カトリック香里教会主任司祭:林和則
福音朗読「ヨハネによる福音11章1―45節」
先週も申し上げましたように、四旬節のA年の朗読は「洗礼志願者のために」という意向で選択されています。特に福音朗読では第3主日が「サマリアの女」、第4主日が「生まれつきの盲人」、そして本日第5主日におきましては「ラザロのよみがえり」の箇所が選ばれています。本日の箇所を通して教会は、洗礼の秘跡によって受洗者がキリストの死と復活にあずかり、悪の力から解放されるということを、洗礼志願者に伝えようとしていると考えられます。
四旬節の第1、第3、第4,第5の主日での共同祈願の司祭が唱える後文は「解放を求める祈り」と呼ばれています。第1では「すべての悪から救い、暗闇の力から解放してください」、第3では「罪の重荷と悪のきずなから解放し」、第4では「やみから光に移り、暗闇の力から解放されて」、本日の第5では「罪のきずなと悪の力から解放してください」というように、「暗闇の力、悪の力」から洗礼志願者が解放されるようにという祈りの言葉が入れられています。
本日の「ラザロのよみがえり」には、単にラザロがイエスによって「蘇生させられた」ということだけではなく、「悪の力から解放された」というメッセージがこめられているのです。
「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された(6節)」
なぜ、イエスはラザロが瀕死の状態であるのに、急行されなかったのでしょうか。マルタとマリアは「あなたの愛しておられる者が病気なのです(3節)」とイエスに伝えています。そこには「愛しておられるラザロを助けるために、イエスはきっとすぐに来てくださる」という姉妹の思いがこめられていると思います。それなのに、イエスはまるでラザロのことなど気にもかけていないかのように、二日間も動こうとはされなかったのです。
その答えはイエスの弟子たちへの次の言葉にあると思えます。
「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである(14b―15節)」
イエスがすぐに行かれなかったのは「弟子たちのため」であり「弟子たちが信じるようになるため」であったのです。イエスはラザロが危篤状態にあると聞いた時からすでに、ラザロを死後によみがえらせようと考えておられたのです。それは弟子たちに死者のよみがえりを見せることによって、「復活を信じさせる」ためであったとしか考えられないからです。
この前にも、イエスは四旬節第2主日で朗読された「主の変容」によって、ご自分の復活された姿を先取りして、ペトロたちに見せられました。それもやはり、ペトロたちがイエスの「復活」を信じるようになるためだったのです。
ペトロを始め弟子たちは、イエスの受難予告に動転して心の眼が閉ざされてしまい、その先の「復活」の予告にまったく思いをはせることができていなかったからです。けれども「主の変容」を見ても、弟子たちは「復活」を信じるどころか、思いをめぐらせようともしません。ですから次に、十字架の死を迎えられる直前において、イエスはラザロをよみがえらせることによって、イエスの「復活」を弟子たちに信じさせようとしたのだと考えられます。
「イエスは彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、(33節)」
私ごとですが、学生の時にこの箇所を読んだ時、なぜイエスが「憤りを覚え」たのか、理解できませんでした。イエスがマリアやユダヤ人と共に「悲しまれて、涙を流された」であったのなら、理解できます。なぜ、イエスは「憤られた」のか、また、それは「誰」に対してであったのか、正直、私は困惑しました。
翻訳によっては、この箇所を「憤りを覚え」ではなく「嘆かれた」としているものがあります。けれども、これはあきらかに私が感じたような困惑を読者に起こさせないための「改変」です。原文のギリシア語でも、「憤り」の意味を持った言葉が使われているのです。
イエスはなぜ、「誰」に対して「憤り」を覚えられたのか、さまざまな解釈がありますが、本日は「悪の力からの解放」という洗礼志願者のための祈りの意向に沿った、ひとつの解釈を皆さんにご紹介したいと思います。
その解釈では、この場面を「イエスと悪の力との対決」として読み込むのです。福音書においては「悪の力」にはヘブライ語の「サタン(ギリシア語ではダイモーン、『悪魔』と訳されています)」という表象が用いられています。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、四旬節の第1主日の福音朗読の箇所である「荒れ野での誘惑」において、イエスが宣教へと向かわれる前に、イエスの前に立ち現れます。ただし、ヨハネではこの場面は描かれていません。
ヨハネにおいて「サタン」が登場するのは、最後の晩さんの直前です。イエスが裏切る者が誰であるのかを明らかにするために、パン切れを浸してユダに与えた後のことです。
「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った(27節)」
そして、ユダはすぐに出て行きますが、ヨハネは「夜であった(30節)」と書き記しています。「夜」はサタンの支配する時が始まったことを示しています。そしてイエスの十字架の死によって、サタンが勝利したかのように思われますが、イエスは「復活」によって「サタンの力」である「死」をを打ち砕き、サタンに勝利されたのです。それがラザロの死とよみがえりにおいて「先取り」されていると、この解釈では考えます(あくまでも「ひとつの解釈」です)。
まず「ユダヤ人たち」ですが、ヨハネにおいては「ユダヤ人たち」はイエスに常に「敵対する人びと」として描かれています。その「ユダヤ人」がこの箇所においては「マリアと一緒にいて、慰めていた(31節)」「彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いている(33節)」というように、イエスの側にいるマリアやマルタに寄り添い、ラザロの死をともに悲しんでいるように見えます。
けれども実は「ユダヤ人たち」はサタンの力である「死の勝利」を謳歌し、それをイエスに見せつけようとしていたと考えるのです。
イエスが「(ラザロを)どこに葬ったのか(34節)」と問いただしたのに対して「ユダヤ人たち」が「来て、御覧ください(同節)」という言葉でイエスを「墓」へと招きますが、この言葉をキーワードとすることによって、そのような考えが導き出されます。この招きの言葉を1章の「最初の弟子たち(35―42節)」における、イエスの弟子たちへの招きの言葉に対応させて考えてみるのです。
「二人の弟子」はイエスに「どこに泊まっておられるのですか(38節)」と尋ね、イエスは「来なさい。そうすれば分かる(39節)」と答えられます。「そうすれば分かる」は「そうすれば見るだろう」とも訳すことができます。
イエスが「来なさい。見るだろう」と言われているのは、イエスが「泊っている場所」を見せるためではありません。これはヨハネの「空間的キリスト論」と呼ばれますが、キリストが誰であるのかを示す「場」であって、それは「イエスが父である神とともにいる場」です。キリストが父である神と「ひとつ」であることをイエスは「見せた」と言えるのです。
だとすれば、「ユダヤ人たち」は「来て、見なさい」という同じ言葉でイエスを「墓」に招くことによって、「死が支配している場」すなわち「サタン(悪)の力が勝利している場」を「見せよう」としたと言えます。
この視点に立てば「ユダヤ人たち」の「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか(36節)」も「見るがいい。どんなにラザロを愛していたところで、ラザロは死んだ。『愛』など、何の役にも立たない、無駄だったのだ」というように読み込めます。また「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか(37節)」も、「盲人の目を開ける力を持つ者であっても、『サタンの力』である『死』に打ち勝つことはできなかったのだ。サタン様の勝利だ」というように読み込むのです。
このように「ユダヤ人たち」が「サタン=悪の力」の勝利に凱歌の声をあげ、イエスをあざ笑っている様子にイエスは「憤りを覚え」られたと解釈するのです。
そしてイエスは「サタン=悪の力」が支配している「墓」に行き、父である神に祈られます(『父よ』という呼びかけは『アッバ』であると考えられます)。そして「『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれ」ると「死んでいた人」が出て来ます。ここにおいて、「サタン=悪の力」の勝利である「死」がイエスによって打ち砕かれ、イエスが勝利したのです。
イエスは、十字架の死によって「サタン=悪の力」が勝利したのではないことを「ラザロのよみがえり」によって、あらかじめ弟子たちに示そうとしていたと考えられるのです。
「わたしたちの友ラザロが眠っている(11節)」
イエスが「友」という言葉を使っているのは、ヨハネにおいては二回だけです。ここともうひとつは最後の晩さんのいわゆる「告別説教」においてです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(15:13)」
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ(15:15)」
イエスがラザロを「友」と呼んでいるのは、この最後の晩さんの言葉にあるように、実はイエスはラザロをよみがえらせるために「自分の命を捨てた」ということを示唆するためであったと思えます。イエスがラザロを「よみがえらせる」ためには、「自分の命を捨てる」必要があった、すなわち「十字架に架かられた」ということです。イエスはラザロをよみがえらせるために、十字架の死を受け入れられたと言えるのです。
ここにおいて、「ラザロ」はもはや一個人ではなく、「イエスの友」である人びとを代表する存在となっていることがわかります。
本日の福音の箇所を「洗礼志願者」のために「洗礼」の意味を解き明かしている箇所であるという視点に立つならば、私たちは「洗礼」を受けることによって「イエスの友」となることができると考えられます。
そしてイエスは「友」となった私たちを、「サタン=悪の力」の支配下にあった「友ラザロ」を解放してくださったように、「洗礼」を通して「悪の力」から解放してくださるのです。
本日の「解放の祈り」の言葉をよく味わってみましょう。
「洗礼によってまことのいのちを受ける人々を、罪のきずなと悪の力から解放してください。御子キリストに従う者となり、復活の力を知って、あなたの栄光のあかしとなることができますように」
私たちは「洗礼」を受けたことによって、「死=悪の力の支配」から「まこと
のいのち=神の子のいのち」へと「復活」させて頂いたのです。私たちもラザロ
のように、「神の栄光」をあかしする者となることができるように、日々の生活
を生きて行きましょう。
