわけがありません。
考えられるのは「人数」ではなく、「関係性」です。家族との関係が「百倍」になるほどまでに「豊か」になる、ということだと思います。
さらに「今この世で」ですから、その豊かな関係は新しい、別の家族とではなく、「今」の家族において実現すると言われているのだと言えます。
つまり、捨てるのは「家族」ではなく、「家族との古い関係」なのです。
「家族との古い関係」は「古い自分」によってもたらされていた「関係」です。「古い自分」とは、「第二朗読」で申し上げましたように、人間的な「自己中心的な自分」です。そのような自分が作り出すのは、「自分を中心とした、自分にとって都合の良い家族」です。
私たちはしばしば、家族との関係を作るうえで、そのような傾向に陥ってしまいます。よく指摘されるのは、親による子どもの「支配」です。親が、自分が考える「理想」の枠の中に子どもを押し込もうとすることです。
「こんな人間になってほしい」「こんな人間になれば幸福になれる」というように、自らの考える「幸福」を子どもに押しつけてしまい、それを「子どものため」であると考えます。その場合、子どもがそれを拒否したら、このように言います。
「私は、あなたのためを思って言っている。」
私たちはしばしば、「愛情」を「支配欲」や「独占欲」と取り違えしまいます。人間にとって本当の幸福とは、「自分らしく生きる」ことではないでしょうか。
そして、神は私たちひとり一人に与えられた「自分」を生きることができるように、私たちを導いてくださるのです。
そのような神の思いに従って、家族との関係を作って行くためには、やはり自己中心的な「古い自分」に死んで、キリストの命を生きることから始まります。
「キリストのため、福音のため」に己を捨てることによって、自己中心的な「家族関係」も捨てて、「福音的価値観」に基づく「百倍」もの豊かな「家族関係」を作ることができるようになるというのが、イエスの言いたかったことではないかと思えるのです。その「家族関係」においては、一人ひとりが自分らしく生きることができ、その「自分らしい生き方」を互いに尊重し合い、支え合う関係が実現できるのです。
つづく「自分の十字架を担って」というのは、「古い自分」を十字架につけることであると言えると思います。
「自分の命を得ようとする者(39節)」とは「自分を中心にして生きようとする者」と言えるでしょう。そのような者は、結局、「豊かな人間関係」も「豊かな生き方」も失ってしまうことになるのです。
「わたしのために命を失う者(同節)」は、パウロが言うように「キリストと共に古い自分に死んだ者」であり、そうしてこそ、私たちは「百倍」もの豊かな人間関係を、豊かな人生を、生きることができるようになるのです。