2026年2月8日 年間第5主日(A年のミサ)のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

第一朗読「イザヤの預言58710節」

本日の「イザヤの預言」は「第三イザヤ」と呼ばれている預言者の預言です。

第三イザヤは、かつての南ユダ王国の民がバビロンの捕囚から解放され、エルサレムに帰還してから50年近くが過ぎていた時期に活動しました。その頃にはペルシア帝国の援助もあって、神殿が再建され、エルサレムの街もほぼ復興されていました。本来ならば、ユダの民は歓喜に包まれているはずでしたが、逆に深い絶望の中にいたのです。それは、民がもっとも望んでいたダビデ王朝の復興と国としての独立が不可能であることを思い知らされていたからでした。

ダビデ王朝の血統を受け継ぎ、自らが王に即位することによってダビデ王朝の復興を志したゼルバベルはペルシア帝国によって暗殺され、ダビデ王家の血統は絶たれてしまいました。また、ユダの地はあくまでもペルシア帝国の植民地としてユーフラテス西方管区に組み入れられていました。ペルシア帝国が神殿の再建やエルサレムの市街地の復興を援助したのも、あくまでも植民地経営の一環であって、ユダの民から安定した税収を可能にするためだったのです。 

望みを絶たれてしまったユダの民は、神が預言者を通して約束されていたユダの国の栄光を取り戻してはくれなかったと、神への不信と怒りを抱き、神から離れて行きました。そのために、現世的な栄光である「富」を求めて生きるようになり、そのためには同胞から搾取することも厭わなくなってしまったのです。

今週の朗読箇所で「飢えた人(7)」「さまよう貧しい人(同節)」「裸の人(同節)」は同胞によって搾取され、負債を返済できずに家を奪われた「ホームレス」の人びとであり、そのような人びとがエルサレムの街にあふれていたことが背景になっているのです。 

また「あなたの傷(8)」とは個人の痛みだけではなく、格差社会によってもたらされた社会の分断という「民の傷」を指しているのです。同じユダの民の同胞が貧富の差によって引き裂かれて、富める者が貧しい者を搾取し圧迫しているという非人間的な状況です。 

ですからイザヤは「同胞に助けを惜しまないこと(7)」とユダの民に訴えるのです。「同胞」と訳されているヘブライ語の原文の言葉は「バーサール」であり、直訳すると「あなたの肉」となり、ユダの民が「同胞」以上の強い絆に結ばれていることをイザヤは訴えようとしています。それは、「民はひとつの体である」ということでしょう。ですから、同胞を傷つけることは自分自身を傷つけることであると、イザヤは「バーサール」によって訴えているのです。

このイザヤの教えは、パウロが分派争いによって分裂していたコリントの教会に書き送った手紙の中の「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つである(一コリント12:12)」という「教会は一つのキリストの体」という教えに通じるものであると思います。新たなイスラエル、新たな神の民である私たちキリスト者も互いに「バーサール」なのです。 

ですから、同胞として助け合うことが「神の民」のしるしとなります。そのため、「同胞に助けを惜しまないこと」は「あなたの光(8)」となり「闇の中に輝き出で(10)」るようになるのです。

そして、私たちキリストの教会では「キリストのように互いに愛し合うこと」が「新たな神の民」のしるしとなるのです。

 

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一215節」

 今週も第二朗読はパウロのコリントの教会への手紙の続きが読まれます。

本日の箇所では、パウロがコリントの教会に行った時の心身の状態が「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安であった(3)」ことが告白されています。 

それは本日の「聖書と典礼」4頁の注に書かれていますように「アテネで、パウロは思うように宣教の成果を上げられなかった」からです。このことは「使徒言行録」の17章で確認することができます。パウロはアネテの中心部アレオパゴスでアテネ市民に福音を語りますが、その結果は「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った(32)」と書かれています。「立ち去った」とありますが、そこにはパウロの深刻な挫折感がこめられていると思えます。パウロはアテネでの「失敗」によって、宣教者としての自分に自信を失ってしまったのではないでしょうか。その自信喪失がパウロに「衰弱、恐れ、不安」をもたらしたのではないでしょうか。 

けれども、パウロはここで「逆転の発想」とも言うべき決断をするのです。「わたしはそちら(コリント)に行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした(1)」とパウロは書いています。 

これは逆に言うと、パウロはコリントに行くまでは「優れた言葉や知恵」を用いて宣教を行っていたということです。これはパウロが、自分は「優れた言葉や知恵」を有しているという自信を持っていたからこそ、できることです。つまりパウロは、自分の知恵や能力という、自分の力を使って宣教を行っていたのです。 

その自信がアネテにおいて打ち砕かれました。それによってパウロは「あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい(2)」と「心に決めた」のです。 

パウロは自分の知恵や能力、自分自身の力ではなく、ただ、十字架のキリストご自身が自分を通して働いてくださるようにしようと決心したのです。

「十字架」は、当時のローマ世界にあっては「最低の死」でした。十字架はこの世の「底辺」、しかも、もっとも低い所に立っているのです。そのような十字架は、人間的な知恵や力によって、上から目線で「教えてやろう」というような態度では伝わらないということに、パウロは自らの「弱さ」を突きつけられたときに、はじめて思い至ることができたのだと思います。むしろ、人びとの中でへりくだって、弱い者となって、人びとに仕える者となることによって、自分ではなく、十字架のキリストご自身が働いてくださるようになる、とパウロは信じたのではないでしょうか。

「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした(5)」 

パウロはそれまで自分の力で行っていた宣教を、神の力による宣教へと転換して行ったのです。

そのとき、パウロは悟ったことでしょう。アテネでの失敗は、宣教を己の業として傲慢になっていた自分を正しい道に戻すために、神が与えてくださった、神のお計らいであったのだと。それは苦難ではなく、大きな恵みであったのだと。 

ただ、もし、パウロがいつまでも失敗を悔やんでいただけで終わっていたならば、「失敗」を「恵み」に変えることができずに、宣教者としては終わっていたことでしょう。けれども、きっとパウロは「失敗」の中にあっても、神のみ心を求めて、ひたすら祈りつづけていたからこそ、この「恵み」に達することができたのであろうと思えます。

 

福音朗読「マタイによる福音51316節」

本日の福音は、先週の「山上の説教」冒頭の「真福八端」に続く箇所です。

本日の箇所では、私たちキリスト者がこの世にあって、どのような者として在るべきであるかが語られています。

まず、イエスは「あなたがたは地の塩である(13)」と弟子たちに向かって語られます。

「塩」は古来より人類にとって、欠かすことのできない大切な食材です。けれども、塩はそれ自体では塩辛くて、とても食べられたものではありません。塩はあくまでも、何らかの料理に入ってこそ、食べることが可能になります。そして、塩が入ることによって、その料理の味をびしっとしめることができるのです。塩が入っていないと、何か、しまりのない味になってしまうのです。

そして、それだけ大切な役割を果たしている塩であるのに、料理の中に入ってしまうと見えなくなってしまいます。

イエスが言われる「塩味」とは、イエスを通して弟子たち、そしてまた私たちに与えられた「福音的価値観」もしくは「福音の恵み」のようなものとして考えられるのではないでしょうか。

私たちが受けた福音の恵みを人に伝えなければ、それは「塩辛いもの」になってしまうのでは、と思えます。その人が「伝えない」ということは、その人自身が「福音の恵み」を味わっていない、福音書を読んでも何が書いてあるのかわからない、「難解」な書物にすぎないものとなっているからであると思えます。でも、その人が「福音」のすばらしさ、その恵みを実感していれば、人に伝えずにはいられなくなるはずです。

いずれにしましても、私たちが人びとの中に入って行って、福音的価値観を伝えなければ、私たちは受けた福音を無にしてしまうことになります。

けれども、その伝え方が「福音」よりも「自分」を前面に出す、いわゆる自己アピールのために「福音」を利用してはいけません。洗礼者ヨハネがそうであったように、自分ではなく、キリストが伝われば、それでいいのです。自分は忘れられ、認められずとも、それでよいのです。大切なことは人びとの交わりが福音的価値観によって、しっかりと味つけられることなのです。

続いてイエスは「あなたがたは世の光である(14)」と言われます。この「光」は第一朗読のように「同胞を助ける」といったような自分の行いや努力によって輝きだす「光」ではなく、やはり私たちに与えられた「福音の光」「キリストの光」であると思います。なぜならイエスは「世の光になりなさい」とは言っていないからです。

そしてイエスは「ともし火をともして升の下に置くものはいない(15)」と言われます。つまり、ろうそくを灯しておきながら、箱をかぶせて隠してしまうような者はいないと言うのです。それに対して私たちは「そんなことをする人がいるわけはないですよ」と笑うことはできません。私たちはしばしば「福音の光」「キリストの光」を「教会」という「箱」の中に閉じこめてしまうからです。そうすると「教会」の中は明るいのです。そして教会のメンバーである信徒だけが「キリストの光」の恵みを味わうことができます。けれども、「教会」の外の世界は真っ暗なままなのです。

「あなたがたの光を人びとの前に輝かしなさい(16)」というのは、あなた方が受けた「福音の光」「キリストの光」を自分たちだけで独占しないで、「教会を開き、全世界の人びとの前に輝かしなさい」ということなのです。だからこそ、「開かれた教会」になる必要があるのです。教会を閉じて、その中に入って来る人だけを迎え入れるのではなく、積極的に教会から外の世界に向かって「キリストの光」を高く掲げて人びとの中に入って行くこと、すなわち「宣教」が求められているのです。

 

「塩」も「光」も、人びとの中に、社会の中に入って行ってこそ、「塩」の「味」が生き、「光」が「輝く」ことができるのです。