カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日は「主の洗礼」の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたこと、そして私たち一人ひとりが受けたキリストの洗礼を祝う主日です。
第一朗読「イザヤの預言42章1―4、6―7節」
本日の第一朗読にこの箇所が選ばれているのは「わたしが選び、喜び迎える者を(1節)」が、福音朗読にイエスが洗礼を受けた時に天から聞こえて来た父である神のことば「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」の後半部「わたしの心に適う者」に対応しているからです。前半部の「これは私の愛する子」は詩編2の7節「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」に対応していると考えられています。後半部の「心に適う者」と訳されたギリシア語の原文の言葉と「喜び迎える者」と訳されたヘブライ語の原文の言葉は同じ意味の言葉であるので、対応していると考えられています。
このような言葉における関連性だけでなく、本日のイザヤの預言の箇所を読んでいると、私にはまさにイエスの姿が眼前に立ち上がって来るような思いに捉われます。特に「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく(2―3節)」はイエスの姿そのものであると思えます。
なぜ「彼」は威圧的に叫んだり、高圧的に大音声で声を響かせないのか、それは傷ついた葦が折れることなく、くすぶる灯心が消えてしまわないためなのです。そして、「傷ついた葦」も「くすぶる灯心」も私たち自身のことです。
川辺に群生する葦は細長い茎を持つ弱弱しい植物に見えます。大風が吹くと、大きく揺らぎます。一本だけでは身を支えることができないので、群がって生えているのです。私たちも葦のように弱く、傷つきやすい存在です。ちょっとした苦しみにも心が大きく揺らいで傷ついてしまい、そのため誰かと寄り添っていないと生きて行けません。
また、「暗くなってゆく灯心」とは消えかかっているロウソクです。私たちは洗礼の日に「キリストの光」を頂きながら、それを十分に生きることができず、いつも中途半端で、キリストの光を輝かせることができず、むしろ消えかかっていると言った方がよいような状態にいます。
けれどもイエスはそんな弱い「葦」のような傷ついた私たちをけっして折ることなく、中途半端な私たちの「灯心」を消すことをされません。そのため、居丈高に私たちを怒鳴ったり、乱暴に否定したりされないのです。
むしろ、私たちの弱さを慮ってくださって、細心の注意をはらって、丁寧に慈しみ深く向き合ってくださるのです。
そして「捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために(7節)」と書かれています。「捕らわれ人」「闇に住む人」も私たち自身です。
私たちは弱さによって犯した「罪」によって牢獄の中に捕らわれ、闇に住んでいるのです。イエスは私たちを「罪」の奴隷状態から解放し、神の愛の光の中に導いてくださる方なのです。
今日のイザヤの預言はまさに、神の子が人間イエスとなって私たちの世界に来られたことによって、実現したのです。
第二朗読「使徒たちの宣教10章34―38節」
本日の朗読箇所は「聖書と典礼4頁」の下の注釈にも書かれていますように「ローマ軍の百人隊長コルネリウスに招かれたペトロが、そこに集まっていた異邦人に語った言葉」です。
ペトロは冒頭で「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました(34節)」と語りますが、これはペトロがカイサリアにあったコルネリウスの家に行く前に、ヤッフアで見た「幻」が前提になっています。
それは10章9節から16節に書かれています。ペトロが地中海に面する港町ヤッフアで滞在していた家の屋上で祈っていた時、「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りてくるのを見た(11節)」のです。その入れ物の中には「あらゆる獣(12節)」が入っていて、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい(13節)」という声がしました。けれども、その獣の中には豚などの律法で食べてはいけないとされている「汚れた獣」も入っていたので、ペトロは拒否します。すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない(15節)」という声がしたのでした。
ペトロはこの幻はいったい何のことだったのだろうと思案に暮れていました。それが異邦人の家に来て「よくわかった」のです。それが「神は人を分け隔てなさらない」ということだったのです。
律法においては「異邦人」も「汚れた者」とされていました。けれども神は天地創造において、全ての獣、そして人を創造された時に「神はこれを見て、良しとされた(創世記1章25節)」のです。神は創られたすべてのものを「良し」として祝福されたので、すべての獣も人も「神によって清められたもの」なのです。それを人間が勝手に「清い、清くない」と「分け隔て」したのです。
そしてこの後、ペトロはローマ人コルネリウスと彼の家に集まっていた親類や友人たち、すなわち「異邦人」にキリストの洗礼を授けるのです。
ここにおいて、キリストの洗礼は、民族や国や身分や、あらゆる違いを越えて分け隔てなく、誰にでも授けられることが示されたのです。
「わたしたちは、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです(コリントの信徒への手紙一12章13節)」
福音朗読「マタイによる福音3書13―17節」
本日の福音は「主の洗礼」の祝日に合わせてイエスがヨルダン川で洗礼者ヨハ
ネから洗礼を受ける箇所で、A年ではマタイが選ばれています。ただ、皆さんにしっかりと理解しておいて頂きたいことは、イエスの真の「洗
礼」は洗礼者ヨハネから受けた洗礼ではない、ということです。イエスが受けた真の「洗礼」は、イエスが受けられた「死と復活」という「新
しい過越」の出来事なのです。イエスが「死と復活」を受けられたからこそ、私たちの命の中でも「死と復活」が現実化するという「キリストの洗礼」が実現したのです。
ヨハネの洗礼はあくまでも「水による清め」という儀式、「かたち」です。聖
霊が働く「秘跡」ではありませんから、その人の命が新たにされたり、罪の赦し
が与えられたりするわけではありません。体を清めるという「かたち」によって、
回心へと「心」を促そうとするものです。ある意味、人びとはヨハネの洗礼を受けることによって、回心への道を歩む決
意を自らに、また兄弟姉妹の前で表したのだと言えます。ヨハネ自身もマタイの同じ3章の中で「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが(11節)」と言って、自分の洗礼は「水というシンボル」を使っての「儀式」であり、「聖霊と火(同節)」による「キリストの洗礼」とは別のものであることをはっきりと言明しています。
ヨハネの洗礼が人びとを「回心」へと促す儀式であるならば、罪を犯すことのない神の子であるイエスがそれを受ける必要はないということになります。
ではなぜ、イエスはヨハネによる洗礼を受けたのでしょうか。その答えは「ルカによる福音」におけるイエスの洗礼の箇所に書かれている、次の表現の中にあると思えます。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて(3章21節)」
つまり、イエスが洗礼を受けたのは「民衆が皆洗礼を受けた」からだと、ルカはイエスの洗礼の意味を説明していると思えます。「皆」が洗礼を受けたことによって、この民衆は「回心」の道を歩む一つの民となりました。イエスもその民と一つになって、共に歩むために「洗礼を受けた」のだと。いわば、イエスは同じヨハネの洗礼を受けることによって、回心の道を歩む民の「仲間」に加わったのだということです。
罪を犯したことのない「神の子」であるイエスにしてみれば、回心の道を歩む民を高みから見下ろしながら励ますこともできたでしょう。でもそのような「上から目線」で、困難な回心の道をあえぎながら歩む民をただ見下ろしているようなことは、イエスにはできないのです。急いで神の座から下って来て、自らもあえぎながら、汗をかきながら、共に歩もうとしてくださいます。
今も、そうなのです。目には見えなくとも、私たちの信仰の旅路を、いつも共に歩んでくださっているのです。
本日の「主の洗礼」が、私たちが受けた「キリストの洗礼」のお祝いでもあるのは、イエスが洗礼を受けた時に起こった出来事によります。
「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた(16―17節)」
この出来事が、私たち一人ひとりがキリストの洗礼を受けた時に、同じように起こっていたのです。ただ、私たちの場合には見えなかった、聞こえなかっただけです。
どうぞ皆さん、イメージしてください。幼児洗礼か、成人洗礼か、そんなことは関係ありません。洗礼を受けた時、司祭によって水を三度、額にかけられた時、天が開いて、聖霊が鳩のように私たちの中に降ってきたのです。そして神が、天から私たちに呼びかけてくださったのです。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
間違いなく、私たちが洗礼を受けた時、イエスが洗礼を受けた時と同じように、神はこのように私たち一人ひとりに呼びかけてくださったのです。
キリストの洗礼を受けたことによって、私たちは「神から愛されている神の子」となったのです。頂いた聖霊を通して、天におられる父なる神と、子であるイエスと、生涯つながっていることができるようになったのです。
「主の洗礼」の祝日に、私たちが受けたキリストの洗礼の限りない恵みの豊かさを改めて深く受けとめ、感謝をもって「洗礼の秘跡」を生きて行きましょう。
