カトリック香里教会主任司祭:林和則
*本日の第一朗読、第二朗読、福音朗読に共通するキーワードは「今」であると思えます。
第一朗読「出エジプト記19章2―6a節」
モーセとイスラエルの民はエジプトを脱出してから三ヶ月後、シナイ山のふもとの荒れ野に到達し、天幕(テント)を張って宿営しました。
「モーセが神のもと(シナイ山)に登って行くと、山から主は彼に語りかけて(3節)」言われます。
「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを(4節)」
神はイスラエルの民に、神が直接、御手をくだしてエジプト人を打ち、民を御手の中に抱くようにして御自分のもとに連れて来たことを思い起こすようにと言われます。それを深く思うことによって、神が直接、御手をのばして民をエジプトの奴隷状態から救い出すまでに、イスラエルの民に深く心をかけておられることを(『わたしの宝(5節)』と言われるまでに!)実感することができるようになるためです。
それが実感できた時が「今(5節)」なのです。その「今」が来たことによって、民は神の声に心を開き、聞き従うことができるようになるのです。自らの体験から得た「実感」なくしては、その「今」は来なかったと言えます。
神は御自身の愛を民が実感できるように、この「出エジプト」という「体験」を民に与えられたのだと思います。神は本当に私たちが想像できないほど、私たち人間を深く愛してくださっていて、まさに「手を変え品を変えて」、懸命にご自分の愛を伝えようとしてくださるのです。
私たちの人生にも、神のそのような「御手」の跡がたくさん残されていると思います。それを思い起こし、神の「御手」が私を導いてくださっていることを実感できたならば、自ら進んで神の声に聞き従おうとする「今」が来ると思います。
第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙5章6―11節」
第二朗読では、「今」が三度も使われています。
まず、冒頭部分ですが、意味をつかみにくいのではないかと思えます。それは「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません(7節)」という表現です。
「正しい人」というのは、一般的な意味で使われているのではありません。聖書において「正しい人」は「律法を守っている人」という意味になります。「律法を守っている人」はユダヤ教的には神の思いに忠実に従おうとする「立派な人」ではあるでしょうが、「私」と関わりがなければ、「私」にとっては「価値のない人」であって、そのような「正しい人」のために死ぬような人はいないとパウロは言っているのです。
それは暗に、律法を守っているだけで、隣人と関わらない、愛そうとしない自己完結的な「律法主義者」を批判していると考えられます。パウロも復活のキリストと出会うまでは、そのような「律法主義者」であったからです。
「善い人」も「善い・悪い」というような意味ではありません。「自分にとって善い人」という意味が込められています。ちょっとイヤミな言い方をすれば、「自分にとって利益をもたらしてくれる人」であると言えるかも知れません。ただ、「利益」というのは「物質的」な金銭とかいったものだけでなく、「精神的」な喜びを与えてくれる、愛し合う関係にあるような人であるとも考えられます。だからこそ、そのような「善い人」のためには、「命を惜しまない者ならいるかもしれません」とパウロは語っているのです。
そのような人間的な思いを前提にしつつ、キリストは私たちが「正しい人」でもなく「善い人」でもなかったのに「わたしたちのために死んでくださった(8節)」ことを私たちに教えようとしています。
私たちが「弱かった(6節)」、「不信心な者(同節)」「罪人(8節)」であった、さらには「(キリストの)敵(10節)」であったとパウロは断言しています。
「キリストの敵」は、キリストの思い(福音的価値観)に背き、自己中心的な思いから罪を犯す私たちを指しています。キリストは私たちを愛されているがゆえに、そのような私たちの態度はキリストを悲しませ、苦しめることであり、まさに私たちは「キリストの敵」になってしまうのです。
けれどもキリストはそんな私たちのために死んでくださって、「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた(9節)」とパウロは語ります。「それで今や」という強調された「今」は、キリストの愛へのパウロの深い感謝と感動が込められていると思います。
「義とされた」は、「聖書と典礼」の4頁の注釈に書かれているように、「神に受け入れられる、の意味。10節の『和解』と同じこと」です。
ですから、パウロは「(神と)和解させていただいた今は(10節)」、「今やこのキリストを通して和解させていただいた(11節)」というように「今」と「和解」を結びつけるのです。
パウロにとって「今」とは、キリストの死によって神と和解させていただいた「今」です。しかも「今」もなお、私たちが「弱く」「不信心」「罪人」であるのにも関わらず、キリストは私たちのために死んでくださり、先に「和解」を与えてくださったのです。
この「今」を実感したならば、私たちは「主イエス・キリストによって、神を誇りとし(11節より)」キリストのために「命を惜しまない者」となって生きて行くことになると、パウロは自らの体験から得た実感をもって私たちに語りかけています。
福音朗読「マタイによる福音9章36節―10章8節」
本日の福音朗読は、マタイの福音の中での「十二使徒の派遣」の箇所が選ばれています。なお、「十二使徒の派遣」の記事は、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる「共観福音書」に書かれていて、ヨハネには書かれていません。また、ルカだけが「十二人」のほかに「七十二人の派遣(10:1―12)」を書き加えています。
マタイによる「十二使徒の派遣」は、その前提であるかのようにして、9章36節から38節までの「群衆へのイエスの深い憐れみ」が置かれています。
「深い憐れみ」と翻訳されている言葉は、ギリシア語の原文では「スプランクニゾマイ」です。この言葉は名詞の「スプランクノン」から派生しています。「スプランクノン」は、胃の下あたりの内臓を指しますから、腸に当たる箇所、いわゆる「はらわた」とよばれている部位です。その動詞形が「スプランクニゾマイ」で、直訳すれば「はらわたする」になります。これに近い日本語の表現は「はらわたが痛む」です。
イエスは単に「憐れむ」のではなく、「はらわたが痛むほど」、自らを苦しめるまでに、群衆を、私たちを憐れんでくださるのです。
「スプランクニゾマイ」は福音書の中ではイエスと、たとえ話におけるイエスや神のたとえとされている人物(マタイ18:21―35『仲間を赦さない家来』のたとえの『王』、ルカ10:25―37『善いサマリア人のたとえ』の『サマリア人』など)にしか用いられていません。人間が「スプランクニゾマイ」をすることはないのです。「スプランクニゾマイ」は、人間の「憐れみ」をはるかに超えた、神の無限大と言ってもよい「憐れみ」を表す特別な言葉なのです。
その「スプランクニゾマイ」がイエスの中であふれかえり、イエスを引き裂くような「痛み」から、イエスは十二使徒を宣教へと派遣するのです。
派遣に当たって、イエスは使徒たちに次のように命じられます。
「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい(5―6節)」
これを読むと、イエスはただ、イスラエル人への宣教だけを考えていて、他民族への宣教は考えていなかった、いわばイエスも当時のユダヤ人たちのように偏狭な民族主義者であったかのように思われてしまいます。
けれども、マタイの福音書の最後で、復活したイエスは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(28:19)」とすべての民族におよぶ宣教をはっきりと命じられているのです。
考えられることは、イエスは当初は「段階的な宣教」を計画されていたのではないか、ということです。
「失われた羊」は「神の民としてのアイデンティティーを失ってしまったイスラエルの民」のたとえであるというように考えることもできます。イエスはもう一度、イスラエルの民を「神の民」として取り戻そうとされた、最初の宣教は「宣教」というよりも、イスラエルの民の「刷新」ではなかったのでしょうか。
イスラエル人たちの「神の民」としての根拠は、「神のことばを与えられた民」ということにありました。それを文字化したのが、聖書です。
確かに神は、世界中の民族の中で「イスラエル」を「選び」出されて、「神のことば」を与えられました。ただ、その「選び」をイエスの時代のユダヤ人たちは「エリート意識」として捉えていました。「選ばれた神の民」である自分たちこそが世界を支配する「エリート」であるのだ、というように。その「エリート意識」に基づいた「メシア」の到来を待ち望んでいました。
けれども、神の「選び」は「エリート」「支配者」ではなく、いつの時代も、どこであっても、「奉仕者」への「選び」なのです。
イスラエルの民が「神のことば」を与えられたのはそれを特権として専有するためではなく、それを全世界の人びとに伝えて行く「奉仕者」となるためであったのです。イエスはユダヤの人びとを「神のことば」を伝える、まことの「神の民」として刷新し、その後、その「神の民」と共に全世界に向かって「宣教」をされようと計画されていたのではないでしょうか。
けれども残念ながら、人びとがイエスの思いを受け入れなかったために、イエスは「十字架」へと方向転換されたのではないでしょうか。
本日の福音の箇所には直接、「今」は出て来ません。けれども、次の箇所が「今」の時に当たっていると思えるので、『今』を入れてみます。
「『今』、行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい(7節)」
「天の国」は他の福音書における「神の国」と同じです。
『今』というのは、イエスの私たちへの「スプランクニゾマイ」がほとばしり出て、私たちがそこから押し出されるようにして、イエスから「宣教」に派遣されている『今』なのです。
このように考えれば、私たちにとって、絶えず『今』なのです。絶えず、私たちはイエスから宣教に派遣されているのです。それは権威的な「命令」ではなく、イエスの私たちへの「はらわたが痛む」ような「深い憐れみ」から発している、イエスの「祈り」であり、私たちへの必死の「願い」であるのです。
