カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「創世記12章1―4a」
創世記の12章から、イスラエル民族の太祖であるアブラハムの物語が始まります。11章までは原初史、天地創造から始まる神話的な世界が描かれていました。ある意味、12章のアブラハムの物語から「歴史」が始まると言えます。それは「イスラエル」という、具体的な固有の民族の歴史ではなく、「神の民」の歴史です。
原初史において最初に登場するアダムとエバ、そして最後に登場するバベルの塔を建てようとした人びとに共通するのは、「神のようになろう」としたことです。
アダムとエバは蛇の「神のようになれる」という誘惑に負けて、善悪の知識の樹の実を食べてしまい、楽園から追放されました。それは神と顔と顔とを合わせて、神の思いに従って生きていた神の世界から、人間の思いと計画に従って生きる人間の世界への移行と言えます。けれどもその人間の造る世界はカインとアベルの兄弟殺しから始まって、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計らっている(6:5)」ありさまになってしまいます。そのため、神は洪水を起こして世界を再創造し、「神に従う無垢な人(6:9)」であったノアから新たな人類を起こそうとされます。けれども、ノアの子孫であるバベルの人びとは「天まで届く高い塔」を建てようとします。それは神の座である「天」への侵犯であり、神に取って代わろうとする企てでした。けれども、もはや神は彼らを滅ぼそうとはしません。ノアにたいして「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない(9:15)」と契約されたからです。神はただ、「彼らをそこから全地に散らされた(11:8)」のです。
そして神は、「散らされた民」の中から「神の民」を起こそうとされます。その「神の民」の初穂がアブラハムであったのです。
神はアブラハムにたいして「生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい(1節)」と命じます。この時、アブラハムは75歳、現在の日本で言えば「後期高齢者」でした。そして彼は長く住み慣れたハランの街において、地位や名誉や財産を築き上げ、しっかりとその地に根をおろした充実した生活を送っていました。常識的に考えれば、高齢の身で、なおかつその地で築き上げた地位や財産を捨てて、見知らぬ土地に旅立つことなど、考えられないことです。
けれどもアブラハムは迷うことなく「主の言葉に従って旅立った(4a節)」のです。ここに「神の民」の生き方が示されています。
アダムとエバ、そしてバベルの人びとは自らの思いと計画に従って生きようとしました。それは自分が、自分の人生、そしてこの世界の中心であり、支配者として生きる生き方でした。それは人生と世界を「自分のもの」として、まさに「自分を神とする」という生き方なのです。けれども、アブラハムは「生まれ故郷」といった、人間的な地縁や血縁といった、人間の思い計らいによる枠の中にある共同体を離れて、神の思いに従って生きて行こうとする新たな共同体に向かって歩み出そうとしました。自分の人生を「自分のもの」ではなく「神のもの」として、神にゆだねて生きて行こうとしたのです。このアブラハムの旅立ちから、現在の私たちに至るまでの「旅する神の民」の旅路が始まったのです。私たちはアブラハムの霊的な子孫ですが、旧約の「神の民」ではなく、キリストによって新たにされた新約の「神の民」なのです。四旬節を通して、私たちは今、自分が自分の思いや計画に従って、人間的な思いの中で歩んでいはしないか、日々の生活を検証する必要があります。もし、そうであったなら、その生き方から神の思いに従って歩む生き方へと心を回して行きましょう。神は毎日、私たちにたいして「自分の思いや執着を離れて、私の示す地に行きなさい」と、私たちを招いておられます。「神の民」は「神に招きに応えて生きる人びと」なのです。
第二朗読「使徒パウロのテモテへの手紙二1章8b―10節」
本日のパウロの手紙にも、第一朗読のアブラハムのように「神の招きに応えて生きる」という「神の民」としてのパウロの姿が明確に示されています。
パウロは自分がキリストの使徒となったのは自分の思いや計画ではなく、「(神が)聖なる招きによって呼び出してくださった(9節)」からであると書いています。アブラハムのようにパウロも「私の示す地に行きなさい」と神から呼び出されて、それまでの「ファリサイ派」としての社会的立場を捨てて、新たな生き方に向かって旅立ったのです。
その招きは「わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです(同節)」と、パウロは続けます。神の「招き」は自らの力によって為し得た、何らかの功績の見返りとして与えられるものではなく、神のご計画と一方的な恵みによって与えられるものであると、パウロは言っているのです。
「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです(エフェソの信徒への手紙2章8―9節)」
私たちの受けた「キリストの洗礼」も、「私たちの行い」によってではなく、神から無償で与えられた「招き」であり、「賜物」であるのです。その「招き」と「賜物」は、日々新たにされて、私たちに与え続けられているのです。
福音朗読「マタイによる福音17章1―9節」
本日は「主の変容」と呼ばれている箇所です。「主の変容」もまた、ペトロら弟子たちへの「招き」であったのです。
この「主の変容」の出来事は、イエスが弟子たちに最初の受難予告をした「六日の後(1節)」に起こりました。
イエスは受難予告を行うに当たってまず、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか(マタイ16:15)」と問いかけられます。その問いにたいして、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です(同16:16)」と答えます。
その答えを受けて、イエスは「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている(同16:21)」と最初の受難予告をされたのです。
弟子たちは激しく動揺し、ペトロに至っては「イエスをわきへお連れしていさめ始めた(同16:22)」のです。ペトロの「いさめ」の内容については書かれていませんが、おそらく、次のような内容であったと思われます。
「イエスさま、とんでもありません。あなたはメシアであるのですから、ユダヤの王となってローマ帝国を打ち砕いてユダヤを解放し、さらには全世界の王としてユダヤの民と共に全世界を支配するべきなのです。そのメシアが人間によって殺されるなど、あってはならないことです。」
そのペトロに対して、イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている(マタイ16:23)」ときびしく叱責されます。実はペトロはイエスの身を案じていただけではありません。自分自身の望む道が絶たれてしまうことを案じていたのです。
ペトロだけではありません。弟子たちがイエスに従っていたのは、イエスへの純粋な信仰と敬慕からだけではなく、自らの権力欲を満たすためでもあったのです。イエスがメシアとして王になれば、自分たちは大臣のような権力の座を得ることができるという願望を抱いていたのです。
それは福音書に何度も出て来る「誰が一番えらいか」という議論に象徴されています。それは「弟子たち」という「派閥」の中で誰がトップに立つかという、きわめて政治的な議論だったのです。それが、イエスが王になるどころか、祭司長たちによって殺されてしまえば、自分たちの権力への野望がついえ去ってしまうことになってしまいます。ですから、ペトロはイエスを「いさめた」のです。 けれども、そのような「人間的な思い」は、イエスの十字架に向かう歩みを邪魔することになってしまい、ペトロはイエスに敵対する「サタン」になってしまうのです。
ですから、イエスは受難予告に続いて、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(同16:24)」と弟子たちに呼びかけるのです。それは神がアブラハムに呼びかけたように、それまでの自分の生き方、考え方を離れて、新たな地平へと旅立つようにという招きでした。
その招きは「十字架」だけではありません。「十字架」を通して「復活」へと至る道のりへの招きであったのです。けれども、弟子たちは「イエスがみじめに殺される」という受難予告だけで耳がふさがってしまっていて、その後の「三日目に復活することになっている(マタイ16:21)」という復活予告が全く耳に入って来ず、激しい動揺と困惑の中に落ち込んでしまいます。
その弟子たちを励ますために、未来の復活の姿をあらかじめ、弟子たちの前で実現してみせたのが「主の変容」であったと考えられています。
その「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(2節)」イエスの荘厳な姿にペトロは恍惚となり、「仮小屋を三つ建てましょう(4節)」と進言します。それはこの栄光のイエスをこのまま、ここに留めようとする思いからでした。
いつまでも、このままでいてほしい、十字架で死ぬなどという、みじめな死を迎えてほしくない、という人間的な思いからでした。
それに対して、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け(5節)」という神の声が響き渡ります。このことばの前半は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に天から聞こえた神のことばと同じです。後半の「これに聞け」が今回、新たに加わった、つまりペトロたちに向けられたことばであったのです。このことばはペトロたちへの新たな招きです。
以前、ガリラヤ湖のほとりで、ペトロたちはイエスに招かれて弟子となり、イエスと共にガリラヤでの宣教に向かって旅立ちました。そして今、新たに父である神から、イエスのことばに従って、十字架に向かって旅立つようにという招きを受けたのです。そのためにはペトロたちがしがみついていた政治的な、人間的な野心から離れなければならないのです。それはある意味、漁師という職業や家族を捨てることよりも困難なことであったのかも知れません。この「招き」はまた、神からの大きな「挑戦」であったと言えると思います。ペトロたちにしてみると、どうすればよいのか、困惑するだけだったでしょう。そんな彼らにイエスは「近づき、彼らに手を触れて(7節)」「起きなさい。恐れることはない(同節)」と言われるのです。マタイの福音で、イエスが自分から弟子たちに近づくのはここと、復活した後、弟子たちを宣教に派遣する時だけです。
しかもここでは「手で触れられ」さえもするのです。それはイエスの本当に心のこもった思いやりと励ましです。「さあ、迷っていないで、立ち上がりなさい。一緒に十字架に向かって歩いて行こう。恐れることはない。私はいつもあなたがたと共にいる」ということばをかけるために、イエスは近づき、ペトロたちの肩に手を触れられたのだと思います。
