2026年4月19日 復活節第3主日(A年)のミサ 説教の要約
カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「使徒たちの宣教2章14、22―33節」
本日の「使徒たちの宣教」はこの前の箇所、2章1節から13節までの「聖霊降臨」の出来事があってから、すぐの出来事が書かれています。ここからわかることは、聖霊が降って弟子たちが最初に行ったことは「宣教」であったということです。
また「聖霊降臨」は弟子たちが「キリストの洗礼」を受けたことによって、「キリスト者」となり、それによって「キリスト者の集い」である「教会」が誕生した出来事でもありました。いわば、「教会」の産声(うぶごえ)は「宣教」であったのです。
聖霊降臨、また教会の誕生に当たって「宣教」が行われたことは、「宣教」は教会にとって欠くことのできない、教会が教会であるための存在証明のようなものであると言うことができます。それは、私たちキリスト者一人ひとりの個人においても言えることなのです。
22節からのペトロの宣教の言葉ですが、これは当時のペトロ自身の言葉ではなく、「使徒たちの宣教」が書かれた紀元80年ごろの初代教会の「ケリュグマ」が用いられていると考えられています。「ケリュグマ」は神学用語で、「宣教指針」などと訳されています。初代教会が宣教するに当たって、どのようにイエスについて証言するかを定式化したものであるとされています。ですから、イエスにたいする初代教会の信仰宣言のようなものであるとも言えます。
本日の箇所では詩編16の8節から11節が引用されています。詩編の多くは「ダビデの詩」という標題がつけられています。サムエル記によれば、ダビデは少年の頃より竪琴と歌の名手であり、それゆえに羊飼いであったダビデがサウル王の宮廷に召し入れられることになったとされています。その伝承から、多くの詩編がダビデの作とされました。初代教会もそれを信じていて、ダビデが預言者として、この詩編を通してイエスのことを語っているとしています。
そのため引用部の「わたし」をイエスのことであるとして、「復活」についての預言であるとしています。「ケリュグマ」が伝えたいことは、「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず(27節)」とあるように、「復活」はイエスの力、意志によるものではなく、神の意志によって起こったことであるということです。
それは「意志」というよりも「愛」と言うべきものです。父である神は、子であるイエスを愛するがゆえに「陰府に捨てておく」ことはできずに「復活」させたということです。「復活」は父である神と子であるイエスとの「愛の絆」また「愛の証し」であったと初代教会は伝えたかったのです。
そして、「神はこのイエスを復活させられたのです(32節)」と力強く宣言し、「わたしたちは皆、そのことの証人です(同節)」と断言します。
この「証人」は当時のペトロ、また初代教会の人びとだけではありません。現代に生きるキリスト者である私たちも含まれているのです。
キリストの洗礼を受け、同時に聖霊が降った私たちも、現代の世界において、イエスの復活の証人として、現代の人びとに伝えて行くのです。
もし、それをしなければ、私たちは自分をキリスト者であると言うことはできなくなります。「宣教」をしなければ、私たちはキリスト者としてのアイデンティティを失ってしまうからです。
私たちキリスト者の集いである「教会」もそうです。私たちの「香里教会」も「宣教」しなければ、「教会」としてのアイデンティティを失ってしまうのです。
そうならないために、絶えず、個人としても、香里教会としても「宣教」しましょう。少なくとも「宣教」のために「努力」しましょう。
第2朗読「使徒ペトロの手紙1章17―21節」
「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです(17節)」
「仮住まい」と翻訳されている言葉は、新約聖書原文では「パロイキアー」というギリシア語です。「小教区」という日本語はラテン語の「パロッキア(英語では『パリッシュ』)」の翻訳ですが、実は「パロッキア」はこのギリシア語「パロイキアー」のラテン語形なのです。つまり「パロッキア(小教区)」を直訳すると「仮住まい」になります。「小教区」は教会の敷地や建物を指すものではありません。香里教会でいえば「香里」という地域を指すのです。皆さんが住み、生活している場所ですが、それがキリスト者にとっては「仮住まい」の地であるということです。パウロが言うように「わたしたちの本国は天にあります(フィリピ2:20)」から。
ただ、それは「場所」ではなく「生き方」の問題です。今、私たちが生きている「香里」という場所を「仮住まい」とすると、今のこの「場所」での生活を意味のないものとして、現世からの逃避になってしまうような印象を与えてしまうかも知れません。
そうではなく、ペトロは「地上的な思い」に捉われて「むなしい生活(18節)」を送るのではなく「その方=神を畏れて生活」するようにと教えているのです。
逆に「神を畏れない生き方」とは、神以外のものを求めて生きることです。「仮のもの」にすぎない富や名誉や地位を追い求めて生きるような生き方です。地上の繁栄を見せつけて誘惑しようとする悪魔に対して「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ(マタイ4:10)」とイエスが言われた生き方こそが「神を畏れる生き方」です。
でもそれはけっして「恐れる」ではありません。そこには喜びがありません。「恐れ」と「畏れ」の違いについて、子どもがお母さんのお手伝いをする場面を例にして考えてみましょう。もし子どもが母親から怒られるからとか罰を与えられるからとかの動機でするとすれば、それは「恐れ」からです。けれども「お母さんを助けたい」という思い、お母さんへの「愛」からであれば、それは「畏れ」になるのです。
その違いは子どもが母親の愛を実感しているかいないかの違いです。私たちも神の愛を実感できていなければ「恐れ」になり、実感できていれば「畏れ」になるのです。
ペトロは「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは(18節)」「キリストの尊い血によるのです(19節)」と書いています。
キリストが、神の子が、私たちのためにご自分の命まで捧げてくださったという、そのものすごい「愛」に、私たちはまさに「畏れ多い」という気持ちになるのです。
私たちが「神を畏れて生きる」ためにはいつも、キリストを通して示された神の愛に包まれているとい実感を抱いていることが大切です。その実感にこそ、信仰の喜びがあります。
その実感を確かなものにするためにこそ「ミサ」があるのです。今日の福音のふたりの弟子も聖書を説明してくださった時、パンを裂いてくださった時に、その実感をつかんだのです。
福音朗読「ルカによる福音24章13―35節」
本日の福音は「エマオへの旅人」と呼びならわされている箇所です。ギリシア語原文ではこの物語のちょうど真ん中に「イエスは生きておられる」ということばが来るように文章が配置されています。それはこのことばこそがこの物語の中心的メッセージであることを示しています。
よく言われるように、この物語はミサの構造を物語化しています。まずふたりの弟子がとぼとぼと故郷に向かう旅路を歩んでいます。そこにイエスが近づき、ともに歩んでくださるのですが、ふたりにはわかりません。それはふたりの目が絶望という暗黒によって覆われているからでしょう。
私たちの人生の旅路においてもイエスはご自分から近づいて来てくださって、いつもともに歩んでくださっているのです。けれども私たちがこの世の思い煩いや欲望や怒りなどに捉われている時、イエスが見えなくなってしまうのです。
そしてイエスはふたりに聖書を説明されます。これがミサの前半部分である「ことばの典礼」です。当日の朗読配分に当たるみことばを聞き、聖霊の働きを通して、イエスが私たちの心に語りかけてくださるのです。
そして後半が「感謝の典礼」すなわち「最後の晩さんの記念」です。イエスがふたりと食卓をともにし「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった(30節)」。これはイエスが「最後の晩さん」の時に行ったことばとわざです。
このイエスのことばとわざを「感謝の典礼」の中で司祭が行うことによって、聖霊の力が働いて、まさに「最後の晩さん」が現在化するのです。「記念」はギリシア語で「アナムネーシス」と言います。それは単に「思い起こす」だけではなく、その出来事が「現在化」するという意味を持っています。「聖霊」による「秘跡」がそれを可能にするのです。
ただ、その前に「イエスはなおも先に行こうとされる様子だった(28節)」とあるのは、イエスは今も宣教の旅を、苦しむ人びとを癒す旅路を歩み続けていることを表わしています。人間への「深いあわれみ(スプランクニゾマイ)」に駆られて、一時も歩みを留めることはないのです。
そうです、私たちは今日もまたイエスを「無理に引き止め(29節)」て、ともに食事の席に着いていただいているのです。
ですから、ミサが終われば私たちもすぐにイエスとともに宣教の旅路へと旅立ちましょう。ミサの最後のことば「行きましょう、主の平和のうちに」は「行きましょう、主とともに」でもあるのです。そしてイエスは「来なさい、私とともに」と私たち1人ひとりに宣教の旅路へと呼びかけておられるのです。
ルカはこの物語を通して、ミサこそが「イエスは生きておられる」ということを実感できる場であることを伝えています。「ことばの典礼」を通して私たちの心は燃え、「感謝の典礼」を通してイエスと出会い、そしてイエスとともにまた、宣教へと旅立つのです。
私たちはイエスとともに「旅する神の民」であり、ミサは欠かすことのできない「旅路の糧」です。
「信仰生活」また「宣教」の旅路は私たち弱い人間の力だけでは歩み続けることはできません。「ミサ」そして「聖体」という、「天からの糧」を受けてこそ、歩み続けることができるのです。
それはまた、イエスとともに共同体が食卓につく、イエスを真ん中にしての交わりの場です。「キリストの体」を食べて、共同体がひとつになるのです。
「聖体拝領」はギリシア語の「コムニオン」の翻訳ですが、実は「コムニオン」の直訳は「交わり」なのです。ですから、ミサの先唱者の「ただ今から、聖体拝領が行われます」という案内は「ただ今から、交わりが行われます」ということなのです。
この交わりこそが一人ひとりの信仰を、そして教会共同体を育てるのです。
