カトリック香里教会主任司祭:林和則
*当日は、普段のミサに来られていない方がたも数多く参加されていたので、いつも行っている当日の聖書の箇所の説明は取りやめて、復活と洗礼の意味についての基本的な話をいたしました。
ただ、この「説教の要約」では、当日には取りやめた当日の聖書の説明の箇所は、大切な箇所であるだけに書き記して、皆さまに読んで頂きたいと思います。当日の聖書本文と照らし合わせながら、お読みください。
第一朗読「使徒たちの宣教10章34a、37―43節」
本日の第一朗読では、ローマ軍の百人隊長であったコルネリウスの家に招待
されたペトロが、カイサリアにあったコルネリウスの家で語った、イエス・キリ
ストについての証言が述べられています。
コルネリウスはローマ人でありながらも、ユダヤ教を信仰する「神を畏れる人
びと」でした。ある日彼は、天使が現れて、ヤッフアに滞在しているペトロを招くようにと言った「幻(10:3―8)」を見ます。コルネリウスは三人の使者を遣わして、ペトロを迎えに行かせます。
一方、ペトロはヤッフアで見た、天からさまざまな動物の入った大きな布が下りて来た「幻(10:10―16)」について思案に暮れていました。けれども、「〝霊〟(10:19)」に促されて、コルネリウスの家に向かい、「幻」の意味を悟って、異邦人であるコルネリウスの家族に洗礼を授けます。
その際に行われた「証言」ですが、これはペトロ自身の言葉ではなく、「使徒たちの宣教」が書かれた紀元80年ごろの初代教会の「ケリュグマ」が引用されていると考えられています。
「ケリュグマ」は神学用語で、日本語では「宣教指針」というように訳されています。初代教会が宣教するに当たって、イエス・キリストについてどのように証言するかを定式化したものと考えられています。
この中では、ペトロら使徒たちを「前もって神に選ばれた証人(41節)」と呼び、「(復活のイエスと)ご一緒に食事をした」ということが使徒である証しであるかのように書かれています。使徒たちの復活体験の中核をなすものが「復活のイエスと共にした食事」であったとされているのです。
大切なことは、その「復活のイエスと共にする食事」は今も「続いている」ということです。その「食事」こそが「ミサ」なのです。私たちは「ミサ」を通して、使徒たちの復活体験を継承して行き、今も絶えず「復活のイエス」と出会い、共に食事をして、「使徒」とされて、人びとに「イエス・キリストについての証言」を行い続けるのです。
「御一緒に食事をしたわたしたち」はもはや、最初の使徒であったペトロたちだけではなく、キリストの洗礼を受け、ミサに与かっている「私たち」みんなが含まれているのです。
ミサに与かる度に、このことを思い起こし、「使徒」としての自覚を新たにして行きましょう
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一5章6b―8節」
本日の「聖書と典礼」のしおり4頁の下の注釈にも書かれているように「パン
種はパンをふくらませるためになくてはならないものであるが、同時に腐敗の
もとでもある」のです。
イエスはたびたび「パン種」を用いて、たとえを語っています。その際にも「良
い意味でも悪い意味でも用いられている」のは、そのような「良きもの」にも「悪しきもの」にもなる「パン種」の性質を考慮してのことであるといえます。
本日の箇所では、パウロは「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい(7節)」と教えています。
その根拠を「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたから(同節)」としています。
「過越の小羊」は旧約において、イスラエルの民がエジプトを脱出する前夜、家族みんなでそれを食べ、その血を家の門の鴨居に塗ることによって、災いが過ぎ越され、そして奴隷状態から自由の地へと過ぎ越して行くことを可能にしたいけにえでした。
私たち新約の民においては、キリストがその「過越の小羊」となってくださり、私たちを罪から解放して、神の子の自由へと過ぎ越してくださったのです。
それが具体的に実現されたのが洗礼の秘跡であり、また、ミサという秘跡に与かることによって、私たちは「過越の食事」を行うのです。キリストの死と復活を実現してくださる洗礼によって私たちは「新しい練り粉」になり、キリストの死と復活を記念するミサに与かることによって、私たちは「いつも新しい練り粉のままでいられる」ようになるのです。
私たちは洗礼によって「古い自分」に死んで、新たに「神の子」とされ、ミサに与かることによって、絶えず「神の子」として新たにされて行くのです。
先の第一朗読と同じように、この第二朗読でも「ミサ」の大切さが力説されていると思えます。
「純粋で真実のパンで過越祭を祝おう(8節)」とパウロは呼びかけています。この新たな「過越祭」こそが「ミサ」であり、「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」こそが「聖体」なのです。
福音朗読「ヨハネによる福音20章1―9節」
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに(20:1)」
私たちの主イエス・キリストはまさに今朝、復活されました。今日の復活の主日、典礼暦A年のヨハネの福音は今日、私たちの中に実現しました。それは「まだ暗いうちに」、完全に明けきらぬ、まだ世界が暗闇の中に捕らわれていた時にも関わらず、主は復活されたのです。
今のこの世界もウクライナでの戦争、ガザでの非人道的な状況、イランでの戦闘などの大国の横暴がもたらす殺戮、また全世界に頻発する自然災害をもたらす環境問題、そして国ぐにの間、また社会の中での格差の問題などの暗闇に覆われていて、先の見通せない不安の中で私たちは生きています。けれども、その暗闇の中にあっても、主の復活はすでに成し遂げられていることを信じて、希望を持って、信仰生活を生きて行きましょう。
「墓から石が取りのけてあるのを見た(20:1)」
この「石」、生者の世界と死者の世界を隔てるこの石は人類の歴史が始まって以来、誰も取りのけることができませんでした。どんなに泣いても、呼んでも、死者が生者の世界に戻ってくることはありません。その無言の巨大な石は厳然として人類の前に立ちはだかり、人類はその前にひざを屈するしかなかったのです。死によって全ては終わり、その先に道はないことを示していました。
マグダラのマリアとペトロたちもそのように、全てを終わったこととして、あきらめていました。そのために「石が取りのけられてある」のを「見た」、また聞いたのにも関わらず、まだ「墓」にこだわるのです。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません(20:2)」
マリアはまだ「墓」の中にだけ、イエスをさがし求めています。「墓」に捕らわれ、イエスが予告されていた「復活」という新しい世界に開かれていくことができていなかったのです。
「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った(20:3)」
ペトロもやはり、「墓」に走って行きます。「墓」の中にイエスを探しに行くのです。ある意味、それはイエスの「死」という過去に捕らわれ、未来ではなく過去に向かって走っている姿であるのかも知れません。中に入ったペトロは「亜麻布が置いてあるのを見た(20:6)。」単にイエスの遺体が存在しないということを「見た」だけでした。けれども、先に着きながらも後から入ったもう一人の弟子は違います。
「見て、信じた(20:8)」
単に「見た」だけではなく「信じた」のです。何を信じたのか、「復活」を信じたとしか考えようがありません。先に2節では、この弟子を「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と表現しています。以前はこの「弟子」は、本日の「聖書と典礼」の下の注釈にも書いてあるようにゼベダイの子、またヤコブの弟である使徒ヨハネであるとされていました。けれどもくわしい説明は省略いたしますが、現在の聖書学ではこの弟子は使徒ヨハネではないとされています。この聖書を聞き、また読んでいる人が自分をこの「愛された弟子」にあてはめることによって、自分も登場人物のひとりになって、追体験するための「仕かけ」であったと考えられています。
ですから、この福音書が書かれた時代にあっては初代教会の人びと、現代にあっては今、この福音を読んでいる私たち自身が、この「イエスに愛された弟子」であるのです。そうなると、私たちはすでにイエスの復活を知ったうえで福音の物語の中にいることになります。つまり物語の中にいながらも「枠外」にいて、超越的に物事を見ていることになります。ですから、私たちが「墓」に行くということは、ペトロ(福音の物語の枠の中にいます)と違って「イエスの遺体」をさがしに行くのではなく、「イエスの復活」を確認するために行くのです。私たちは福音記者が証言するその場景を聞かされたことによって「見た」ことになり、そして信じるのです。
ヨハネの福音は過去と現在の時間と空間との間を自由に行き来していて、それによって、現在の私たちが過去のイエスの時代に入って行くことができるようにされています。
大切なことは私たちが今日のヨハネがあかしした復活体験を聞いて(読んで)、「聞く(読む)」だけでなく、実際に「見た」かのように「信じる」ことです。
イエスは誰も取りのけることのできなかった「死」という「石」を取りのけて、まったく新しい世界を開いてくれた、ということを信じることです。復活の朝、「永遠の命」という終わることのない、無限の可能性が私たちに開かれたのです。
この世的な価値観のもたらす、さまざまな負の側面(欲望、失敗、挫折、嫉妬、憎悪など)に束縛されることのない、傷つけられることのない、本当の自由と喜びが無限に広がる命です。それらはすべて、キリストの十字架の奉献によって「成し遂げられた(ヨハネ19:30)」のです。
復活の日の朝、香里教会の私たちは、この偉大な神秘、この偉大な救いのわざをたたえて、全世界の教会とひとつになって、賛美と感謝をささげましょう。
