カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「イザヤの預言35章1―6a、10節」
「イザヤの預言」には三人の預言者の預言が収められています。聖書学では便宜的に「第一イザヤ」「第二イザヤ」「第三イザヤ」と呼びならわしています。
「第一イザヤ」はバビロン捕囚の前、アッシリア帝国の脅威にさらされていた時代の預言者で1章から39章まで、「第二イザヤ」は捕囚中で40章から55章まで、「第三イザヤ」は捕囚後、エルサレムに帰還した時代で56章から66章までと区分分けされています。ただ、その区分は厳密なわけではなく、その区分けされた領域の中に他の預言者の預言が混入されている場合があります。本日の朗読箇所がそれに当たります。
本日の朗読箇所は35章で、区分けでは「第一イザヤ」の領域に当たりますが、聖書学では本日の箇所は「第三イザヤ」の預言であるとされています。
「第三イザヤ」の時代は、紀元前539年にペルシア王キュロスの勅令によって、ユダヤの民がエルサレムに帰還してから70年ほどが経過した頃でした。当初、ユダヤの民は希望にあふれて帰還しました。520年には、ペルシアの援助もあって神殿が再建され、エルサレムの街の復興も進んでいました。しかしながら、ユダヤの民は深い絶望の中にいました。それは、民が真に望んでいたユダヤの国としての独立も、ダビデ王朝の再興もあり得ないことが明らかになったからです。ユダヤの土地はあくまでもペルシア帝国の植民地であって「ユーフラテス西方管区」に組み入れられていました。ダビデ王朝の最後の王であったゼルバベルはペルシア帝国によって暗殺され、ダビデ王朝は滅びました。
この状況にユダヤの民は「神は我々を見捨てられた」と深い絶望に陥り、信仰から離れて行く人びとも多く出ました。彼らは天上的な喜びから目を背け、この世的な富を求めることに心を向けました。神殿祭儀はおろそかにされ、富める者たちの貧しき者たちへの抑圧と搾取が横行するようになりました。
このような虚無的なすさんだ状況の中で「心おののく人々(4節)」に、イザヤは「雄々しくあれ、恐れるな(同節)」と呼びかけます。「雄々しくあれ」というのは「信仰」においてであって、「神が我らを見捨てられた」と嘆くのではなく、「『主の栄光と我らの神の輝き(2節)』が現れる『そのとき(5節)』を待て」と希望をもって信仰にとどまるようにと、ユダヤの民に呼びかけているのです。
「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う(5―6a節)。」
これは肉体的な回復だけでなく、精神的な回復が言われていると思います。
「信仰の目を閉ざしていた人が信仰をもって出来事を見るようになり、そこに秘められた神のメッセージを聞くようになる。絶望の中で生きる気力を失ってうずくまっていた人が立ち上がって、喜びに躍り上がりつつ、神に向かって歩み出す。神への不信から祈る口を閉ざしていた人びとが、再び口を開いて、神に賛美の歌を歌う」というように。
私たちも待降節にあって、イザヤが預言する「そのとき」、主イエスが来られるときを「雄々しい」信仰をもって待ち望みましょう。
第二朗読「使徒ヤコブの手紙5章7―10節」
教会の伝承では、本日の第二朗読の「手紙」は、エルサレム教会の指導者であり「主の兄弟(ガラテヤ1:19)」と呼ばれていたヤコブが書いたとされていますが、聖書学ではヤコブではなく紀元100年前後にいずれかの教会の指導者が書いたと考えられています。この手紙が信仰生活のためのすぐれた指導書であると考えた初代教会が、使徒ヤコブの名を冠して新約聖書に加えたのでしよう。誰が書いたかではなく、何が書かれているかが大切なのです。
新共同訳の翻訳が用いられている本日の朗読箇所では、ギリシア語原文における接続詞が省略されています。日本語の文章としては「くどく」なると考えてのことでしょうが、直訳すると次のようになります。
「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。なぜなら、農夫は、・・。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。なぜなら、主が来られる時が・・。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わないことです。見なさい、裁く方が・・。」
まず勧告を与えて「なぜなら」「見なさい」と書いて、その理由を説明しているのです。勧告の中心は「忍耐」です。
本日の朗読箇所では「忍耐」が四回も出て来ます。原文のギリシア語の「忍耐」は、聖書学者の雨宮慧神父様によれば、「困難な状況の中にあっても不平を言わずに、心静かに希望をもって待ち望む」という意味があるそうです。私たちキリスト者が「希望をもって待ち望む」ことができるのは「主が来られる時が迫っているからです(8節)。」
待降節の「待つ」には、ふたつの「待つ」があります。ひとつは過去に起こった「キリストの降誕」の出来事を「待つ」です。もうひとつは未来に起こる「キリストの再臨」を「待つ」です。本日の第一朗読も第二朗読も「キリストの再臨」を「待つ」ことを私たちに呼びかけています。第一朗読では「雄々しく待つ」、第二朗読では「忍耐をもって待つ」です。私たちの「忍耐」は「我慢」ではありません。「我慢」には「喜び」が伴いません。ただじっと「耐え忍ぶ」だけです。私たちの「忍耐」はキリストと再び相まみえることができるという希望に支えられているので「喜び」があるのです。
ヤコブはまた、「互いに不平を言わぬ(9節)」ようにと勧告します。迫害の苦しみの中にあった当時のキリスト者は時に、その苦しみを誰かのせいにして「互いに」不平をなすりつけあっていたことがあったようです。私たちは理不尽な苦しみに耐えることがむずかしいので「犯人さがし」をして、誰かに苦しみの責任をなすりつけ、非難することによって、少しでも憂さを晴らそうする傾向があります。ヤコブはその傾向を戒めます。なぜなら、「裁く方(キリスト)が戸口に立って(同節)」おられるからです。人を裁く者は、キリストによって裁かれるのです。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる(マタイ7:1―2)」
待降節にあって私たちは、自分が誰かを裁いていないか、糾明しましょう。もし裁いていれば、神とその人にゆるしを願いましょう。裁き、不平は、キリストを待ち望む喜びに影を落とし、曇らせてしまうからです。曇りのない喜びで主を待ち望みましょう。
福音朗読「マタイによる福音11章2―11節」
洗礼者ヨハネは、ヘロデ王が兄弟であるフィリポの妻ヘロディアと結婚したことについて「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない(マルコ6:18)」と非難したために、ヘロデによって牢につながれてしまいました。牢の中でヨハネはイエスの動向に絶えず関心を持って、弟子たちを通じて情報を得ていたようです。そしてある時、弟子たちをイエスのもとに送って、次のように尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか(3節)。」
ヨハネはイエスにヨルダン川で洗礼を授けた時、天が裂けて、聖霊が鳩のようにイエスに降って来るのを見、「これはわたしの愛する子」という声を聞いて、この方こそメシアに違いないと確信したはずでした。ところが「メシアはあなたでしょうか」というように尋ねさせたということは、ヨハネのその「確信」が揺らいでいたことを示していると言えます。
なぜ、洗礼者ヨハネはイエスがメシアであることに疑問を感じたのでしょうか。それはヨハネが「裁き」に重きを置いていたからであると思えます。
先週のマタイの福音にあったように、ヨハネは「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる(3:10)」と、神が必ず「裁き」を行われることを強調しています。ヨハネにとって、神はまず何よりも「裁く方」であったのです。ですから、神から来られるメシアもまず何よりも「裁き主」でなければなりませんでした。律法によって、この世界の悪に「裁き」を下しに来る方こそが、ヨハネにとってはメシアであったのです。
おそらくイエスについて弟子たちから得た情報の中で、ヨハネをもっとも困惑させたのは「イエスが徴税人や娼婦たち、律法に反する罪人たちと共に食事をしている」ということではなかったでしょうか。「食事」の場はユダヤ教においては厳粛な信仰の場で、「祭儀」の場とも言えるものでした。罪人と共に食事をすることはその場を汚し、自分自身をも汚してしまうことでした。「裁き主」であるメシアが罪人を裁くどころか、共に食事まですることに洗礼者ヨハネは、イエスがメシアであることに大きな疑問を抱いてしまったのではないでしょうか。
やはり、洗礼者ヨハネは「旧約」の人であったのです。「旧約」における「裁く神」というイメージから抜けきれなかったのです。
イエス、「新約」のメシアは、「裁き」ではなく「ゆるし」をもたらすために来たのです。神から離れてしまった人を「裁く」のではなく、「ゆるす」ために、もう一度、神のもとに立ち返らせるために来たのです。
「ルカの福音」で、徴税人ザアカイと食事を共にしたイエスはこのように言われました。
「人の子(メシア)は、失われたものを捜して救うために来たのである(19:10)」
「放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11―32)」の父親もそうです。遠く離れてしまっていた息子が見つかると、裁くどころか抱きしめて祝宴を開かれるのです。
この「ゆるし」をもたらすメシアこそが「新約」のメシア、「キリスト」であったのです。キリストは最終的には、十字架を通して、ご自分を献げることによって人類に「ゆるし」をもたらし、神と人との和解を完成させました。
イエスは本日の第一朗読の「イザヤの預言」を用いつつ、自分こそがメシアであることを告げ、こう言われます。「わたしにつまずかない人は幸いである(6節)。」「つまずく」とはイエスをメシア、キリストと信じられないことです。それは洗礼者ヨハネのように、自分の考えに基づく「メシア像」をイエスに押しつけようとするからです。
ただ、本日の朗読箇所の後半部分からわかるように、イエスは生涯、洗礼者ヨハネを敬愛していました。「預言者以上の者である(9節)」「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった(11節)。」
ただ、そのようにヨハネを絶賛されながらも「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である(11節)」と断言されます。
この「最も小さな者」こそが私たちです。でも、私たち自身がヨハネより「偉大」なのではありません。私たちが受けた「キリストの洗礼」が「偉大」なのです。洗礼者ヨハネは「キリストの洗礼」を受けることはできなかったのです。
洗礼者ヨハネの授けていた洗礼は、あくまでも回心への「促し」でした。キリストの洗礼は「促し」ではなく、受けた人の存在を根本的に変えてしまうのです。
私たちは「キリストの洗礼」によって「神の子」に変えられたのです。
