2026年1月18日 年間第2主日(A年) 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

本日のみことば、第一朗読の預言者イザヤ、第二朗読の使徒パウロ、福音朗読の旧約の預言者に連なる最後の預言者の洗礼者ヨハネ、それぞれに共通しているのは、神によって「形づくられ(イザヤ)」「召され(パウロ)」「言われ(ヨハネ)」というように、自分の意志や判断によってではなく、絶えず神の働きかけに従って生きた者であったということです。

 

第一朗読「イザヤの預言49356節」

本日の「イザヤの預言」は、バビロンの捕囚の中で活動した「第二イザヤ」と呼ばれている預言者の預言です。第二イザヤには「主の僕の歌」と呼ばれている四つの詩歌があります。もっとも有名なのは聖金曜日「主の受難」の第一朗読に用いられている5213節から5312節の「苦難の僕」と呼ばれている四つ目の箇所でしょう。本日は二つ目の箇所に当たります。

主なる神から「あなたはわたしの僕、イスラエル(3)」と呼びかけられているので、この「僕」を個人ではなく、イスラエルの民のことを指していると考えることもできますが、本日の「聖書と典礼」の注釈にも書かれているように「イスラエルを象徴的に表す個人」である第二イザヤと考えて味わってみたいと思います。

第二イザヤは「母の胎にあった私を ご自分の僕として形づくられた主(5)」と、生まれる前からすでに自分は神によって預言者として「形づくられた」と言います。それは自分の意志や判断で預言者になったのではなく、あくまでも神のみ旨によって預言者とされたのだということです。

私たちは生きて行く中で遭遇する出来事や出会いを「偶然」と考えるならば、その「偶然」に対して自分の思いや判断で対処していくことになります。けれども、第二イザヤ、また私たちキリスト者にとっても、出来事や出会いは「偶然」ではなく、神から与えられたもので、そこには私たちへの神の思い、メッセージがこめられているのです。私たちはその神の思いを識別して、それに従って生きて行きます。それは、自分の思いではなく、神の思いに従って生きる生き方です。私たちの人生は、神から与えられる出来事や出会いを通して、神によって「形づくられて行く」のです。

神が第二イザヤをご自分の「僕」として形づくられたのは「ヤコブを御もとに立ち帰らせ(5)」るためでした。「ヤコブ」は「イスラエル」という別名を有した、イスラエルの民の太祖であり、イスラエルの民そのものを指します。これは「連れ帰らせる(6)」とあるように、やがて神がイスラエルの民を捕囚の地から故郷の地に連れ帰ることと関連しています。その際、「場所的」な移動だけではなく、「霊的」にイスラエルの民を神のもとに立ち帰らせ、まことの「神の民」とするということが預言されているのです。

「バビロンの捕囚」は、かつて「出エジプト」においてイスラエルの民が40年間の荒れ野の旅路の試練を経て「神の民」となったように、神から離れてしまっていた民が再び「神の民」に立ち帰るための試練の時であったのです。そのように神の思いを読みとるならば、「バビロンの捕囚」は実は「災厄」ではなく、「恵みの時」であったことがわかります。

 

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一113節」

パウロはコリントの教会の信徒に、自分のことを「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ(1)」と紹介します。パウロも第二イザヤのように、自分が使徒になったのは、自分の意志や判断によってではなく、「神の御心」によってであると書いているのです。

そしてコリントの教会の信徒には「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人びと、召されて聖なる者とされた人々へ(2)」と呼びかけます。これによって、コリントの信徒も同じように自分の意志や判断によってではなく、神の召し出しによって、洗礼を受けることができたのだとパウロは教えているのです。

私たちもそうなのです。私は成人洗礼ですが時々、幼児洗礼の方がたから次のように言われることがあります。

「私たちは自分の意志でなく、親の意志によって洗礼を受けたのに、あなたは自分の意志で洗礼を受けたから、しっかりした信仰を持っているんですね。」

違います。私は生まれた時から受洗する時までを振り返って、本当に思うのです。あの時、あの出来事が、あの人との出会いがなければ、私は受洗に至ることができなかった、と。神がそのような出来事や出会いを与えて、私を洗礼にまで導いてくださったことによって、私は受洗することができたのだ、と。

幼児洗礼の方がたも、信徒の親のもとで生まれて来た、ということが神の「導き」であったのです。けっして「偶然」ではありません。

「成人洗礼」も「幼児洗礼」も自分の意志や判断ではなく、神の導き、御心によって洗礼を受けた、ということでは同じなのです。私たちも皆、「召されて聖なる者とされた」のです。

そしてパウロは「キリストの洗礼」を「キリスト・イエスによって聖なる者とされた」と表現していますが、実はギリシア語の原文を直訳すると「キリスト・イエスの中で聖なる者とされた」となるのです。私たちがキリストの洗礼を受けたということは、キリストの中に呑みこまれ、キリストとひとつになったということなのです。

 

福音朗読「ヨハネによる福音12934節」

洗礼者ヨハネはイエスを見て、自分が言っていた「後から来られる人」は「この方のことである(30)」と言い、最後には「この方こそ神の子である(34)」と証しします。

けれども、ヨハネはイエスが「この方」であることを最初からわかっていたわけではありません。ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった(31節、33)」と二回も言っています。では、どうやってイエスを「この方」だと知ったのか。

ヨハネは神(ヨハネは「わたしをお遣わしになった方」と呼びます)が自分に「『〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たら(33)』その人がその方である」と「言われた(同節)」と語り、イエスが水で洗礼を受けた時にそれが起こったのを見たので「この方」だと知ったと言うのです。

つまり洗礼者ヨハネは自分で判断したのではなく、神に「言われた」ことによって、イエスが「神の子」であると知ったのです。ヨハネがもし、神に「言われて」いなければ、そのイエスに起こった出来事を単に「不思議なこと」としてのみ、受けとめていたかも知れません。ヨハネは絶えず、神から与えられた「ことば」によって出来事を理解し、判断するのです。けっして自分の考えでは判断しません。

ここにも、第二イザヤ、パウロに共通する生き方、自分の意志や判断ではなく、神の働きによって生かされている者の生き方があります。私たちも日々の出来事を「神のことば」に照らして判断する必要があります。

もちろん、私たちは「預言者」ではありませんので、「神のことば」を聞くことはできません。けれども、私たちは「聖書」を通して、「神のことば」を頂いているのです。旧約、新約を通して、預言者や王や民、また使徒たちやイエスに出会った人びとが、それぞれが抱えていた人生や、その時どきの状況に応じて、神が語られた「ことば」が書かれていて、それがいわばモデルケースになっていて、私たちの抱えている状況に合致するのです。

 

ここで、私個人の例を出させていただくと、私は在日韓国人として生まれました。そのために私はずっと「疎外感」を抱えて生きていました。韓国人であることを隠して生きていた私は、日本人はもちろん、韓国人にもなることもできませんでした。自分は何者なのか、何者にもなれない、「根無し草」のような存在に思えていました。

そんな私が神学校に入って、上智大学の神学部で聖書学を学んでいた時に、「出エジプト記」の3章から4章に書かれた「神のことば」に出会ったのです。神が「燃える柴」においてモーセに顕現し、エジプトからイスラエルの民を導き登れという使命を与えるという、モーセの召命の箇所です。

それまで、私にとってのモーセはアメリカ映画「十戒」で見た、チャールトン・ヘストン演じる筋肉隆々の「強者」のイメージでした。けれども、聖書学の講義によって、この箇所を精彩に読んでみると、モーセは「強者」どころか、優柔不断な「弱者」であったのです。

神から使命を受けたモーセは「わたしは何者でしょう(3:11)」と答えます。ヘブライ人でありながら、エジプトの王子として育てられたモーセは自分の出自を知った後も、ヘブライ人であることを隠して、エジプト人として生きようとしますが、それは破綻してしまい、モーセはエジプトから逃亡します。そしてミディアンの地にあって家族を持っても、その地に根を張ることができず、「寄留者」として生きるのです。

精読しながら、私は「モーセは私と同じだ」と思いました。エジプト人にも、ヘブライ人にも、ミディアン人にもなることができず、根無し草のように疎外感を抱いて、モーセも生きていたのです。そのようなモーセとの「一体感」を持った時、モーセへの「神のことば」が私に向けられているかのように響いて来たのです。

「わたしはある。わたしはあるという者だ(3:14)

このことばは「あなたの『根っこ』は、『わたし』の中にある。『わたしがある』ことによって『あなたもある』のだ」というように、私の心に響きました。

モーセが神からの召命を断ると、神は「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである(3:12)」と言われます。

私は神学校に入りながら、まだ自分が「司祭」となることに自信を持つことができませんでした。そんな私にとって、この「神のことば」は、「あなたは自分の力で『司祭』になるのではない。わたしがあなたを『司祭』として『遣わす』のだ。そのしるしこそは『わたしが必ず、あなたと共にいる』ということだ。さあ、行きなさい」というように、私の心の中で響き渡り、私を揺り動かしてくださったのです。

 

皆さんもぜひ、聖書を「精読」してください。そうすれば、きっと、書かれている「神のことば」が、「あなたへのことば」として響く時があります。逆に言えば、聖書を読まなければ、私たちは「神のことば」を聞くことができません。「神のことば」によって、日々の出来事を照らすことはできないのです。