2026年5月3日復活節第5主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

第一朗読「使徒たちの宣教6章1―7節」

4月12日の復活節第2主日の第一朗読の「使徒たちの宣教」では、誕生したばかりの汚れを知らない赤子のような、初代教会の理想的な教会共同体の姿が描かれていました。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った(2:44―45)」

「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事(現在のミサ)をし、神を賛美していた(2:46―47a)」

本日の朗読箇所では、その初代教会が初めて直面した危機について描かれています。それは「ギリシア語を話すユダヤ人(1節)」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」との対立による共同体の分裂の危機でした。

「ギリシア語を話すユダヤ人」とはエルサレムもしくはパレスチナ地方の出身ではなく、ローマ帝国内に散在するディアスポラ(ユダヤ人の居住地)出身のユダヤ人のことを指します。

「ヘブライ語を話すユダヤ人」とはパレスチナ地方、特にエルサレム出身のユダヤ人を指します。ただ、彼らは日常生活においてヘブライ語を話していたわけではありません。イエスも含めて、パレスチナのユダヤ人はアラマイ語を公用語として話していました。ヘブライ語は「聖書のことば」であったのです。実際には日常会話において用いられていなかった聖書のことばである「ヘブライ語」を「話していた」という表現には、エルサレムに生まれ育ったユダヤ人が、「『聖書』に、特に『律法』に忠実に従って生きていた」というニュアンスが込められていると考えられます。そこにはエルサレムで生まれ育ったユダヤ人たちの「プライド」が感じられますが、その「プライド」はまた、ディアスポラという「外地」から来たユダヤ人たちへの蔑視を生じさせたことでしょう。

エルサレム生まれの「生粋」のユダヤ人たちにしてみると、ディアスポラ生まれのユダヤ人たちは「よそ者」であって、「『律法』を遵守していない民」であるというように軽蔑されていたと考えられ、その差別意識が同じユダヤ人でありながらも初代教会の中に分断をもたらしたのだと考えられます。

「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた(1節)」というのは、その分断が具体的に表面化したひとつの事例であって、問題は「律法」すなわち信仰内容に関わる深刻なものであったのです。

だからこそ「十二人(2節)」も、その問題を重大視し、「弟子(キリストの洗礼を受けた信徒)をすべて呼び集めて(同節)」決定します。決定は信徒の中から「七人(3節)」を選び、共同体の調停役をゆだねるというような内容でした。

その選ばれた「七人」は全員がステファノをはじめ「ギリシア語を話すユダヤ人」であったことに「十二人」の思いを感じることができます。ペトロをはじめとする使徒たちは「主流派」であり「多数派」であった「ヘブライ語を話すユダヤ人」よりも、「新参者」であり「少数派」であった「ギリシア語を話すユダヤ人」を重んじたということです。

使徒たちは「政治的」にではなくイエスの思いに従って、「福音的価値観」に従って判断したと言っていいと思います。「弱者の優先」です。

けれども、その使徒たちの思いは実を結ぶことはなく、結果的にはステファノの殉教、そして「ギリシア語を話すユダヤ人」たちが迫害、追放されるという初代教会の「分裂」を招いてしまうことになったのです。

ただ、フィリポら「ギリシア語を話すユダヤ人」が方々のディアスポラに散って行きながらも宣教を行ったことによって、ユダヤ教の律法や伝統にしばられない、真の「キリストの教会」が建ち上がって行ったと言えるのです。それは散らされた「ギリシア語を話すユダヤ人」がアンティオキアに行き、宣教した結果に示されています。「このアンティオキアで、弟子たちがはじめてキリスト者と呼ばれるようになったのである(使徒たちの宣教11:26)」 

この分裂の悲劇は、真の「キリストの教会」の誕生のための「産みの苦しみ」であったのです。

 

余談になりますが、本日の第一朗読の箇所については、個人的な思い入れがあります。それは使徒たちが信徒に告げた次の言葉です。

「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします(4節)」

私はこの言葉を、司祭としての信徒の皆さんへの奉仕のモットーとしているのです。

私は信徒の皆さんのために何ができるのかと考えて、私の能力を顧みるならば、さまざまな分野において、信徒の皆さんの能力の方が勝っていると思います。では、そんな皆さんに私ができることは何か、それはつまりは、司祭の私にしかできないこと、秘跡、そして、みことばを伝えることである、と思うのです。

もちろん、みことばを伝えることは信徒の皆さんでもできます。けれども、みことばの神学的、聖書学的側面においては、私は神学生の時期において、十年近くも専門的に学ぶ時間を教会(つまり信徒の皆さん)から頂きました。また、司祭生活においても、個人的に聖書を学ぶ時間を、皆さんよりも多く取ることができます(それは個人的な学習ではなく、司祭の大切な仕事です)。

秘跡については言うまでもなく、叙階の秘跡の刻印を霊魂に受けた私たち司祭にしか執行することはできません。

私は何をさしおいても、信徒の皆さんに秘跡とみことばによって奉仕することが、教区司祭としての第一の務めであると考え、「専念する」ように努力しています。

 

第二朗読「使徒ペトロの手紙一2章4―9節」

それは秘跡と御言葉を通して、皆さんを少しでもキリストに結びつけたい、そしてご自分を霊的に深めて頂きたいという思いからです。

第2朗読の「ペトロの手紙」で次のように書かれています。

「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい(5節)」

教会は「霊的な家」であるべきなのです。そうでなければ、会社やさまざまな団体と同じように「人間の思いの家」になってしまいます。多人数を擁する教会はどうしても組織的な構造がなければ混乱し崩壊してしまいます。そのために評議会を中心とした「組織」が構築されています。

けれども大切なのは「組織」ではなく、それを構成している信徒の皆さん一人ひとりなのです。一人ひとりが霊的に深められていなければ、それは単なる人間の思いのぶつかり合う場になります。私も27年間、司祭職を努めてきましたが、評議会の場が人間的な自己主張の場になってしまって、教会の一致を傷つけるという残念な現実を何度か目にしてきました。

「組織」ではなくまず一人ひとりが霊的に深い者、つまり「生きた石」になっていくことが教会が「霊的な家」になるために、何よりも大切なことなのです。それがなければ教会はただの「組織」になってしまい、まさにイエスの言われた「塩気のなくなった塩(マタイ5:13)」になってしまうのです。

 霊的に深くなるためには、キリストと深く結ばれることが必要です。「ペトロの手紙」でも、次のように信徒に呼びかけています。「主のもとに来なさい。主は・・・神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです(4節)」

私たちが「生きた石」になるためには、「選ばれた尊いかなめ石(6節)」「隅の親石(7節)」であるキリストという「生きた石」につながってこそ、ひとつになってこそ、「生きた石」になれるのです。

キリストとつながるためにこそ、「みことば」と「秘跡」があるのです。

また、キリストと深くつながることによって、霊的に深まり、同時に信仰の喜びも大きくなっていくのです。

私は心から、皆さんに信仰の喜びを感じて頂きたいと願っています。それをつかめば、この世のかりそめの喜びに惑わされたり、振り回されることのない、まことの喜びが得られるからです。そのために私は「みことばと秘跡」によって、皆さんに奉仕していきたいと思っています。

 

福音朗読「ヨハネによる福音14章1―12節」

今日の福音の前半(1―6節)は葬儀ミサの福音朗読によく用いられている箇所です。私もいつもこの箇所を用います。それは信徒の方がたのみならず、一般の方がたにもキリスト教が「死」をどのように教えているのかを説明しやすいからです。

キリスト教の信仰において「死」を考える時、そのもっとも中心的な信仰は「私たちは死ねば、すぐに天国に行ける」ということです。けれどもそれは、自らが生前多くの善行を積んだからとか、教会の勤めを忠実に果たしたからとかいったものではありません。それは「自分の力によって」天国に行こうとする、いわば「律法主義的」な信仰です。

私たちは生きている限り、弱く、不完全な存在で、特に人間関係の中にあって死ぬまで傷つけ合い、罪を犯し合います。こんな私たちが自分の力で、自分の足で、天国に行けるわけがありません。

私たちがすぐに天国に行けるという確信は今日の福音、最後の晩さんにおける弟子たちへの約束にその根拠があるのです。イエスは明確に「あなたがたを私のもとに迎える」と約束してくださっています。ですから私たちが死ねばすぐに、イエスが私たちを迎えに来てくださって、私たちの魂を御手に抱いてくださって、天国へとご自分の足で連れて行ってくださると信じるのです。

それは私たちに天国に入る「資格」のようなものがあるからではありません。それを言うなら私なども、どうしようもない落第生です。それはイエスが、父なる神が、なぜだかはわかりませんが、私たちを「愛してくださっている」、ただそれだけなのです。それは「かわいそうだから救ってやろうか」といった「上から目線」ではありません。ただただ、私たちが愛おしい、私たちと一緒にいたいからなのです。

「こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる(3節)」は、イエスの、父なる神の「私たちと一緒にいたい」という切実な「願い」なのです。

 

私たちが毎週ミサに与ったり、祈ったり、善行をしたりするのは「天国に行きたい」からではありません。それはもう私たちが母の胎に宿った時から「約束」されているのです。私たちの人間的な思い、報いだとか、資格だとかをはるかに超えた神の愛による、「天国」という大きな恵みに感謝して、それに「応える」ためにこそ、私たちはミサに与り、祈り、キリストの隣人愛を生きようと努力するのです。

私たちは亡くなる時、こう宣言して、最後の信仰告白をしましょう。

「私は天国に行きます。なぜなら、神が私を愛してくださっているからです。私を待っていてくださるからです。」