2025年11月23日 「王であるキリスト」(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林 和則

 

本日は典礼暦の一年間の最後の主日になります。来週の待降節第一主日からは典礼暦の新たな年、朗読配分においてはA年が始まります。

教会暦は一年間の時の流れを通して、神の救いの歴史を追体験するための手段です。それは「追体験」というよりも、みことばと秘跡を通して聖霊が働くことによって、救いの歴史の出来事が「現在化」しますので、いわば「リアルタイム」で「体験」することができるのです。

たとえば、来週の主日からの待降節、降誕説を通して私たちは2000年前の人となられた神の子イエスの降誕を追体験するというよりも、「体験」します。「現在」という時間が「神の救いの歴史」の中に呑みこまれるのです。それによって私たちの生活が日常の単調な、偶然の積み重ねではなく、「神の救いの歴史」の中での日々となり、生活自体が聖化されます。いわば私たちは典礼暦を生きることによって、地上の生活を生きながらも天上の生活を生きることができるのです。典礼暦は、信仰生活を生きるための「骨格」を形作るのです。

典礼暦を生きるための具体的な方法は典礼暦の朗読配分による毎日のミサの中の聖書の朗読箇所を読み、黙想することです。朗読配分は「聖書と典礼」のしおりの裏に書かれていますが、それに従って聖書を開いて読むことは手間になり、途中で投げ出してしまうことになりかねません。

ぜひ、カトリック中央協議会が毎月、発行している冊子「毎日のミサ(税込み468円・年間購読料5500円)」をお使いください。毎日の朗読箇所が書かれているだけではなく、当日のミサの祈願文、答唱詩編なども掲載されています。祈願文は当日の福音、また記念日には、記念される出来事や聖人たちに基づいて作成されています。答唱詩編は第一朗読をより深く味わうために選ばれています。いずれも当日の福音や意向を黙想するためのよい助けになります。

今まで実行していなかった方は、ぜひ、来週から新たな典礼暦の一年が始まるのに合わせて、実行してください。継続していけば、必ず日々の生活が変わります。「毎日のミサ」の購入を希望される方は事務所にお問い合わせください。

 

本日の、典礼暦での一年間の最後の主日は「王であるキリスト」が祝われます。「王であるキリスト」は終末において再臨されるキリストの姿です。

キリストは死と復活の後、天に戻られました。「天」は空間的な空ではなく、「父と子と聖霊の神の座」です。その「子である神の座」に戻られたことによって、再び目に見えない神の姿に戻られました。そのキリストが終末の日に、再び目に見える姿で、生前のイエスの姿のままで、地上に降臨されるのです。

ですから本日は「終末」を思う日でもあります。私たちキリスト者は「終末を生きる民」と呼ぶことができます。それはけっして終末がどのようなかたちで来るのか、どんなことが起こるのか、いつ来るのかといった具体的な終末を思いめぐらして右往左往する生き方ではありません。

今、目に見えているこの世界が「絶対」ではなく必ず終わりが来るという視点を持つことによって、この世界を「相対化」するのです。もし「この世界しかない」となれば、この世界に囚われてしまいます。それはこの世的な論理、またこの世的な価値に捉われてしまうことです。

この世的な論理は弱肉強食です。強い者が勝ち、成功し、弱者に対して優越的な立場となり、支配するというような原理です。そしてこの世的な勝利、成功とは、この世的な価値、財産や地位、名誉を手にすることです。この世界を絶対視することによって、ひたすら、弱肉強食の競争社会を生き抜き、この世的な価値を手にしようとして必死になって生きることは、ある意味、地上をはいずり回って生きるような姿であると言えるでしょう。

けれども、私たちキリスト者は「この世界」だけではない、「天の世界」があることを信じているのです。「天」、すなわち「父と子と聖霊の神の愛の交わり」です。私たちは洗礼を受けたことによって、私たちの中に聖霊が降り、その聖霊を通して、もうすでにその神の愛の交わりに結ばれているのです。ただ、肉体がある限り、「地」につながっています。けれども肉体が滅んで、霊魂だけになった時、私たちは完全に「神の愛の交わり」の中に入って行くことができるのです。それが「天に帰る」、「天国に入る」ということです。

私たちは地上を生きながらも、聖霊を通して「神の愛の交わり」につながっていて、いつも「天」を見つめて生きて行くことができるのです。それは地上的な弱肉強食の競争の論理に囚われ、また地上的な価値を求めて地をはいずり回るような生き方ではなく、絶えず、「天」を見つめて立ち上がって歩んで行くような生き方です。「終末を生きる民」とは、このように地上的な論理や価値に束縛されず、「天」を見上げて、神の思いに従って生きることなのです。

 

日本のカトリック教会は、個々の教会とその管轄する地域を「小教区」と呼んでいます。それは個々の教会がけっして「独立」しているのではなく、「教区の一部」であることを表しています。たとえば、「香里教会」という「教会」があるのではなく、あくまでも香里の地にある「大阪高松教区の教会」なのです。私たちが香里教会の信徒である前に、大阪高松教区の信徒であるという意識を育てるために「小教区」という名称は有益であると思えます。

ただ実は「小教区」のラテン語の原語である「パロッキア」の本来の意味は、「仮住まい」という意味なのです。それはこの香里の教会、香里の地は私たちにとって「仮住まい」の場であるということです。これは私たちキリスト者の生き方にとって、大切な信仰なのです。

パウロは「フィリピの信徒への手紙」において、この信仰をキリストの再臨と結び付けて、端的に表現しています。

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています(3章20節)」

私たちの「本国」は「天」、「父と子と聖霊の神の愛の交わり」の中にあって、この「地上」における生活はあくまでも「仮住まい」にすぎなのです。

ただ、それはけっして、地上の生活をいい加減に生きてもいいということではありません。地上の生活をある意味、「天」に向かっての「巡礼の旅路」であると考えて、神の思いに従って誠実に生きなければなりません。大切なことは、「仮住まい」にすぎない「地上のもの」に執着しないことです。財産、地位や名誉に執着せず、いつも解放されていて、「信仰者の自由」に生きることです。

「終末」をいつも心に留めることは、「地上」を相対化することによって、その束縛から解放されて、「信仰者の自由」に生きるためであると言えるでしょう。

 

福音朗読「ルカによる福音23章35―43節」

本日の福音は、イエスがすでに十字架に架けられている状況の中で始まります。

まず、議員たちがイエスをあざ笑います。この「議員」とは、ユダヤ教の最高決定機関であり宗教裁判所でもある、大祭司を議長とする「サン・ヘドリン(最高法院)」に属する議員のことです。議員たちはイエスを神を冒涜した者として断罪し、また自らを「王」と称することによってローマ帝国からの独立を企てたとして、ローマ総督ピラトに「ローマに対して反乱を企てた者」として裁くように要求しました。ピラトはそれに困惑しながらも、最終的にイエスを十字架に架けます。「十字架刑」は強盗や殺人などの一般的な犯罪に課せられる刑ではなく、ローマに反乱を企てた者に対して課せられる刑でした。ただ十字架刑があまりにも残酷な処刑であったので、ローマ市民権を有する者には適用されず、ローマの植民地に住む外国人に限って適用されていました。

ですから、議員たちが「自分を救うがよい(35節)」というあざけりは、「ローマ帝国の支配から自分を救うがよい」という政治的な意味合いを有していたのです。このローマ帝国の支配からユダヤの民を解放することこそが、当時のユダヤの人びとが「メシア」に求めていたことだったのです。それは政治的・軍事的なメシアであり、この世の一般的な「王」と変わらない存在であったと言えます。ただ、この世の王が「軍事力」を行使するのに対して、メシアは「神の力」を行使します。それはつまりは「神の力」を「軍事力」として行使することを、民が望んでいたことを示しています。ですから、そのような「軍事力」として「神の力」を行使することを拒否したイエスは「メシア」ではないとして、ユダヤの民から「十字架につけろ」という叫びを受けることになったと言えます。

そうであるならば、イエスと共に十字架に架けられていた二人の「犯罪人」も単なる犯罪人ではなく、ユダヤの国を解放するために正義感をもって、ローマ帝国に反乱を起こした者であると考えられます。だとすれば、犯罪人の一人の「お前はメシアではないか・・我々を救ってみろ(39節)」という言葉は単なるののしりではなく、切実な要求であったと考えられます。「お前はメシアではなかったのか。私たちをローマの支配から解放してくれ」というような。

けれども、この要求に対して、イエスは答えられません。

もう一人のやはり、民のためにローマに反乱を起こしたであろう者は「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください(42節)」と望みます。この望みはこの人がイエスを「メシア」として認めた、ということを表しています。ではなぜ、この人はイエスを「メシア」として認めることができたのでしょうか。それは「この方は何も悪いことをしていない(41節)」の言葉に示されていると思います。

この人もやはり、イエスをローマからユダヤを解放してくれる「メシア」として期待していたことでしょう。そして病人をいやすイエスの「奇跡」を目にもしていたことでしょう。そして他の人びとのように「行いにも言葉にも力のある預言者(ルカ24:19)」として「イスラエルを解放してくださると望みをかけて(ルカ24:21)」いたことでしょう。その「力のある預言者」であるイエスがまったく無抵抗のままに十字架に架けられてしまったということは、この人にとって大きな謎であったと思えるのです。ここからは解釈というよりも推測ですが、イエスは十字架の死を自ら引き受けたのではないかと、この人は思い至ったのではないでしょうか。無実な正しい、しかも「奇跡」を起こす力を持った人が、無抵抗のままに十字架の死を受け入れたことに、ある意味、この人は大いなる「神秘」を感じたのではないでしょうか。権力や支配といった、この世的な偉大さを超えた、何か神秘な偉大さを、イエスに感じたのではないでしょうか。きっと、この人は完全ではないまでも、イエスの真の「メシア」の意味に近づいたのではないかと思えるのです。

この人に対してイエスは答えます。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(43節)」。一緒に十字架に架けられているのに「楽園にいる」とは、とんでもないと思われます。

イエスの言われる「楽園」とは場所ではなく「神と共にいる」ということなのです。どのような現実の状況の中にあろうとも、「神と共にいる」ことが「楽園にいる」ことなのです。