2026年6月21日 年間第12主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林 和則

 

 第1朗読は「エレミヤの預言」です。エレミヤは紀元前6世紀から5世紀にかけて、ユダ王国において預言者として活動しました。その時期において最大の歴史的出来事は紀元前586年のバビロニア王国の侵略によって、首都エルサレムが陥落し、神殿も完全に破壊されたことです。

このような国家存亡の危機において、王や官僚ら国家の中枢に位置する人びと、また一般民衆の多くは、エジプトからの軍事的支援によって、バビロニアを撃退できるという楽観的な展望にすがろうとしていました。

けれどもエレミヤは、エジプトからの支援は来ることはないと、ユダ王国の敗北を預言し、その後の屈辱的な捕囚の辱めについても受け入れるようにとユダの人びとに促しました。王や官僚たち、また民衆にとっても、エレミヤは敵に味方する「売国奴」のような存在に思われ、エレミヤを迫害しました。

 ユダの人びとのエレミヤへの迫害は次のような言葉で表現されています。

「彼は惑わされて、我々は勝つことができる(20章10節)」

 実はこの言葉は今日の朗読の箇所の直前の7節のエレミヤの神への祈りと「対」になっているのです。

「主よ、あなたがわたしを惑わし 

わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。

あなたの勝ちです(20章7節)」

 人びとを怒らせ迫害を招くような預言をするように命じて、エレミヤを困惑させたのは「神」です。ユダ王国の敗北、その後の捕囚という過酷な預言をすることが迫害を招くであろうことは、エレミヤ自身にもよくわかっていました。当然、彼はそのような預言を命じる神に、初めは抵抗しました。

けれども最終的に、エレミヤは自分の思いではなく、神の思いに身をゆだねます。エレミヤは、それを「あなたの勝ちです」と表現しています。それは敗北感ではなく、神に己の全てをゆだねるという「神への信頼」を、ある意味、神への親しみをこめて、ユーモラスに表現しているように思えます。

 対して人びとは、エレミヤは「悪霊」に惑わされて(だまされて)預言していると信じ、勝つのは「我々」だと豪語しています。

 エレミヤの「祈り」と人びとの「豪語」を対照させることによってわかることは、エレミヤは自分の思いではなく神の思いを優先し、人びとは自分の思い、願望を優先しているということです。

旧約、新約を通して、神のことばはしばしば、人間に対して容赦のない「現実」を突きつけます。それを受け入れたくない人びとは神の思いを拒否するばかりでなく、自分たちにとって都合の良いように神のことばを捏造しようとさえします。

ですから「神の勝ち」ではなく「我々(人間)の勝ち」だと誇ることによって、自分たちが神の思いではなく、自分たちの思いを中心にして生きようとしていることを自ら、さらけ出してしまっているのです。

 それに対してエレミヤは自分の思い、また民の思いを超えた神の思いを理解できなくとも、「神の勝ち」として「自らの負け」を認めます。つまり自分の思いを中心にするのではなく、神の思いを中心にして、そこに自分をゆだねていくのです。

 私たちも自分にとって都合の悪い「現実」を受け止めないで、否定し、認めようとしない傾向があります。けれども、どのような「現実」であっても、それを受け止めて、祈りを通してそこに「神の思い」「神のことば」を見出していくことが大切であると思います。むしろ、そのような不都合と思える真実の中にこそ、私たちへの「神の思い」が働いていることが多いと思えます。

 そして、旧約、新約を通して、神が私たちに突きつける容赦のない「現実」の頂点こそが「十字架」であると言えると思います。

 

第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙5章12―15節」

 本日のパウロの手紙の趣旨を理解しにくいと思う方は多いと思われます。

 それは、なぜ「一人の人(12節)」にすぎない「アダム(14節)」の犯した罪によって、全人類に「死(12節)」が及ばなければならないのかという疑問を感じられるのではないかと思われるからです。

 パウロたちの時代には、現代のように聖書を歴史的、学問的に考察することはあり得ませんでした。そのような聖書への学問的批判は19世紀初頭から始まったのです。ですから、パウロはアダムを実在した存在として考えていました。そのアダムは人類の最初の先祖「人祖」であり、パウロらは「子孫」としてアダムに「つながって」いて、そのためにアダムの犯した罪の結果も「つながって」行くと考えていたのです。

 ただ、現在の学問的批判による聖書解釈では、「アダムとエバの物語」は「人間とはどのような存在」であるのかを神学的に考察した「神学的人間論」が「神話」の類型を用いて語られていると考えられています。

「アダムとエバの堕罪物語でもわかるように、罪とは神に背を向けること、つまり神のことばやおきてに背くことです。それは神のようになるという人間の高慢によるものです(『カトリック教会の教え』カトリック中央協議会288頁)」

「アダムとエバの物語」は、このように「高慢(自己中心)」によって神に背いてしまう人間存在の普遍的なあり方を描き出していると解釈するのです。

 ただ、パウロが言いたいことの本題は「アダム」にあるのではありません。もう一人の「一人の人イエス・キリスト(15節)」にあるのです。

 本日のパウロの論述の背景には、パウロたちが「宣教」の対象者としていた、ギリシア文化の中で生きていた人びとから、次のような批判があったのではないかと思えます。

「なぜ、イエスが十字架によって死んだという事実のみによって、全人類が救われることになるのか?救いは一人ひとり、各人の努力によって達成すべきものであるはずだ。」

 そのために「アダム」の例を持ち出して、「一人(アダム)の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれる(15節)」という定義を導き出そうとしているのです。

 教皇ベネディクト16世は「教皇ベネディクト16世の161回目の一般教皇演説 人祖アダムとキリストの関係についてのパウロの宣教(カトリック中央協議会のホームページで閲覧可能)」で、本日の箇所について説明し、「キリストは新しいアダムです」と語っています。他の多くの教父、教役者もキリストを「新しいアダム」と呼んでいます。

 それは神の子が「一人の人」となったことによって、新たな人類の創造が始まったということです。「再創造」と言ってもよいでしょう。神はまず、「アダム」によって、人類を創造しましたが、「キリスト」によって、新たな人類の創造が始まったのです。それ以降、今に至るまで、キリストの洗礼を受けた者は「新たな人類」となったのです。

 

福音朗読「マタイによる福音10章26―33節」

 先週のマタイによる福音9章36節から10章8節ではイエスが12使徒を選び出し、宣教に派遣します。10章5節からは派遣するに際して宣教者の心構えについて教える「派遣説教」が語られ、今日の箇所もその中の一部に当たります。

 本日の26節から31節までのテーマは「恐れるな」です。それは32節から33節における信仰告白を言い表すための準備になっています。

「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す(32節)」の「仲間であると言い表す」は新約聖書においては「イエスが主であることを公然と宣言する」という意味のいわば「信仰宣言」として用いられています。

マタイの福音書の成立は80年頃と考えられています。その10年ほど後に成立したとされているヨハネの福音書には以下のような記述があります。

「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公然と言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである(9章22節)」

「既に」にはマタイの福音書の時代も含まれていると考えられます。「会堂からの追放」は「ユダヤ社会からの追放」も意味します。「イエスの仲間であると言い表す」ことはそのような危険、迫害を伴う宣言であったのです。

 ですからイエスは12使徒にだけではなく、マタイによる福音書の時代のキリスト者に対しても「恐れるな」と呼びかけているのです。

 その根拠として、イエスはふたつのことを言われます。

 ひとつはキリスト者を迫害する人びとは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者ども(28節)」だからです。人は他者の体は殺せても、その霊魂を殺すことも、奪うこともできません。霊魂は神から来て神に帰る、神のものだからです。

 もうひとつは私たちへの神の愛です。

「だから、恐れるな。

あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている(31節)」

「まさっている」というのは、私たち人類の方が雀たちよりも生物として優れている、という意味ではありません。神は「命」に優劣をつけません。雀であっても「父のお許しがなければ、地に落ちることはない(29節)」というのは、雀の命にも心を配られ、その小さな命が意味もなく奪われることを許されないほどに、神が雀を愛しているということです。

 そしてその雀にたいするよりも「はるかにまさって」私たちを愛してくださっているのです。それほどまでに愛されていながら「恐れる」ことは神の愛を「信じていない」こと、神の愛に「背く」ことになります。

 

けれども、もし現代の私たちが初代教会のような「迫害」を受けたとしたら、イエスを「私の仲間である」と人びとの前で言えると断言できる人は少ないと思えます。だとすれば、私たちはイエスから「知らない」と言われてしまうことになるかも知れない・・・と不安になってしまう人も多いかと思います。

でも、私たちにとって、ペトロが「慰め」になるのです。ペトロはイエスが逮捕された時、逃げ出しながらもこっそりとイエスの後をつけて行きます。

そして大祭司の屋敷の中庭に入ったペトロは人びとから「確かに、お前もあの連中の仲間だ(マタイ26:73)」と問いただされて、「知らない」と三回も言ってしまいました。ペトロはまさに、今日のイエスの「派遣説教」を聞いていたのに、みごとに失敗してしまったのです。

それでイエスはペトロにたいして「おまえなど知らない」と言われたのでしょうか。いいえ、ペトロに三度、「愛しています」と言わせて(ヨハネ21:15―19)、その罪を帳消しにして、赦してあげたのです。

きっと、イエスは私たちが何度失敗しても赦してくださり、立ち直らせてくださるのです。