2026年5月31日「三位一体の主日(A年)」のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

先週の主日では「聖霊降臨」をお祝いしました。私たち一人ひとりにとって、キリストの洗礼を受けた日こそが「聖霊降臨」の日でした。その日、私たち一人ひとりの中に聖霊が降って来てくださいました。その聖霊を通して、私たちは「父と子と聖霊の神」すなわち「三位一体の神」につながることができたのです。

ですから、私たちはこの地上に生きながらも、すでに「三位一体の神の座」である「天」とすでに霊的につながっているのです。ですから、私たちは地上を生きながらも、絶えず「天」におられる「三位一体の神」を見つめて、「三位一体の神」とともに人生の旅路を歩んで行くことができます。

やがて、地上の生活が終われば、私たちは「三位一体の神」の中に、完全に入って行くことができるのです。それが私たちにとっての「神の救いの完成」であり、「天国」であり、いわば「ゴール」です。

 ですから、先週の「聖霊降臨」につづいて、今日、私たちは「三位一体」を祝うことによって、聖霊がつないでくださった「三位一体の神」に思いを馳せ、そこに向かって信仰の旅路を歩み続ける恵みと力を、このミサを通して祈り求めるのです。

 

「三位一体の神」、それは私たちがいつも唱えているように、「父と子と聖霊の神」です。けれども、このような神の呼び方は、キリスト教の母胎であるユダヤ教においては、きわめて異質なものだったのです。

ユダヤ教の神は「唯一絶対」の神であって、ただおひとりで、他の神の存在を許さないからです。それを「父である神」「子である神」「聖霊である神」と複数の神とするような信仰は「異端」とされるべきものであったのです。

だとすれば、初代教会が立ち上がった当初、まだ「自分たちはユダヤ教徒である」と認識していて、ユダヤ教の信仰の枠内で生まれ育ったペトロや使徒たちから、このような呼び名が生じたということは、とても考えられません。

この呼び名はイエスご自身に由来しているとしか考えられないのです。使徒たちにしてみると、何度もイエスがこのように神に呼びかけていたので、理解できないながらもこの呼び名を踏襲していたと考えるのがもっとも妥当な解釈でしょう。

そしてこの三位の神が「ひとつ」であるということ、これもイエスからでしょう。特に「ヨハネによる福音」の最後の晩さんの告別説教(13:31-17:26)において何度も「父とわたしはひとつ」と言われ、「弁護者」と呼ばれている聖霊も父のもとから来るというように言われているからです。

ではなぜ、三位の神が「ひとつの神」なのでしょうか。

これを「どのようにしてそれは存在しているのか」という存在論的に考えると誤ってしまいます。なぜなら、神は「からだ」を有しないからです。であるのに、どのように「合体」しているのか、「溶け合っているのか」というような、「からだ」という存在を前提とした視点は的はずれであると言えます。

「存在」ではなく、その三位の神の「関係性」という視点から考えるのです。

ひとことで言ってしまえば、それは「愛し合う」関係です。しかも完全に愛し合っています。完全な愛とは、完全に自分を相手に与えてしまうことです。イエスはその完全な愛を十字架を通して具体的に示してくださいました。三位の神はそれぞれがそれぞれにたいして「己」を完全に与え尽くしているので「己」が消滅することによって、完全に「ひとつ」になっているのです。

「三位一体の神」の座とは「完全な愛の交わり」の座なのです。

そのため、本日の三つの朗読は、「三位一体の神」と私たちとの「交わり」がテーマになっています。

 

第一朗読「出エジプト記34章4b―6、8―9節」

第一朗読は、「父なる神」と私たちとの「交わり」です。

「出エジプト記」では神がモーセにたいしてご自分のことを次のように宣言されます。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者(34:6)」

「主、主」という繰り返しは奇妙に思えるかも知れません。実はこの箇所は同書の先の「燃える柴」の箇所において、神がモーセに言われたご自分の名を踏まえているのです。

神からエジプトへの派遣を命じられたモーセは、イスラエルの民から自分を遣わされた神の名を問われたならば、どのように答えればいいかと問いかけます。それにたいして、神は次のように答えられます。

「わたしはある、わたしはあるという者だ(3:14)」

ここでも「わたしはある」を繰り返しているのです。「わたしはある」というのは単に「わたし(神)は存在する」ということだけではなくて、「わたしはあなたと共にある」と、私たちとの交わりの中でこそ「ある神」であると言われているのです。繰り返しているのは、それを強調しているのです。

そして34章6節の後につづく言葉は、まるで私たち人間にたいしての猛烈な自己アピールであるかのようです。

そうです、神は私たち人間にたいして求愛、「プロポーズ」されているのです。

次のように、神の「プロポーズの言葉」を意訳してみました。

「私は憐み深く恵み深い者なんだ。忍耐強く、誠実な者なんだ。

だから、どうか私と、いつまでも一緒に生きてほしい」

神の方から私たちに「交わり」を求められているのです。

畏れ多いことですが、このように「求愛」してくださる神さまを、ある意味、私たちは「片思い」にしてしまっているのではないでしょうか。

神さまが一生懸命、求愛してくださっているのに、私たちはそっぽを向いていはしないでしょうか。この世の思い煩いや、財産や地位や名誉への欲求に心を捉われて、神さまの方を向いていないのではないでしょうか。

神さまからの「プロポーズ」、それは毎日、いつも、今も、私たちに向けられています。私たちは神さまに顔を向けて、その差し出された手を、全力で握り返すべきです。そのためには絶えず、神の呼びかけに心を向け、開いていなければなりません。

 

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙二」

第二朗読は「聖霊」と私たちとの「交わり」です。

本日の朗読箇所は、この「コリントの教会への手紙二」の最後の箇所です。パウロはこの手紙の結びとして、次のようにコリントの教会の信徒へ書き送っています。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように(13章:13節)」

この言葉がミサの開祭の時、司祭の会衆へのあいさつの言葉として使われています。ミサの式文では、語尾は「皆さんとともに」になっていますが、表現の違いだけで、意味は同じです。

「父と子と聖霊の神」と私たちとの最高の愛の交わりの場であるミサに、司祭が皆さんを招いているのです。

この結びの「祈り」は、次のように言葉を足せると思います。

「主イエス・キリストがあなたがたに恵みを与え、父である神があなたがたに愛を与え、聖霊があなたがたに交わりを与えてくださいますように」

私たちキリスト者の交わりは、自分たちの「思いの交わり」ではなく「聖霊の交わり」なのです。

私たちの思い、すなわち人間的な思いの交わりでは、狭いものになってしまいます。私たちは「交わり」の相手を「選択」してしまうからです。自分にとって好ましい人、利益をもたらしてくれる人というように。逆に好ましくない人、害をもたらすような人と「交わり」を持つことはきわめて困難なことです。

教会共同体が、このような人間的な交わりの場になれば、「キリストの体」として一致することはむずかしいでしょう。

私たちキリスト者の「交わり」は、一人ひとりがキリストの洗礼を受けたことによって、同じひとつの聖霊が降っていることによるのです。私たちの思いではなく、同じ聖霊が私たちの中で「響き合う」ことによって、「交わり」が生まれるのです。教会共同体の「交わり」は、聖霊の響き合いによる「ハーモニー」というようなものであると思えます。私たちの中におられる、同じひとつの聖霊が私たちを「ひとつ」に結び合わせてくださるのです。

そのためには、自分の「思い」にこだわったり、捉われたりすることなく、聖霊に心を開くことが大切であると思います。

それは、ともに「祈る」ことによって育まれて行く「交わり」であると思います。その最高の「祈り」の場こそが「ミサ」であるのです。

 

福音朗読「ヨハネによる福音3章16―18節」

福音朗読は「神の子であるイエス・キリスト」との交わりです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(3章16節)」

「お与えになった」には、大きく言って、ふたつの意味があります。

ひとつは、神が独り子を「人間」として与えてくださったということです。すなわち「受肉の神秘」です。これによって、私たちは同じ「人間」として、神である神の子と、直接の「交わり」を持つことができるようになったのです。まさに「顔と顔とを合わせる交わり」です。

「主は人がその友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた(出エジプト記33:11)」という「交わり」がイエス・キリストによって、モーセだけでなく、全人類にまで及ぶことが実現したのです。

そのイエスと弟子たちや人びととの「交わり」その温もりは、今も聖書を通して、秘跡を通して現在化し、私たちも弟子たちのように、イエスとの「交わり」を生きることができるのです。

もうひとつの意味は、人間イエスとなった独り子を、神が十字架を通して、私たちの罪を贖う「いけにえ」として与えてくださったことです。

私たちはそれについて、神が定められた計画を淡々と進められたかのように思いがちです。けっして、そうではありません。御子が十字架を通して「引き裂かれた」ように、父である神もご自身を「引き裂かれる」ような痛みをもって、最愛の「独り子」を十字架につけられたのです。イエスが十字架上で叫ばれた時、父である神も一緒に、天から叫ばれていたのです。

「その独り子をお与えになったほどに」と強調されるような、ものすごい愛をもって「世を」、「私たちを」愛してくださったと、ヨハネは伝えたいのです。

 ヨハネは「言(ことば)は肉となって(1:14)」と書き記しました。その「ことば」は父である神からの愛の言葉、愛のメッセージでした。その愛のメッセージがイエスという人となった。イエスさまは神さまからの「ラブレター」だったのです。