2026年3月8日 四旬節第3主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

福音朗読「ヨハネによる福音4章5―42節」

 今週は、当日の説教の内容に従った要約ではなく、よりわかりやすく、「生きた水」と「水を飲ませてください」というテーマに分けて、説明したいと思います。「聖書と典礼」に掲載されていた短い形ではなく、ぜひ、福音書の当該箇所の全文と照らし合わせつつ読んで頂きたいと願います。

 

「生きた水」

 ヨハネ福音書の特徴のひとつに、イエスと登場人物である個人や群衆また弟子たちとの間でのかみ合わない会話があります。たとえば「イエスとニコデモ(3:1-21)」ではイエスが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない(3:3)」と言ったのに対して、ニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか(3:4)」と問いかけます。明らかに会話がかみ合っていません。

 イエスと人びととの会話がかみ合わない原因は「視点」の違いにあると思います。イエスが「霊的」な視点に立っているのに対して、人びとは「この世的、物質的」な視点に立っているといえます。

 「サマリアの女」においてポイントとなるのは「生きた水」ということばです。「生きた水」ということばは当時のユダヤでは「溜まり水でない、流れている新鮮な水」を意味しました。それは川であり、また湧き出る泉のことです。イエスが「あなたに生きた水を与えたことであろう(10節)」と言われたのにたいしてサマリアの女性は「あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか(11節)」「ここにくみに来なくてもいいように、その水をください(15節)」と答えます。

実は、彼女は次のようなことを言っていたのです。私の意訳です。

「この井戸は湧き出る泉ではありません。溜まり水です。ですから、くむ物がなければくめません。しかも深いので、くむのにたいへんな手間がかかります。ですから、そんな手間がかからない、くみ上げる必要のない、湧き出ている泉の場所をご存じでしたら教えてください。そこにくみに行かせてください」

 サマリアの女性はあくまでも、物質的な、目に見える「生きた水」を求めています。ですから、イエスが言われる霊的な「生きた水」とは、かみ合いません。

そんな彼女に、イエスは彼女の素性を当ててみせます。女はそれによってイエスが「預言者」ではないかという考えに導かれます。そこから女性は「礼拝」という霊的、宗教的次元に開かれていきます。

 サマリア人とは北イスラエル王国の生き残りの人びとの子孫です。紀元前931年、ダビデ王が打ち立てた王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。南ユダ王朝はダビデの血統に属し、エルサレムを首都とし、その地にあった神殿での礼拝を続けました。ソロモン王朝の大臣であったヤロブアムの反乱によって建国された北イスラエル王国は後にサマリアを首都とし、エルサレムの神殿に対抗してゲリジム山に聖所を置き、そこで礼拝を続けました。

サマリアの女性が言う「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しました(20節)」の「この山」がゲリジム山です。彼女は「預言者」にたいして、ゲリジム山とエルサレムの神殿とを対比して、どちらが本当の礼拝の場所であるのかと問いかけているのです。

 それに対してイエスは「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(21節)」とユダヤ人とサマリア人の対立の原因である両方の聖所での礼拝を否定します。そして「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(24節)」と新たな礼拝を指し示します。これによって女性はイエスにメシアではないかと問いかけ、イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしである(26節)」と答えます。ここにおいて、サマリアの女性とイエスとの会話がくい違いから一致へと転換し得たのです。

 ここから、イエスが言われる「生きた水」とは、霊と真理による「真実の礼拝」であったことがわかります。それは、この後のエルサレムにおいてイエスが人びとに語られたことばで明確にされます。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7章37b―38節)」

 つまりイエスのところに行って、イエスを信じることを通して、真実の礼拝が可能になり、それこそが「生きた水」であるということになります。礼拝する人は「飲む」だけではなしに、その人の内から生きた水、すなわち「泉」が湧き出て、その人だけでなく、周囲の人びとをも潤おすことになるのです。

 そのようなイエスのもとでのもっともすばらしい礼拝こそが「ミサ」です。それは「キリストの体」によって行われる礼拝です。「キリストの体」は「教会(建物ではなく共同体)」であり「聖体」です。ミサに与ることによって、私たちは生きた水の豊かな、あふれかえるような流れに心も体も浸し、そして内から湧き出てくる泉によって、日々の生活の中で出会う人びとに生きた水を分け与えて行くのです。

 

「水を飲ませてください」

 ここでは「サマリアの女」の物語を、一人の女性がイエスとの出会いを通して人生の大きな転機を迎える「ドラマ」として、この福音を読み解いていきたいと思います。

 イエスはヤコブの井戸のそばにただ「座っておられた(6節)」のではなく、実は彼女を「待っていた」のだと思います。彼女を解放し、救い出すためです。

 女性に出会ったイエスは「水を飲ませてください(7節)」と呼びかけます。これは彼女にしてみると、ありえないような驚くべき呼びかけだったのです。それはひとつだけではなく、三つの原因によってもたらされた驚きでした。

 第一の原因は宗教的なものです。彼女の返答の「ユダヤ人のあなたが(9節)」とあるように、当時のユダヤ人とサマリア人は敵対していて、それはどちらが本来のイスラエルの信仰を護持しているのかという、互いに譲ることのできない宗教的な対立であるだけに深刻なものでした。そのために会話を交わすだけでも宗教的に「汚れる」として徹底的に避け合っていました。そのユダヤ人がサマリア人の自分に話しかけてきたのです。

 第二の原因は社会的なものです。単にサマリア人にだけではなく「女のわたしに(9節)」と彼女が言っているように、男性から見知らぬ女性に語りかけることもありえないことだったのです。当時のユダヤ社会は男尊女卑の傾向がはなはだしく、宗教的にも女性は男性より劣ったものとされ、男性が見知らぬ女性と会話することは自らを卑しめることとされていました。だからこそ弟子たちも「イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた(27節)」のです。しかもイエスは「飲ませてください(7節)」というように命令形ではなく、ていねいに嘆願するかたちで女性に話しかけています。当時の女性がこのように、男性から自分の人格を尊重してもらえるような呼びかけをされることはほとんどなかったのです。

 第三の原因はこの女性の人生に関わる個人的なものでした。まず彼女が「正午ごろ(6節)」に井戸に水をくみに来たことから、彼女が人目を避けて生きていたことがわかります。当時のパレスチナ地方では人々は朝、井戸へ行って水をくみ、どうしても足りない場合には夕方にもう一度水をくみに行っていて、「正午ごろ」にくみに来ることはあり得なかったのです。

彼女がなぜ人目を避けていたのか明らかにしたのがイエスのことば「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない(13節)」でした。なぜ彼女が五人の夫と別れたのか、死別なのかもしくは離縁されたのか、わかりません。けれどもいずれにしても当時のユダヤ社会にあっては、離縁は「女性が罪を犯した結果」であるとされ社会的に疎外されてしまうのです。まして五人もの夫と別れたということはまさに「罪深い女」とさげすまれていたことでしょう。当時は女性に職場などなく、妻の座を失ってしまえば物乞いをするか、妾(めかけ)になるか、娼婦になるかしかありませんでした。だからこそ旧約から社会的弱者の代表は孤児、やもめ(寡婦)、寄留者とされてきたのです。おそらく彼女は娼婦と並んで軽蔑され疎外されてきた「めかけ」の立場にいたのでしょう。そしてきっと、彼女は自らも自分を罪深いもの、もはや陽の当たるところでは生きてはいけない者、社会からも誰からも必要のない、役に立たない者と考えていたでしょう。けれどもイエスはそのような自分の立場を見抜いていながら自分にたいして、ていねいに自分を尊重してくれたうえで、自分に水を「依頼」してくれたのです。

 イエスは彼女に「水をください」ということばを投げかけることによって、彼女を取り巻き、圧迫していた「宗教的」「社会的」「個人的」な三重の壁を揺さぶり、打ち砕いたのです。彼女は生まれて初めて、あらゆるしがらみに捕らわれることなく、自分がそのままの自分として受け入れられ、大切にされたという体験を、恵みを、イエスから受けたのです。

 彼女がイエスに「礼拝すべき場所(20節)」を尋ねたのは「エルサレムの神殿」と「ゲリジム山の聖所」、どちらがまことの礼拝の場所であるのかを知りたかったからではありません。なぜなら彼女はどちらの場所にも行くことができなかったからです。エルサレムの神殿には、もちろんサマリア人の彼女は入ることができませんが、ゲリジム山の聖所にも「汚れた者」とされた彼女には入ることはできなかったのです。彼女は「自分のような者でも礼拝できる場所」を求めて、イエスに問いかけたのです。それにたいしてイエスは神殿でもゲリジム山でもない、メシア、キリストである自分を信じる者たちによって、キリストを通して行われる新たな礼拝の場を彼女に与えたのです。そこではただ「イエスをキリストと信じる」だけで、誰も排除されることなく、すべての人が平等な者として、ともに礼拝することができるのです。

 

そして彼女は「水がめをそこに置いたままにして(27節)」人びとの中に飛び込んで行きます。「水がめ」はそれまでの彼女の生活を象徴するものでしょう。人目を避けて隠れるようにして生きてきた生活、もうそれは必要なくなったのです。彼女は新しい「生命の水」を手に入れたからです。まさにその水は彼女を解放し、自由にし、新たに生まれ変わらせたのです。もはや新たにされた彼女は「人目」を、社会的なしがらみを気にしません。ただ解放された喜びを、キリストに出会えた恵みを人びとに告げ知らせずにはいられなくなって、きっと躍り上がるようにして、人びとの中へと駆け出して行ったのだと思います。

 これこそが宣教者の姿でしょう。誰に強制されたわけでもなく、義務感からでもありません。ただ「私はキリストに出会って、救われた!」という感謝と喜びから駆け出さずにはいられない、告げ知らせずにはいられないという、突き上げるような思いからの宣教です。

「救われた者」は「宣教者」とならずには、いられないのです。