2026年3月15日 四旬節第4主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

*四旬節におけるA年、B年、C年の朗読配分において、A年の朗読配分には「洗礼志願者のために」という特徴があります。本日の第4主日におきましても、第1朗読、第2朗読、福音朗読それぞれが、洗礼志願者に向けて、受洗の意味を説明している朗読箇所が選ばれているといえます。

 

第一朗読「サムエル記上161b671013a節」

第一朗読では、洗礼志願者は神によって選ばれた者ですが、その選びは人間的な思いによるものではないということを教える箇所が選ばれています。

紀元前11世紀後半、神が選び、預言者サムエルが油を注いで、イスラエルの最初の王となったサウル王は神のことばに従わず、己の利益を求めるようになったため、神はサムエルに新たな「王となるべき者を見いだした(1b)」と告げます。その者はベツレヘムに住むエッサイの息子たちの中にいると神が言われたので、サムエルはエッサイの家に行き、息子たちを順に彼の前に連れて来させます。

長男であるエリアブが連れて来られるとその容姿の美しさ、背の高さに「彼こそ主の前に油を注がれる者だ(6)」とサムエルは思いますが、神は「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(7)

と言われて、エリアブを退けます。それから次々に息子たちが年の順に連れて来られますが、神はその中の誰をも選ばれません。それでサムエルはエッサイに、息子はこれだけかと聞いたところ、「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています(11)」と答えます。

当時の時代の家は家父長制による封建的な家族制度で、家父長の次に権威を有するのが長男でした。次男から下に下がるに従って、その地位は下がっていき、末子にいたっては「下男」も同然でした。ですから、エッサイにしてみると、末子であったダビデはこの場に臨席させる必要もない、まさに「数に入らない存在」であったのです。

神が人を選ぶに当たって「目に映ることを見ない」と言われた「目に映ること」とは、単に容姿だけではなく、社会的身分や地位や能力、財産などの人を判断するに当たってのこの世的な基準を指しているのです。ダビデは「姿は立派(12)」だったのですが、この世的には一生、価値のない者として生きることが定められているような存在だったのです。

けれども神は、このような社会的な身分や地位、能力や業績、財産などによっては人を判断しない、選ばない、ということを本日の第一朗読は私たちに教えています。洗礼志願者もそうです。彼彼女らが選ばれたのは、社会的な身分や地位、能力や成績などでは全くなく、ただ、「神の愛といつくしみ」によってであったのです。

それは、先々週の第2朗読「使徒パウロのテモテへの手紙」でも書かれていたことです。

「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです(19)

ですから、洗礼を受ける人びとはこの世的な価値をすべて脱ぎ捨てて、ありのままの自分となって、キリストの前に立つ必要があるのです。キリストの前にあっては、この世的な地位や名誉は無に等しい、むなしいものだからです。

 

第二朗読「使徒パウロのエフェソへの教会への手紙5814節」

第二朗読も洗礼志願者に向けてのメッセージの箇所が選ばれています。それは、本日の朗読箇所の最後に引用されている当時の教会の祈りの詩歌が引用されていることによって明らかにされています。

本日の「聖書と典礼」4頁下の注釈にも書かれているように、この詩歌は「初代教会の洗礼式のときの賛歌」だからです。本日の箇所で、パウロはエフェソの教会の、おそらく復活祭の典礼の中でキリストの洗礼を受けた受洗者に、彼彼女らが受けた恵みがどのようなものであったのかを教えているのです。

それは「暗闇(8)」から「光(同節)」への移行であったのです。「暗闇」の中で生きている者は「口にするのも恥ずかしい(12)」ような「暗闇の業(11)」を「ひそかに行っている(12)」のです。そのような者たちは「眠りについている者(14)」であり「死者の中(同節)」にいる者であると「賛歌」は明らかにしています。

けれども、キリストの洗礼を受けたことによって、「光」となるのです。それは「主(キリスト)に結ばれ(8)」たからです。賛歌の中で「キリストはあなたを照らされる(14)」と歌われているように、「光」はキリストそのものであって、その「光」に照らされて、受洗者も「光」となり「光の子として歩み(8)」出します。私たちから発せられる「光」ではありません。キリストという「光」に結ばれて、照らされることによって、私たちはその「光」を反射して「光」となることができるのです。

賛歌では「起きよ」「立ち上がれ」と受洗者に呼びかけます。このふたつの言葉は「復活」を表す言葉です。受洗者はキリストの洗礼を受けることによって、まさに死から命へと、暗闇から光へと「復活」したのです。

それは、私たち一人ひとりがそうであり、大切なことは「光の子となった」のではなく、「光の子として歩く」ことになったのです。ですから、「今、私は光の子と呼ばれる資格はない」と悩む必要はありません。大切なのは「光の子として歩んで行こう」とする「歩み」なのです。

 

福音朗読「ヨハネによる福音9章1―41節」

四旬節の福音朗読は、第一主日が「イエスの荒れ野での誘惑」、第二主日が「主の変容」で、それぞれA年はマタイ、B年はマルコ、C年はルカが読まれます。第三主日からはA年、B年、C年と、それぞれ違った主題の箇所が読まれます。A年は冒頭で申し上げましたように「洗礼志願者のために」という主題に従って、第三主日は「サマリアの女」、本日の第四主日は「生まれつきの盲人」とそれぞれヨハネの福音が選ばれています。先週の「サマリアの女」では、「生きた水」を受けてこの世的な束縛から解放されて、宣教者となって行ったサマリアの女性の姿に、洗礼を受けて解放され、宣教者となって行くという受洗者の姿を読みとることができます。

今週の「生まれつきの盲人」も洗礼を受けることによって信仰の目が開かれ、段階的にイエスが誰であるかを深めて行く受洗者のプロセスが描かれていると言えます。

盲人の目が見えるようになったということが受洗を表していると考えられるのは、イエスが目を洗うようにと指示した池が「シロアムー『遣わされた者』という意味―の池(7)」という注釈を加えられている点です。実は、「シロアム」というヘブライ語には「遣わされた者」という意味を見い出すことはできないのです。ヨハネは「シロアムの池」に「遣わされた者」という意味を付与することによって、この盲人が単に目が見えるようになったのではなく、神によって「遣わされた者」となったという象徴性を与えたかったのだと思います。それは「洗礼を受けた者」ということでもあり、「目が見えない」というのは、本日の第二朗読に示されているように、霊的に「暗闇」であったことの象徴であったと考えられます(これを示唆するために第二朗読の当該箇所が選ばれていたのです)。  それが「シロアムの池」の水によって「光」へと導かれたのです。そして「光の子」として世に遣わされて行くことになったという意味が、「シロアム」を「遣わされた者」としたことに込められていると思います。

けれども、受洗したからといって、すぐにイエスが誰であるかという答えに達することができるわけではありません。ヨハネの福音においては、それは迫害者の尋問に立ち向かいながら深めて行くというプロセスが示されています。

ヨハネの福音の特徴は、生前のイエスを描きながら、そこにヨハネの福音の時代の人びとの状況を重ね合わせて二重写しにされているという点にあります。それによって、ヨハネの福音書を信仰のテキストとして信仰生活を送っていた共同体(「ヨハネ教団」と呼ばれています)の人びとに福音のイエスが今、われわれの中に臨在しているという実感を与え、そのイエスが自分たちの中でどのように働きかけているのかを指し示そうという狙いがあったのだと思えます。

本日の箇所で「二重写し」になっていることを明確に察知できるのが、盲人であった人の両親がファリサイ派の人びとに呼び出され、尋問を受ける箇所です。  

両親は「わたしどもはわかりません。本人にお聞きください(21)」と答えます。それは「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者があれば、会堂から追放すると決めていたのである(22)」ので、「追放」を恐れた両親は自分たちの関与を否定したのだというように説明されています。

けれども、実はファリサイ派を中心としたユダヤ人が「追放」を決定したのは紀元90年であって、イエスの生前のことではなく、ヨハネ教団にとっての「現在」のことであったのです。ここには、受洗した息子に関与して「会堂(それはユダヤ社会そのもの)」からの追放を恐れて、息子との関係を断ち切ろうとする、当時の生々しい現実が反映されていると考えられます。

「見えるようになった盲人=受洗者」はファリサイ派から何度も「お前はあの人をどう思うのか(17)」と尋ねられます。この問いに答えながら、受洗者は「イエスという方(11)」「預言者(17)」「神のもとから来られた(33)」と「イエスが誰であるのか」という「キリスト論」を深めて行きます。

そして業を煮やしたファリサイ派の人びとは彼を「イエスをメシアであると信じる者」と断定して、異端者として「彼を外に追い出した(34)」のです。  ここには、当時のヨハネ教団の多くの人びとが、ファリサイ派の人びとによって社会から追放された現実が反映されていると思えます。けれども、「外に追い出されたこと(35)」によって、彼は、受洗者は、イエスに「出会う(同節)」ことになります。そして、イエスが「人の子=メシア=キリスト」であることを明確に知り、見ることになり、「『主よ、信じます』と言って、ひざまず(38)」くことになるのです。ヨハネの福音は、この箇所を通して、迫害を受けているヨハネ教団の受洗者に、次のように語りかけていると思えます。

「迫害を通してこそ、あなたがたはイエスが誰であるのかという問いを深めて行き、『イエスをメシアである』という確信に達し、宣言することになる。そして社会から追放されるだろう。けれども、この世から追放された場所にこそ、復活のイエスが待っていて、あなたがたはイエスと出会うことができる。そして、まことの礼拝を捧げることができるようになるのだ」

 

この箇所のメッセージは、洗礼志願者は洗礼を受けたからといって、すぐにイエスが誰であるかがわかるわけではなく、人生の日々の歩み、特に困難を通して信仰を深めて行き、やがて復活のイエスと「出会う」ことができる、ということであると思えます。