カトリック香里教会主任 林和則
第一朗読「使徒たちの宣教8章5―8、14―17節」
先週の第一朗読の「使徒たちの宣教」では初代教会に訪れた最初の試練、「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」との間に生じた対立が描かれていました。対立の原因は、律法に対する姿勢の相違で、エルサレムに生まれ育ち、律法を厳格に守っていた「ヘブライ語を話すユダヤ人」に対し、「ギリシア語を話すユダヤ人」はヘレニズム文化圏にあったディアスポラで生まれ育ったことによって、律法に対して柔軟な対応を取っていました。「ヘブライ語を話すユダヤ人」にとっては、「ギリシア語を話すユダヤ人」は律法を軽視しているように思えたのです。
使徒たちの調停の努力にも関わらず、この対立はステファノの殉教、「ギリシア語を話すユダヤ人」への迫害と追放という、初代教会の内紛に発展してしまいます。「使徒たちの宣教」の著者であるルカは、この内紛をユダヤ教徒による教会全体への迫害であったかのように書いていますが、それはルカがこの「内紛」を教会の汚点と考えて、その「事実」を少しでもぼやかそうとしたのではないかと疑ってしまいたくなります。
ただ、ルカは「事実」をほのめかすような示唆を残しています。
「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った(8章1b節)」
なぜ、「使徒たち」は残ることができたのでしょうか。教会の中核である彼らこそがまず第一に迫害され、捕らえられるべきはずであるのに・・・。
この「使徒たち」は「十二人」だけでなく、「『ヘブライ語を話すユダヤ人』を含めた信徒たち」が示唆されているのではないかと、私は考えています。実際にユダヤ教徒から迫害されたのは、律法をないがしろにしていると思われた「よそ者」である「ギリシア語を話すユダヤ人」ではなかったのかと思われるのです。
いずれにしても、本日の朗読箇所にあるように「フィリポ」を筆頭とする「ギリシア語を話すユダヤ人」たちは、サマリアやアンティオキアという「異邦人」の地へと逃げて行きながら、その地でキリストの福音を伝えて行きました。
この事件の数年後に、パウロの宣教が始まります。この散らされて行った「ギリシア語を話すユダヤ人」の宣教が、パウロの宣教へとつながって行ったと言えます。
ある意味、エルサレムでユダヤ教の律法と伝統にしばられて膠着状態におちいりつつあった教会を異邦人の地へと開いて行くために、神がこの「内紛」を引き起こされたと言えるのではないでしょうか。
この「内紛」はイエスのたとえ、「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる(ルカ5:37)」というみことばの「成就」ではなかったのでしょうか。キリスト教という新しい「ぶどう酒」が、ユダヤ教という「古い革袋」を破って流れ出したのです。私は、ここに神の御手の霊妙な御働きを見る思いがして、畏れを覚えずにはおられません。
第二朗読「使徒ペトロの手紙一3章15―18節」
典礼暦A年では、復活節第二主日から第七主日(注)までの第二朗読では「ペトロの手紙一」が朗読箇所に選ばれています。
本日の箇所では、次の言葉に注目してみたいと思います。
「心の中でキリストを主とあがめなさい(15節)」
この言葉を取り上げるのは、この教えが読者の中に誤解を招く恐れがあるからです。「心の中で」という表現が、信仰を内向きなものとして考えているかのように誤解されかねないからです。
それは、「外に向かって『私はキリストを主とあがめています』というように宣言する必要はない。人に知られなくてもいいから、『心の中』で信仰を保持していればいいのだ」というような、「内向きな信仰」です。けれどもそうでないことは、後に続く文章を読めばわかります。
「説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい(15節)」
すなわち「心の中で主をあがめる」ことは人びとに向けて「信仰の証し」をするための「準備」であるということになり、「内向き」ではなく「外向き」なのです。
ペトロがいう「心」とは内面的な思いや感情というよりも、人間の存在、活動の「中心」としての「心」なのではないでしょうか。その意味で上記のペトロのことばを私なりに意訳すれば、次のようになります。
「キリストをあがめることを、あなたがたの生活の中心に置きなさい」
それは地上的な富や名誉や地位などを人生の目的の中心に置いて追い求めるのではなく、絶えずキリストとその福音を最高の価値あるものとして大切にして生きることです。
そのような生き方を積み重ねて行けば、おのずから泉が湧き出るようにして「証し」すなわち「宣教」が、外に向かってあふれ出して行くと思います。
17節では「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」と言われています。
この教えは、私たちは自らの経験を通して実感していることであると思えます。私たち人間にとって、もっとも私たちを苦しめる感情は「罪悪感」であると言われています。「罪悪感」を抱いていると、どのような恵まれた状況にあろうとも、人は「幸い」を感じることができないのです。
そして「罪悪感」の苦しみから逃れるために、人は自らを罰しようとします。自傷行為がそうなのですが、それは単に肉体を傷つけるだけでなく、自分には幸福になる権利はないという断罪の意識によって、自ら人生を破壊するような行動をとるまでになるのです。
その「罪悪感」から私たちを解放してくださったのが、「キリストの十字架」であったのです。私たちの最大の苦しみをご存知であった父なる神が、御子の十字架の死を通して、私たちを罪から解放し、真の自由を与えてくださったのです。
罪の奴隷からの解放、これこそがキリストによる新たな、真の「過越」であったのです。
(注)本日の「聖書の典礼」3頁の注にあるように「日本では『主の昇天』と重なるために読まれない『復活節第七主日』の朗読箇所」に当たります。本来「主の昇天」は復活から数えて40日目に当たる木曜日に祝われますが、日本では平日に当たるため、司牧的配慮によって日曜日に移動して祝われます。
福音朗読「ヨハネによる福音14章15―21節」
本日の福音朗読は、先週の福音朗読と同じく、最後の晩さんにおける、イエスの告別説教と呼ばれている箇所の一部が選ばれています。
本日の箇所は15節と21節によって枠づけられています。
前枠の15節は「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」です。
後枠の21節は「わたしの掟を守る人は、わたしを愛する者である」です。
共に同じことが言われていますが、前枠では「わたしを愛している⇒わたしの掟を守る」、後枠では「わたしの掟を守る⇒わたしを愛する」と「わたしの掟を守る」と「わたしを愛する」の順序が入れ替わっています。
これは、「わたしを愛する」と「わたしの掟を守る」がコインの裏表のように、どちらが表か裏かではなく、両者が切り離すことのできないものであることを示しています。「わたしの掟」とは告別説教の中で「あなたがたに新しい掟を与える(13:34)」と前置きしてから言われた「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(同節)」のことです。
「キリストのように互いに愛し合いなさい」という掟であり、この掟を守ることが「イエスを愛すること」になるのです。逆に言うと、「イエスを愛する」と言いながら、自分の隣人を愛していない者は「嘘つき」になってしまうのです。
私たちが「イエスを愛すること」は「隣人を愛すること」なのです。しかも、単に「愛する」のではなくて、「キリストのように愛する」のです。これは簡単なことではありません。「敵をも愛する愛(マタイ5:42―48)」「限りなく人を赦す愛(マタイ18:21―35)」「友のために自分の命を捨てる愛(ヨハネ15:13)」というような、人間的な限界を超えるような「キリストの愛」なのです。これは私たちの力によっては実現できません。それを可能にするのが、枠の中に置かれているイエスの教え、というよりも「約束」なのです。
その中心に置かれているのが「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない(18a節)」ということばです。このことばをはさみ込むようにして、前後にイエスの「約束」が置かれています。
前の約束は「『別の弁護者(16節)』をあなたがたに遣わす」です。「別の弁護者」とは「真理の霊(17節)」であり、聖霊のことです。
後の約束は「あなたがたのところに戻って来る(18b節)」です。これはイエスが「復活」して「戻って来る」ということなのでしょうか。また「かの日には(20節)」ということばを「世の終わりの日」と考えるならば、「キリストの再臨」の日に「戻って来る」とも考えられます。
けれども、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」を挟みこんでいることによって、前の約束と後の約束が対応関係に置かれていると考えるならば、ふたつの約束は関連し合っていることになります。
そのように考えるならば、「かの日」とは「聖霊が遣わされる日」、つまり「聖霊降臨の日」に対応していると考えることが可能になります。
私たちひとり一人にとって、それは「洗礼を受けた日」になります。
もし、「世の終わりの日」にイエスが「戻って来る」ならば、イエスは「世の終わりの日」まで、私たちを「みなしご」の状態にしてしまうことになります。
それに「ヨハネによる福音」では「未来的終末論」の影響は、あまり見られないと言われています。たとえば、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では「小黙示録」と呼ばれている、「世の終わり」についてのイエスの教え(マタイ24:1―44、マルコ13:1―37、ルカ21:5―33)が、ヨハネにはありません。
ですから、イエスが「戻って来る」のは、私たちひとり一人が「洗礼を受けた日」に実現しているのです。洗礼を受けて、聖霊が私たちの中に降ってきた時、聖霊を通して、私たちはイエスと「つながった」のです。いつもイエスが私たちと共にいてくださるようになったのです。
「わたしが父の内におり、わたしもあなたがたの内にいること(20節)」が「かの日(同節)」である「洗礼の日」に実現したのです。
今、すでに私たちは「みなしご」ではありません。
「イエスがわたしたちの内」にいてくださるのです。
みことば、秘跡、そして日々の生活を通して「イエスを見る」ことができます。
「イエスが生きているので、私たちも生きること」ができるのです。
「イエスが共にいてくださる」ことによって、「イエスが働いてくださる」ことによって、私たちは「キリストのように愛し合う」ことが可能になるのです。
