カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「使徒たちの宣教2章14a、36―41節」
本日の「使徒たちの宣教」は、聖霊降臨の直後に行われたペトロら使徒たちの最初の宣教が、それを聞いた人びとにどのような反応をもたらしたかが描かれています。
「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ(37節)」
「心を打たれ」と新共同訳では翻訳していますが、原文のギリシア語を直訳すると「突き刺される」となるそうです。こちらの直訳の方がよいと思います。
「打つ」は表面をたたくことです。もちろん、たたかれることによって心は「揺れます」が、「突き刺す」は表面だけでなく、心の奥深くにまで「刺さる」のです。ペトロらの宣教は聞く人びとの心の奥深くにまで「突き刺さった」のです。
それは当然「痛み」を伴うものだったでしょう。その痛みは「神によってメシアとされたイエス」を「十字架につけて殺した(36節)」という激しい「良心の呵責」であったと言えます。
そのため、人びとは思わず「わたしたちはどうしたらよいのですか(37節)」と悲痛な叫びをあげたのです。
それにたいしてペトロはおそらく慰めるようにして「悔い改めなさい(38)」と勧めます。この「悔い改め」は「心を改める」という「改心」ではないと思えます。それは「回心」すなわち「心を回す」であると思えます。
人びとはイエスに背を向けて、さらに殺すことによってイエスを否定してしまいました。それを、再びイエスの方に心を向けて、イエスに向かって歩み出すようにと促しているのです。
「イエス・キリストの名によって洗礼を受け(38節)」ることによって「罪が赦され」、「賜物として受ける聖霊」によって突き刺された心の傷をいやして頂けると、ペトロは人びとを励まします。
ペトロが人びとを責めないのは「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているもの(39節)」というように、神はイエスを殺した人びとであっても「招いてくださっている」と確信しているからです。
神が招いている人びとを、人間であるペトロたちが追い返すことはできないのです。
「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも(39節)」という、神の全人類への無条件の、無償の招き、これこそがまさに「福音」です。
私たちも今日、ペトロから「福音」を聞いた「人びと」になったのです。
あらためて回心して、イエスの方に向かって歩いて行きましょう。
第二朗読「使徒ペトロの手紙一2章20b―25節」
本日の「ペトロの手紙」の箇所は明らかに、イザヤ書53章を下敷きにして書かれています。
直接の引用箇所は「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった(22節)」で、これはイザヤ書53章9節の引用です。原文では次のように書かれています。「彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに」です。
また、直接の引用ではありませんが24節の「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」はイザヤ書53章5節の「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」に基づいています。
さらに、23節の「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが」は、イザヤ書53章6節の「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」に基づいています。
イザヤ書53章は全文が聖金曜日の第一朗読に用いられています。そこに描かれている「主の僕」の姿がキリストの十字架の受難をほうふつとさせるからです。
本日の「ペトロの手紙」がキリストの苦しみと十字架の死について書くに当たって、イザヤ書53章を用いていることは、初代教会の頃より教会がイエスの受難の意味をイザヤ書53章から読み取っていたことがわかります。
この手紙では、イザヤの預言に基づいて、イエスの十字架の死は「わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです(24節)」と書いています。それは「私たちが罪を犯すことなく、正義を行って生きるようになるため」ということなのでしょうか。だとしたら自分自身を振り返ってみて、十字架の死によって、イエスさまが「その身にわたしたちの罪を担ってくださいました(24節)」のにも関わらず、今も絶えず罪を犯し、正義を実行することが困難である自分自身の現状に頭を抱えたくなります。けれども「ペトロの手紙」が語っていることは、そのようなことではないのです。
前にも申し上げましたように、この手紙は紀元90年頃に書かれていると考えられていて、60年代前半に殉教したとされているペトロの手によるものではありません。実際にはローマかギリシアの教会の指導者によって書かれたと考えられています。この指導者はおそらく、50年代ごろに書かれたパウロの手紙を読んでいて「義」についてもパウロの影響を受けていると考えられます。
パウロの手紙から「義」について書かれている箇所を選び出して、パウロの「義」に関する考え方を探ってみましょう。
パウロはコリントの教会への手紙で「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません(1コリント4:4)」と語っています。つまり「やましさ(罪)のない状態が『義』である」とは考えていないのです。また「義」は「正義のわざ」を行うことによってももたらされません。
ローマの教会への手紙では「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされたのです(3:23-24)」ともパウロは語っているからです。パウロが語る「イエスによる贖いの業」が「ペトロの手紙」で書かれている「(イエスが)十字架にかかって(24節)」くださったことにほかなりません。
私たちは自分が「罪を犯さない」「正義を行う」といったように「自分」が何をしたか、しなかったかではなく、ただただ「キリストの十字架」によって「義」とされたとペトロも語っているのです。「罪に対して死んで義によって生きる」とは私たちの「罪がゆるされ、救いにあずかった状態になった」ということでしょう。
また、この「義」を「私たちの義」ではなく「神の義」と考えることもできるでしょう。「神の義」とは、「神が罪深いわたしたちを無条件で、無償で救ってくださること」であると言えます。イエスの十字架の死は、「わたしたちが『神の義』によって生きるようになるため」であったと言えるのです。
いずれの解釈にしましても、神の無償の恵みに感謝して、それに「応えて」生きて行くことが大切なのです。それは私たちも「キリストの十字架」を見つめて歩んで行くことです。その歩みにおいて何度失敗し、つまずいても構わないのです。大切なことはその度ごとに立ち上がって、また十字架に向かって歩み出すという「努力」です。方向性を間違わなければいいのです。だからこそ「改心」ではなく「回心」なのです。
その歩みは感謝と希望の歩みです。なぜなら私たちはすでに、キリストの十字架によって罪がゆるされ、救われているからです。そしてキリスト・イエスがいつも私たちとともに歩んでいてくださるからです。
福音朗読「ヨハネによる福音10章1―10節」
本日、復活節第4主日は「よき牧者の主日」とも呼ばれていて、イエスをよき羊飼い、私たち信徒を羊にたとえているヨハネ福音書の10章(「よき牧者の章」とも呼ばれています)が福音朗読の箇所として選ばれています。ちなみにB年は11節から18節、C年では27節から30節が選ばれています。
ですから、本日の箇所も「よき羊飼い」であるイエスを主眼として解釈されるべきなのでしょうが、私は「門」に主眼を置いて、解釈してみたいと思います。
それは私の主観的な解釈ではなく、本日の福音において「門」も大切なキーワードのひとつになっているからです。今日の福音は1節から6節までと7節から10節までと、前半と後半に分けることができますが、その違いは「門」のたとえの指し示す内容にあるのです。
前半では「門番は羊飼いには門を開き」と書かれています。「門番」とは「天の父である神」、「羊飼い」とは「その子であるイエス・キリスト」であると考えられます。そうであれば「門」は「天の門」になります。
「天」とは空間的な「空」ではなく「父と子と聖霊の神の座」すなわち「父と子と聖霊の愛の交わり」です。その完全な愛の交わりの絆は強く、何をもってしても断ち切ることはできません。けれども父なる神は自らその絆を「裂いて」くださって「門」を開き、「神の子」を私たちの世界である「地上」に送ってくださって「人間イエス」としてくださったのです。いわば、この箇所は「受肉の神秘」を表現しているといえます。
それに対して「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者(1節)」と言われているファリサイ派の人びとは、神から送られた者ではないということになります。それは彼らが神の思いではなく、自分の思いによって人びとを指導しているからです。「律法」を標榜しつつも、もはやそれは自分たちの権威と利益を守るための「道具」であり、また「羊=民衆」を支配するための「道具」でもあったのです。もし彼らが己のためではなく、民衆のために、神の思いを求めていたならば、神はまた彼らにも「門」を開いていたのかも知れません。
後半ではイエスはご自身を「門」であると言われます。この「門」もやはり「天」に向かって開いています。ヨハネの福音の1章でイエスはフィリポとナタナエルに向かって「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる(51節)」と言われます。イエスこそが「天」と「地」をつなぐきざはし(階段)であり、「門」なのです。
前半がイエスの降誕である「受肉の神秘」が表現されていたのに対して後半は、イエスの死と復活すなわち「過越の神秘」が表現されていると考えられます。
イエスは死んで復活した後、昇天し再び「天」の「神の子の座」に戻られました。「受肉の神秘」以前はそこには神である神の子がおられて「天」は神性のみに満ちていて「人間」の入る余地は全くありませんでした。けれども神の子が「人間イエス」となって戻られたのです。それによって「子の座」に人間性が入りました。私たちはその「人間イエス」を通って「天」に、「父と子と聖霊の愛の交わり」に入って行くことができるようになったのです。これこそが私たちの救い、「天国」です。私たちはイエスという「門」を通って「地」から「天」へと昇って行くのです。
今も「天」におられるイエスは絶えず一人ひとりの名前を呼びながら、私たちを「天」へと招いてくださっているのです。
「門」は、前半では神の子が「地」へと向かうために開かれ、後半では私たちが「天」へと向かうために開かれたといえます。
