カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「イザヤの預言11章1―10節」
「イザヤの預言」は三人の預言者の預言が収められていて、それぞれ「第一イザヤ」「第二イザヤ」「第三イザヤ」と呼ばれています。本日は「第一イザヤ」の預言です。第一イザヤは紀元前8世紀後半に南ユダ王国で活動しました。この時代の中近東の状況は721年に北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ、引き続いてアッシリアは南ユダ王国にも軍事的圧力を加えます。南ユダ王国ではアッシリアに服属するか、エジプトに軍事的支援を求めて戦うか、国論は二分し、王や高官たちは国益よりも自らの保身に汲々として慌てふためいている有り様でした。
本日の朗読箇所の冒頭では、「エッサイの株(1節)」という言葉が出て来ます。エッサイはダビデの父であり、ダビデ王朝を象徴しています。本来でしたら、エッサイから生じたダビデ王朝を「エッサイの樹」と表現すべきところを「エッサイの株」としているのは、ダビデ王朝の樹が切り倒されて「切り株」となってしまったことを表しています。ダビデ王朝の王たちが腐敗してしまったがゆえに、神はダビデ王朝の系統を断たれる、という預言です。
そして、神は新たな王を立てられるということが「ひとつの若枝が育ち(1節)」によって預言されます。その王の上には「主の霊(2節)」がとどまります。
「主の霊」はまず「知恵と識別の霊(同節)」として、アッシリア帝国の軍事的脅威などの困難な状況下にあっても落ち着いて冷静で的確な判断ができ、さらに「思慮と勇気の霊(同節)」として決定した判断を実行に移す力を有します。そして「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる(3節)」のです。この「主を畏れ敬う霊」こそが「主の霊」の根幹にあって、新たな王の生き方を決定づけます。王は自らの思いや考えによっては判断せず、また自らの地位や名誉を優先しての保身に走ることもありません。何よりも主のみ旨を優先し、それに従って生きようとするのです。
このような王は必ず「弱い人(4節)」「貧しい人(同節)」の守護者となります。それは主のみ旨の根幹に「弱者の優先」があるからです。
そしてこの王こそがメシアとなって、後半に書かれてある「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す(6節)」から展開するような「完全な平和」を実現するのです。本日の「聖書と典礼」の3頁の注釈には「これらの描写は、強い者が弱い者を虐げることがなくなる完全な平和の状態を表している」と書かれています。その状態とは、これまでの人類の歴史を貫いてきた原理である「弱肉強食」の終焉を意味しているのです。
人類の歴史を動かして来たのは、「強者が勝ち、弱者が滅びる」、「強者が弱者を支配する」といような原理、原則でした。まさに強者が弱者を食らうのです。
その「強者」の象徴である「狼」「豹」「若獅子」「熊」が、弱者の象徴である「子羊」「子山羊」「子牛」「牛」を食らうことなく、共に生きるようになるのです。その際、弱者の肉を食らっていた強者は、弱者の食料である「干し草」を食べるようになります。強者が弱者の生き方にならって、弱者の側に寄り添って行くのです。弱者が強者に打ち勝の(それは単に弱者が強者に代わるだけにすぎません)のではなく、強者が弱者に寄り添って共に生きることによって、「完全な平和」が実現するのです。
だからこそ、真の王、メシア、救い主であるイエスはローマという強者を打ち倒すのではなく、十字架の死によって自らがもっとも弱者になることによって、弱肉強食の原理を打ち崩し、愛の原理を人類の歴史にもたらしたのです。
第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙15章4―9節」
パウロは「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができます(4節)」と書いています。「聖書」とはパウロの時代にあっては「旧約聖書」を指します。
「旧約」から学ぶ「忍耐」は、旧約の民が2000年近くにわたって、神の救い、また救い主の到来を待ち望んでいたことです。イザヤなどの預言者らがその実現を何度も預言しながらも、それは実現することなく、かえってアッシリア、バビロニア、シリア、ローマと強大な帝国によって破壊と支配の暴虐にさらされ続けて来ました。それでも、イスラエルの民は絶望することなく神を信じて、救いを待ち続けました。それが「旧約」が私たちに教える「忍耐」です。
「慰め」はどのような困難な状況にあっても、いのも「神が共にいてくださる」ことです。それは「旧約」に感動的に描かれているアブラハム、イサク、ヤコブらの族長たち、またモーセ、イザヤ、エリヤなどの預言者たちの生涯を読めば学ぶことができます。
私たちは「旧約聖書」を読むことによって、イスラエルの民の歴史を通して示された民の「忍耐」と神からの「慰め」から「希望」を持のことができるのです。
ただ、「忍耐」は人間的な努力だけでは続けることはできません。神に祈り求めることによって、神から与えられる「忍耐」によってこそ、人間的には絶望的と思われる状況であっても保ち続けることができます。だからこそ、パウロは「忍耐と慰めの源である神(5節)」と書き記しているのです。
本日の朗読箇所は原文のギリシア語の構造によると、7節の「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」が中心的なメッセージになっています。この「受け入れなさい」について「聖書と典礼」の4頁の注釈には次のように書かれています。「『強い者は、強くない者の弱さを担うべきである』(15・ 1)と述べたパウロは 強い者と弱い者 が互いに受け入れ合うことを強く勧める。」
これは適切な指摘です。本日の朗読箇所である15章の冒頭は「強い者は、強くない者(弱い者)の弱さを担うべきである」で始まっているのです。だとしたら、文脈から考えると「受け入れなさい」という言葉は「強い者」に向けて「弱い者を受け入れなさい」という「強い勧め(『命令』』と言ってもよいでしょう)」と考えられるのです。
それは第一朗読の「狼は小羊と共に宿り」にあるような「強者が弱者に寄り添って生きる」ことをパウロは令じていると考えていいと思います。それは、キリストの十字架によって「弱肉強食」の論理は打ち砕かれたからです。キリストの洗礼を受けてキリストを生きる者となった者は、もはや「弱肉強食」を生きることは許されないということをパウロは言っているのだと思います。
キリストの十字架によって「完全な平和」は、すでに実現しているのです。ただ、それはまだこの世においては完成していません。私たちキリスト者、また教会はその完成に向けて祈り、神の助けによって自分の生きる場において「完全な平和」をもたらすべく努力して行くのです。
この「完全な平和」をもたらすための祈りと努力も、待降節の大切な準備です。
福音朗読「マタイによる福音3章1―12節」
待降節中の福音朗読に登場する中心的人物は洗礼者ヨハネです。ヨハネは「旧約」と「新約」をつなぐ人であると言えます。ヨハネは旧約時代から続く預言者の系譜に連なる者であって、最後の預言者だからです。イエスが来られたことによって「神のことば」は完成したので、もうそれ以降の預言者は必要がなくなったからです。
そして、洗礼者ヨハネはよく「使徒的預言者」と呼ばれています。もちろん、ヨハネはペトロやパウロのように「使徒」ではありませんが、「使徒」のように生きた預言者であると考えられているのです。「使徒のような生き方」の根幹は「自分を無にして、ただキリストを伝える」ことにあります。
本日の朗読箇所の後半で、ヨハネは「わたしの後から来る方(キリスト)は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない(11節)」と言って、キリストの前に徹底的にへりくだり、己を低くしています。
また「ヨハネによる福音」では、ヨハネの弟子たちがヨハネのもとに集まっていた群衆がイエスのもとに行ってしまっていると報告する弟子たちに対してヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(3:30)」と答えます。ヨハネの洗礼運動は大きな成功をおさめ、大勢の群衆がヨハネのもとに集まりました。
その群衆がヨハネのもとを去って、イエスのところに行っているのです。常識的に考えれば、ヨハネは嫉妬に怒り狂い、ファリサイ派や祭司長たちのように何とかしてイエスを追い落とそうとすることでしょう。けれどもヨハネはそれを全く意に介することなく、むしろ喜ぶのです。それは洗礼者ヨハネが自分の名声や権力欲のために活動していたのではなく、あくまでもキリストの到来を告げ、人びとにその準備をさせるためであったからにほかなりません。
「ヨハネによる福音」では、ヨハネは祭司たちから「あなたは何者か」と問われて、預言者でさえもないと言って、次のように答えます。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である(1:23)。」
自分はキリストが来ることを告げる「声」にすぎないと言うのです。ここには徹底した「無私」の生き方があります。ヨハネは自分を「神の道具」にすぎないものとして、自分を無にして「神の声」そのものになろうとしているのです。
このような生き方が「使徒的」と呼ばれているのです。
けれども、やはりヨハネは「旧約」の人なのです。ヨハネの「声」はこのように人びとに告げます。「悔い改めよ。天の国は近づいた(2節)。」
それに対して「マルコによる福音」において、イエスの宣教の第一声は次のように告げられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(1:15)。」ヨハネでは「悔い改め」が先に来ます。対してイエスでは「神の国(天の国)」が先に来るのです。この違いにこそ、「旧約」と「新約」の違いがあり、イエスによってもたらされた「福音」の本質があるのです。
ヨハネでは「悔い改めなければ、神の国には入れない」のです。そしてヨハネは「悔い改めなければ滅ぼされる(「『切り倒されて火に投げ込まれる(10節)』)」とある意味「おどし」をもって、人びとを悔い改めに「追い立てよう」とします。
このような「悔い改め」では人びとは絶えず「滅びもしくは地獄」を恐れて、絶えず不安の中で、ムチで追い立てられるようにして「悔い改め」へと向かいます。
対してイエスは「神の国はもう、あなたがたのところに来ました。だから悔い改めなさい」なのです。「神の国」はもう先に、無償で私たちに与えられるものなのです。そうなると、私たちは恐れからではなく、感謝の心で、この恵みに何とか応えたいとの思いで、「悔い改め」へと向かうことができます。そこにはもはや、「不安」はありません。ただ「喜び」があるだけです。私たちは救われた喜びから、自ら進んで、踊り歩むようにして「悔い改め=回心」の道を歩んで行くことができるのです。
「ヨハネの第一の手紙」で使徒ヨハネはこう、書いています。「わたしたちが愛するのは、神がまず(先に)わたしたちを愛してくださったからです(4:19)。」
「神の国」も「神の愛」もまず先に、もう私たちに与えられているのです。これこそが「新約」であり、「福音」なのです。
