2026年6月7日 「キリストの聖体(A年)」のミサ 説教の要約

 

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

 5月の17日の主日から、今日の主日まで四回にわたって、典礼暦では「祭日」とされている主日を、私たちは祝ってきました。「主の昇天」「聖霊降臨」「三位一体」、そして本日の「キリストの聖体」です。

この四つの祭日のつながりは、神の救いのご計画の中の頂点とも言える、大切な神秘の関連性を示しています。

 神の子が「人間イエス」の体を受けられたまま、神の子の座に戻られた「主の昇天」によって、「天(父と子と聖霊の愛の交わり)」の中に、私たちのための「門」が開かれました。

また、神の子が戻られたことによって、今度は「聖霊」が私たちの中に「降臨」され、それによって、私たちは地上に生きながらも、「天」である「三位一体の神」とつながることができました。

 そして私たちにとって、まさに「天国」である「三位一体の愛の交わり」に向かう信仰の旅路を歩むために、神が与えてくださった、まことの命の糧こそが、今日お祝いする「キリストの聖体」なのです。

 

「キリストの聖体」には、ふたつの側面があります。

 ひとつは、「神のことば」としての「聖体」です。

「ヨハネの福音書」の冒頭において、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた(1:14)」と書かれています。

また、「ヘブライ人への手紙」では、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(1:1―2a)」と書かれています。

表現は違っても、「ヨハネ福音書」も「ヘブライ人への手紙」も、同じ「受肉の神秘」の意味を伝えようとしています。イエスが人間となられたのはまず、神が御自分の思いを「人間イエス」を通して人間に伝えようとされたからでした。  

いわばイエスは、神の思いを伝える「生きた神の言葉」であったのです。

もうひとつは、「最後の晩さんの記念」である「ミサ」を通して与えられる「秘跡」としての「聖体のパン」です。

ミサはこの「聖体」のふたつの側面を包含するために、前半の「ことばの祭儀」と後半の「感謝の祭儀」のふたつの祭儀を有しているのです。

私たちは「ことばの祭儀」によって、「神のことば」としての「聖体」を、「耳」から「拝領」します。そして「感謝の祭儀」においては、「パン」としての「聖体」を「口」から「拝領」するのです。

私たちは「感謝の祭儀」の「聖体拝領」に重きを置きがちですが、「ことばの祭儀」での「聖体拝領」、すなわち、「神のことば」をしっかりと聞いて味わって、自分の心の中に深く受け止めることができてこそ、「パン」としての「聖体」が私たちの中で、より豊かに働いてくださるようになるのです。

「神のことば」と「秘跡のパン」、このふたつがひとつになってこそ、「キリストの体」であるのです。

 

第一朗読「申命記8章2―3、14b―16a節」

 第一朗読では、「神のことば」としての「聖体」について書かれています。

「申命記」は、モーセとイスラエルの民が40年間の荒れ野での旅を終えて、いよいよ対岸に「約束の地」を目前にした、ヨルダン川東岸の地が物語の舞台として設定されています。

 モーセはイスラエルの民に「この四十年間の荒れ野の旅を思い起こしなさい(2節)」と呼びかけます。荒れ野での「放浪」と言ってもよい旅路での日々はけっして無駄な時間であったのではなく、民がまことの「神の民」となるための「試練」の時であったのです。その神が与えた「試練」の目的をモーセは次のように民に語り聞かせます。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった(3節)」

 私たちは「肉体的な飢え」については空腹感によって、意識することなく感じることができます。けれども「霊的な飢え」については、私たちは意識しなければ、感じることができないのです。特に私たちが物的に満たされていると、その満足感にごまかされてしまって、「霊的な飢え」に気がつかず、霊的に鈍くなってしまうのです。人間は食物や財産や、社会的な地位に満足してしまうと、霊的な飢え渇きに気がつかず、霊的に満たされることを求めなくなってしまうのです。

 そのひとつの例が、豊かな国ほど信仰生活がおろそかになり、貧しい国ほど、信仰生活が豊かに活発になるという、古来からの歴史的な現象があります。

 そのために、物的な価値がすべて失われてしまう「荒れ野」での旅が必要であったのです。そこでは物的な満足を得られないだけに、まどわされることなく霊的な飢え渇きを意識できるようになるのです。

 神は「硬い岩から水を湧き出させ(15節)」「マナを荒れ野で食べさせてくださった(16a節)」というように、最低限必要な肉体的な糧を与えつつ、民にまことの糧、「神のことば」に民の意識を集中させようとしたのです。

 私たちもこの世的な「糧」で満足してしまって、霊的に鈍くなってしまわないように注意いたしましょう。

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一10章16節―17節」

 パウロは「秘跡のパン」としての「聖体」について書いています。

「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか(16節)」

 ここではまさに、ミサの「感謝の典礼」における「キリストの御血(ぶどう酒)」の拝領、「キリストの御体(パン)」の拝領について書かれています。

「あずかる」と翻訳されている言葉は、ギリシア語の原文では「コイノーニアー」です。「コイノーニアー」は直訳すると「交わり」です。ですから、直訳すると「杯はキリストの血に交わること」「パンはキリストの体に交わること」になるのです。

 この「コイノーニアー」のラテン語が「コムニオン」です。実は「聖体拝領」という日本語は、この「コムニオン」の、いわば「意訳」なのです。「コムニオン」もやはり「直訳」すれば「交わり」だからです。

 ですから、ミサの「聖体拝領」の前に先唱者が「ただ今から、『聖体拝領』が行われます」は「直訳」すると「ただ今から、『交わり』が行われます」になるのです。

「聖体拝領」は、キリストの体を共に食べるという「交わりの場」なのです。

 人間にとって「食事」は、「交わり」を育てるための、もっとも大切な場、時間です。私たちは初対面の人と仲良くなろうとすると、「今度一緒に食事をしませんか」と食事に誘います。また、どんなおいしい料理であっても、きらいな人と一緒に食事をするとおいしさを感じなくなります。逆に少々まずい料理であっても、好きな人と一緒に食べれば、おいしさを感じます。

「食事」は人間にとって「交わり」を育て、また「交わり」の「しるし」となる大切な場、時間であるのです。

 だからこそ、イエスはご自分の死と復活を記念する最高の秘跡を「最後の晩さん」である「食事の場」として制定されたのです。イエスは教会共同体の信徒が共にミサに与かることによって、「交わり」を育て、ご自分の体によって「一つ」にしようと望まれたのです。

「聖体の秘跡」の本質は「共食」であるとされています。「聖体拝領」は「私」と「聖体」との「一対一」の交わりではないのです。「私たち」と「聖体」との「共同体」としての交わりなのです。

「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです(17節)」

 ミサは教会共同体にとって、キリストを真ん中にした、最高の交わりの場なのです。教会共同体の交わりの源です。教会の交わりを「川」にたとえれば、川が豊かに流れるためには、源泉であるミサが豊かでなければなりません。ミサが「枯れた」ものになってしまえば、教会の交わりも「枯れる」のです。

 

福音朗読「ヨハネによる福音6章51―58節」

 ヨハネの6章は「聖体の章」と呼ばれています。まず、五千人にパンを与える奇跡(1―15節)から始まり、26節からは「ヨハネの聖体論」とも呼ばれる聖体に関する神学が語られているのです。

「ヨハネの聖体論」も、本日の朗読箇所の冒頭の51節前半の「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」までが「神のことば」としての「聖体」について語られ、51節後半の「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」からは「秘跡のパン」としての「聖体」について語られています。  

それは、51節前半までがご自分を「パン」と呼んでいたのにたいして、51節後半からは「肉」と呼び、さらに「血を飲まなければ(53節)」と「血」が出て来ているというように、言葉が使い分けられていることからもわかります。

本日の箇所の中心に置かれている言葉は、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである(55節)」です。この言葉を挟みこむようにして、前節の54節と後節の56節は、共に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」で始まっていて、「聖体拝領」が私たちにどのような恵みをもたらすのかについて説明されています。

前節の54節は「永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」恵みです。

「永遠の命」については同書の「告別説教」においてイエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(17:3)」と語っています。

「知る」は聖書においては「深い愛の交わりを持つ」という意味があります。私たちは「聖体拝領」によって、「父と子と聖霊との愛の交わり」に深く結びつけられるのです。その三位一体の神と私たちとの愛の交わりは、必然的に私たちに「復活」の恵みをもたらすことになるのです。

後節の56節は「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」恵みです。「聖体拝領」によって、イエスの命が私たちの中に来てくださいます。でも、同時にイエスの命は私たちを外から包みこんでくださるのです。 

こうして、私たちは超越するイエスによって守られ、内在するイエスによって生かされて行きます。外から、内から、イエスが私たちと共にいてくださることによって、私たちは「三位一体の神の愛の交わり」に向かって歩んで行くことができるようになります。「キリストの聖体」は、私たちが信仰生活の旅路を歩んで行くための「まことの命の糧」なのです。