2026年2月1日 年間第4主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

第一朗読「ゼファニヤの預言23節、31213節」

本日の第一朗読に「ゼファニヤの預言」の当該箇所が選ばれているのは、ゼファニヤが呼びかけている「苦しみに耐えてきた人々(2:3)」が、本日の福音で「幸いである」と言われている人々に照合しているとする解釈によるものです。

 

本日の「ゼファニヤの預言」の歴史的背景は、先週の第一朗読の「イザヤの預言」の歴史的背景につながっています。

先週の「イザヤの預言」の歴史的背景には、北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされたという出来事がありました。その北イスラエルの滅亡をもたらした要因が紀元前734年の「シリア・エフライム戦争」でした。シリア(アラム)とエフライム(北イスラエル王国)が反アッシリア同盟を結成し、南ユダ王国のアハズ王にも同盟に加わるようにと要請しました。しかし、アハズ王がそれを拒否したので、アラムと北イスラエルの同盟軍が南ユダ王国に侵攻し、首都エルサレムを包囲しました。窮状を打開するために、アハズ王はアッシリアの王に軍事的援助を要請し、見返りとしてアッシリアの属国になることを約束しました。その結果、アッシリア帝国は北イスラエル王国に侵攻し、北イスラエル王国は滅ぼされたのです。

南ユダ王国はアラムと北イスラエル王国の軍事的脅威から解放されましたが、アッシリアの属国となり、アッシリアに貢ぎ物を納めることになりましたが、さらにアッシリアはアハズ王に、アッシリアの神々のための祭儀を行うことを強要して来ました。預言者イザヤはそれに激しく反対しましたが、アハズ王はエルサレム神殿にアッシリア式の祭壇を建造して祭儀を行い、本来のイスラエルの神のための祭壇は隅に追いやられてしまいました。

ただ、アハズ王の死後、次のヒゼキヤ王はアッシリアが内乱のために弱体化したこともあって、イザヤの諫言を受け入れて、アッシリアの宗教を排除しました。けれども、次のマナセ王と続くアモン王の時代に、アッシリアの神々の宗教は再び盛んになってしまい、その時代にゼファニヤは預言者として活動し、そのような状況をきびしく糾弾したのです。

なぜ、ヒゼキヤ王が排除したアッシリアの宗教が再び盛んになったのでしょうか。それは「人は易(やす)きに流れる」ということであると思います。アッシリアの宗教は、いわゆる「ご利益宗教」でした。この神を拝めば、この世的な利益を得ることができるということです。アッシリアの神々は人間に、戦いでの勝利や豊かな富などの、この世的な成功をもたらすとされていたのです。対して、イスラエルの神は、そのような「ご利益」を求める信仰をきびしく拒絶していました。それは人間が自分の欲求の達成のために神を「道具」とすることを許さないからでした。あくまでも、人間が神の思いに従うことが要求されるのです。

ただ、アッシリアの宗教とイスラエルの宗教、人にとってどちらが「易き」か、安楽を感じさせてくれるかというと、やはりアッシリアの宗教でしょう。人は弱いものなのです。そのような安楽な「信仰」に流されていた南ユダ王国の社会は、現世の歓楽を求める方向に流されていました。

そのような状況の中で、ゼファニヤのように、現世の利益ではなく、ただ神に従って生きようとし、それを人びとに説き聞かせようとする人びとは、あざ笑われ、圧迫され、のけ者にされていたのです。そのような人びとが「苦しみに耐える(2:3)」人びとであったのです。その人びとにゼファニヤは、「主の怒りの日(同節)」における救いを約束し、励ましているのです。

 

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一12631

第二朗読は先週の箇所の続きです。先週の箇所では、コリントの教会が「パウロ派」「アポロ派」というような派閥が生まれて分裂してしまい、争い合っている状況がパウロによって非難されていました。今週では、パウロは次のようにコリントの教会の人びとに書き送ります。

「知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません(26)

これは、それぞれの派閥が自派の優越性を誇示するために「知恵」「能力」「家柄」といった、この世的な価値を用いたからです。それに対してパウロは、「知恵ある者(27)」「力ある者(同節)」「地位のある者(28)」に、「恥をかかせるため(27)」「無力な者とするため(28)」に、「無学な者(27)」「無力な者(同節)」「身分の卑しい者や見下げられている者(28)」を「(神は)選ばれた(同節)」と書きます。神のみ前において、この世的な価値は無に等しく、そのようなものによって「だれ一人、神の前で誇ることがないように(29)」とパウロは訴えます。そして「誇る者は主を誇れ(31)」と結論づけます。

パウロにとって「主」以外のものを誇ることは「偶像崇拝」に等しいことなのです。それは、神以外のものを価値あるものとするからです。コリントの人びとは、「知恵」「能力」「家柄」を「偶像」として崇め、それによって自らを権威づけようとしていたのです。

「ガラテヤの信徒への手紙」の中でも、パウロは次のように書いています。

「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません(614)

 現代の教会においてもしばしば、「学歴」や「職業」や「会社での役職」などの社会的地位が、教会共同体内における優越性につながってしまう場合があります。しかし、イエスは次のように弟子たち、そして私たちに言われています。

「異邦人(神を信じない人びと)の間では、支配者と見なされている人びとが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがた(教会共同体)の間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。

―――マルコによる福音104244節」

もし私たちがこの世的な価値観によって教会をしばるならば、私たちの教会は「キリストの教会」ではなくなってしまうのです。

 

福音朗読「マタイによる福音5112a節」

本日の福音は、いわゆる「山上の説教」の冒頭に当たる箇所で「真福八端」と呼ばれています。それは前半(36)と後半(710)に分けることができます。最初に述べましたように、前半において示されている「幸いな人々」が、第一朗読の「ゼファニヤの預言」で言われていた「苦しみに耐えて来た人々」である、とする解釈があります。

その解釈では「柔和な人々(5)」を「苦しみに耐えている人々」として考えます。本日の「聖書と典礼」2頁の第一朗読の注釈に「苦しみに耐え」について、次のように書かれています。

「このことばは、『貧しい』とか『へりくだる、柔和な』とも訳される」

5節の「柔和な」と翻訳されているギリシア語の原文の言葉も、同様に「苦しみに耐え」と訳することもできるのです。

「悲しむ人々(4)」も「義に飢え乾く人々(6)」も「苦しみに耐える人々」として考えることができます。

問題は「心の貧しい人々(3)」です。この翻訳は現代に至るまで論議を呼んでいます。日本語においては「心の貧しい」とは「心が狭い」という意味として使われているので、日本人の読者に誤解を招いてしまう恐れがあるという指摘が以前から行われ続けて来ました。そのために、フランシスコ会聖書研究所訳では「自分の貧しさを知る人」と翻訳されています。ただ、私としては、これは意訳が強すぎて、言葉の意味を限定してしまうように思われます。

私自身は、多くの翻訳が採用しているように「心の貧しい人々」でいいと思っています。一読するだけでは誤解されるでしょうが、同時に「この言葉は何を言いたいのだろう?」と読む人に疑問を起こさせて、思索へと招くことになると思えるのです。意味が限定されていないだけに、逆に豊かな思索、黙想をもたらしてくれるのではないかと思えるのです。

 原文を直訳すると「霊において貧しい人々」となりますが、「苦しみに耐える人々」の解釈に照らしてみれば、「精神的な圧迫を受けている人々」というように考えることができるのではないでしょうか。「物質的困窮」ではなく「精神的困窮」です。具体的には「信仰の自由を奪われている人々」もしくは「福音的価値観を生きようとするために、この世的価値観を生きる人びとから圧迫を受けている人々」というように。そして後半では、そのような「苦しみに耐えている人々」が委縮して、自分の殻の中に閉じこもってしまうのではなく、進んで人びとの交わりの中に生きて行こうとする姿が描かれていると考えるのです。

「憐み深い人々(7)」「心の清い人々(8)」「平和を実現する人々(9)」「義のために迫害される人々(10)」これらはいずれも、対人関係を生きる中において表れてくる姿です。憐み深く人に接し、相手を裏切るという汚いことをせずにいつも誠実であり、平和な人間関係を造り、迫害されても(神の)正義を訴える、

というように。

ここに述べたような解釈では、「幸いな人」を何か道徳的に優れた人であるとか、心の美しい人といったような、静的な「肖像画」として描き出しているのではありません。もっと現実的な、この世の弱肉強食のドロドロした只中にあって苦しみながらも、へこたれることなく、人びとの中に飛び込んで行って、神の義を人びとと共に生きようとする、ダイナミックな姿が描き出されていると言えます。

 

ただ、この解釈もあくまで「ひとつの解釈」であって、「正解」ではありません。「正解」はない、と言うよりも、一人ひとりが自分に合った「正解」を見出すべきであると思います。神のことばは一人ひとりに向けられていて、一律的にではなく、一人ひとりの思いに添うようにして個別的に語られるからです。

この「真福八端」もそうです。どうぞ、皆さん、この箇所を何度も何度も読み返しながら、黙想してみてください。必ず、あなたにとっての「幸いな人」の姿が立ち上がって来るでしょう。

 

そして、その姿こそは、あなたにとっての「キリスト」の姿である、とも思えます。