カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「使徒たちの宣教2章1―11節」
本日は「聖霊降臨の主日」です。
本日の「聖書と典礼」の8頁の上段に本日のミサの「聖霊降臨の叙唱」が掲載されています。その中で次のように書かれています。
「御ひとり子とともに神の国を継ぐ人々の上に、あなたはきょう聖霊を注ぎ、過越の神秘を完成してくださいました」
この中で「聖霊降臨」によって「過越の神秘」が「完成」されたとされているのは、旧約の出エジプトの「過越」が新約のキリストによって新たにされ、「完成」されたからです。
キリストによる「過越の神秘」は、神が御子を人として世に遣わされたという、人類の歴史に決定的に介入された「受肉の神秘」から始まりました。人間イエスとなられた神の子は十字架の死によって、人類を救おうとされる御父の御心への完全な従順を全うされました。それに応えて、神はイエスを復活させ、そしてイエスは神の子の座へと戻られたのが、先週、お祝いしました「主の昇天」です。
「父と子と聖霊の愛の交わり」である「天」に戻られた神の子は、神の右の座に着かれました。
けれども、それだけでは、私たちと「父と子と聖霊の神」との関係が絶たれてしまったように思われますが、父である神は御子が「イエス」としての「受肉の神秘」を全うされたことに応えて、今度は私たち人類に「聖霊」を送ってくださったのです。
もちろん、聖霊は天地創造の初めから神の御心を地上に実現するために、地上を縦横無尽に風のように飛び巡っていました。それが「聖霊降臨」によって、キリストの洗礼を受ける私たち一人ひとりの「中」に降って来てくださったのです。
これによって、私たちは地上に生きながらも、すでに「三位一体の神」と、いわば「天」とつながることができたのです。
私たちが聖霊を通して「天」とつながったということは、私たちが「父と子と聖霊の愛の交わり」に招き入れられたということです。
神が私たちに旧約、新約を通して約束してくださった「救いのご計画」とは、私たちをご自分の愛の交わりに招き入れることであったのです。そのために、神は独り子を世に遣わして人とされ、死と復活を通して、神の子を人間イエスの姿のままでご自分の右の座に着かせられました。そして聖霊を私たちの中に降らせることによって、ご自分の交わりに私たちを結びつけてくださったのです。
私たちは今、生きながらにして「天」とつながっていますが、やがて地上の生活を終えた後は、「人間イエス」のおられることによって人類に開かれた「天の門」を通って、「父と子と聖霊の愛の交わり」の中に招き入れられて、「三位一体の神」とひとつになって、「永遠の交わり」の中で「永遠の命」を生きることになるのです。これが私たちの「救い」であり、「天国」です。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください(ヨハネ17:21)」
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください(ヨハネ17:24)」
最後の晩さんにおいて、イエスが父に祈ったこれらの願いが、「聖霊降臨」に
よって「完成」されたと言えるのです。
そして本日はまた、教会が誕生した日でもあります。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹
いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた(1―2節)」
イエスが昇天してから10日が過ぎた五旬祭の日、弟子たちや聖母マリアや女性らに聖霊がくだりました。それは彼彼女らがキリストの洗礼を受けたことでもあり、それによって新約の神の民の集いである「教会」が誕生しました。「建物」ではありません。キリストによって新たにされた「神の民の集い(ギリシア語で『エクレシア』)」です。
大切なことは上記のように「一同が一つになって集まっていると」と前置きされていることです。聖霊が降るためには、その共同体が「一つになっている」必要があるということをルカは強調したかったのだと思います。逆に言えば、メンバーがそれぞれ自己中心的になって、他者を思い合うことのないような共同体では、聖霊は降りにくい、降っても働きにくいということです。
聖書の中で聖霊は2節にあるように「風」というシンボルでよく表現されています。「風」がいくら吹いても一人ひとりが心を閉ざし、他者に、また外に向かって開かれていない「閉ざされた共同体」では、窓や扉が開いていない家のようなもので、風がいくらその周囲を吹きめぐっていても家の中に入ることはできないのです。
私たちの教会も「開かれた教会」になっていなければ、降臨した聖霊という「風」は閉じ込められ、よどんでしまって、自由に吹きわたることはできません。聖霊の働きが活性化しないで沈滞してしまうのです。
聖霊降臨の日の使徒たちと聖母マリアを中心とした人びとは祈りのうちに「ひとつ」になっていました。それを喜ぶかのように「風」は激しく吹きわたりました。「家中に響いた」というのは、聖霊が教会の誕生を祝って舞い踊っていたからかも知れません。
そして聖霊は彼彼女らを「宣教」へと突き動かして行きます。
その時、弟子たちは「ほかの国々の言葉(4節)」で語り出します。
教会の伝統では聖霊降臨の奇跡として「言葉がひとつになった」とされてきました。旧約の創世記のバベルの塔の物語(11:1-9)において散らされた人類の言葉が再び「ひとつ」になったのだと。
けれども誤解してはいけません。言葉がひとつに「統一」されたわけではないのです。「めいめいが生まれた故郷の言葉(8節)」を人びとは聞いたのです。神の言葉がそれぞれの国の言葉によって語られたということです。
「言葉」はその国の文化を体現するものです。神はけっしてそれぞれの国の文化を単一化しようとはされないのです。神は「単一性」ではなく「多様性」を喜ばれるからです。
神が創造された、この地球という星を考えてみても、それはわかります。何と多様な生命に満ちあふれていることでしょうか。それによって、地球という星が豊かになっているのです。
人間の世界も同じです。様々な、異なった文化、人種がいることによって豊かになります。もちろん、「違い」は時に「対立」を生じさせます。けれども、それを乗り越えようとしてこそ、私たちは「対話」や「違いを受け入れること」、つまりは「愛」を学んでいくことができるのです。
ですから、ある国やある民族が自分たちの文化を絶対化して他の文化を否定すること、また自己の文化を強制することを、神はお許しになりません。それが「バベルの塔」の物語のメッセージだったのです。
この最初の宣教は、神の言葉をそれぞれの国の言葉で、「文化」で語りなさいということを教会に教えているのです。いわゆる「インカルチュレーション(文化的受肉)」です。いろんな国があっていい、いろんな文化があっていい、それでも第二朗読「コリントの教会への手紙」でパウロが語るように「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです(13節)。」
キリストにおける一致は「多様性の一致」であり、皆が同じものになることではなく、それぞれがありのままの自分で、互いに違いを認め合って、キリストにおいてひとつになることなのです。
教会にとって、キリスト者にとって、「多様性」は欠くことのできない、アイデンティティーに関わる根源的な要素なのです。
だからこそ、前教皇フランシスコは、トランプ大統領に次のような言葉を投げかけられたのです。
「もし、あなたが『多様性』を否定するとしたら、あなたは『キリスト教徒』ではありません。」
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一12章3b―7、12―13節」
第二朗読においても聖霊のもたらす「多様性」を、パウロは強調しています。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です(4―5節)」
私たちは、聖霊からそれぞれ固有の賜物(カリスマ)を与えられ、主キリストからその賜物に応じて、それぞれ固有の務めを与えられるのです。ですから、私たちが持っている賜物も、務め(教会内の務めだけでなく、家庭、職場、地域社会の中における務めも含めて)も「私たちのもの」ではなく、聖霊から、キリストから「委ねられたもの」であるのです。ですから、それらを「自分のもの」であるかのように、誇ったり、自慢してはいけません。
また、自己満足や自己実現の道具としてはいけませんし、役割をめぐる特権意識や差別意識を抱いてもいけません。それらは教会の中だけではなく、人と人との交わりを傷つけてしまいます。
パウロが強調しているように、私たちひとり一人に与えられた賜物、務めは「全体の益となるため(7)」です。「全体」は教会だけでなく、社会全体も含まれています。「社会の益」のために働くことが「宣教」であるとも言えます。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体はひとつである(12節)」
この「体」は「キリストの体」である「教会」を指しています。いろいろな人がいて、「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと(13節)」というようにいろいろな国籍の人がいて、「奴隷であろうと自由な身分の者であろうと(同節)」というように、いろいろな社会的身分の人がいて、本当に「多様」な人びとがいてこそ「教会」なのです。
そして「多様」でありながらも、同じ洗礼を受けて、同じ聖霊が降っていることによって、「教会」は「一つの体」であるのです。
福音朗読「ヨハネによる福音20章19―23節」
本日の福音は「ヨハネによる福音」における「聖霊降臨」の箇所です。この箇所は4月12日の復活節第2主日の福音にも用いられていて、その「説教の要約」も皆さんにお届けしていますので、そちらを参考にしてください。
ポイントは、イエスは弟子たちを宣教に「遣わす(21節)」に当たって「だれの罪でも赦しなさい」という命令を与えていることです。宣教は「ゆるし」から始まるのです。言い換えれば、宣教者はことばを語り、わざを行う以前に、「ゆるす人」でなければならないということです。
