2025年11月16日 年間第33主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

来週23日の主日は、今年の典礼暦の一年間の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日です。典礼暦は、一年間を通して私たちが「神の救いの歴史」を追体験するために作られていると言えます。キリストの降誕から始まった神の決定的な救いの歴史を、待降節、降誕節、そしてキリストの死と復活を記念する四旬節、復活節を通して、みことばと典礼によって追体験して行くのです。

それによって、私たちの生きている日々が、単なる偶然の積み重ね、また人間の意志によって動いているのではなく、「神の救いのご計画」の中にあって営まれていることを私たちが絶えず意識して、信仰生活を送ることができるようになるためです。

本日はこの一年間の「年間主日」の最後の日にも当たります。「年間」はある意味、私たちの日常の日々を表していると思います。その日常がいつまでも続いて行くのではなくて、必ず「終わり=終末」が来る、そしてキリストが再び目に見える姿となって再臨することを来週の「王であるキリスト」の典礼を通して、私たちの心にきざむのです。

ですから来週の「世の終わり」と「キリストの再臨」を迎える準備の日として、本日の第一、第二、福音の三つの朗読は「終末を迎える生き方」がテーマになっています。

典礼暦の一年間の最後の二週間、私たちは「終末」に思いを巡らしながら、過ごしていきましょう。

 

第一朗読「マラキの預言3章19―20a」

マラキは紀元前5世紀前半に活動した預言者です。紀元前6世紀後半、539年にバビロンの捕囚から解放されエルサレムに帰還したユダヤの民は希望に満ちあふれていました。そして515年にはペルシア帝国の支援もあって神殿が再建され、ユダヤの民は喜びに包まれていました。けれども、50年ばかりたったマラキの時代には民は深い絶望の中にいたのです。それはユダヤの民がもっとも待ち望んでいた、ダビデ王朝の復興と国のとしての独立への望みが完全に絶たれてしまったことを民が思い知ったからです。

ダビデ王朝の最後の後継者であったゼルバベルはペルシア帝国によって暗殺され、ダビデ王朝の血統は絶たれました。また、ユダヤの地はペルシア帝国の植民地としてユーフラテス西方管区に組み入れられました。ペルシア帝国のエルサレムの街、また神殿の再建への支援も、あくまでも植民地政策の一環であり、ユダヤの土地から安定した税収を得るためであったのです。

待ち望んでいた「イスラエルの栄光を神が実現してくださらなかった」というように考えたユダヤの民の中には、信仰から離反し、ただ現世的な欲望の充足を求めて生きるようになり、その結果、富める者が貧しい同胞を搾取するような格差社会になってしまいました。

本日の朗読箇所の「高慢な者(19節)」とは、そのような富める者たちです。「神の思い」ではなく、ひたすら自らの願望と欲望の実現を求め、そのためには隣人を搾取することさえもいとわない者たちです。彼らはこの世的には成功し、人生を謳歌しているように見えます。けれども「その日(10節)」すなわち「終末の日」が来た時、「高慢な者たち」は「すべてわらのように(同節)」なり、神は「彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない(同節)」ようにされるのです。

このような「高慢な者たち」の真逆の存在が「『わが名を畏れ敬う(20a節)』者たち」です。自分の願望や欲望ではなく、神の思いを求めて生きる者たちです。このような者たちはこの世的には富や名誉もなく、富める者たちによって虐げられているように見えます。けれども「終末の日」が来た時には、太陽がその光ですべてのものを包み込むように、神の限りない愛によって包み込まれ、いやされるのです。

私たちキリスト者にとって「終末」は「滅び」ではありません。「神の国の完成」です。けれども「神の国」に迎え入れられるためには、この世にあって絶えず、神の思いを求め、それに従って生きるように努力しなければなりません。「高慢な者」として生きるならば、「終末の日」はまさに「滅びの日」となるのです。

 

第二朗読「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙二3章7―12節」

本日のパウロの手紙は、テサロニケの教会に宛てた二通目の手紙です。パウロが再びテロサニケの教会に手紙を書き送ったのは、最初の手紙によって、テサロニケの信徒の中に「終末」に関して誤解が生じてしまったからです。

「テサロニケの教会への第一の手紙」では、パウロはかなり具体的に「終末の日」がどのように来るのかを書いています。

「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます(4:16)」「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、雲に包まれて引き上げられます(4:17)」というように、まるで映画を見るかのように大胆に可視化された表現が使われています。

また、「盗人が夜やって来るように、主の日は来る(5:2)」「人々が『無事だ。安全だ』といっているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです(5:3)」というように「突然」という表現などによって、今すぐにでも「終末の日」が来るかのような切迫感をもって書かれています。

この手紙によって、テサロニケの教会の信徒は「終末」を切迫感をもって実感することができたでしょう。けれども、その信徒の中に「どうせ、この世界は終わるんだから、今の生活なんかどうでもいいんだ。がんばったって、意味はないんだ」というように考えてしまって、本日の第二の手紙にあるように「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者(11節)」たちが出て来てしまったのです。

パウロにしてみると、「終末」への切迫感を抱いたうえで信仰生活を送ってもらいたいという思いから書いた手紙が、とんでもない副作用を生んでしまったようなもので、パウロは頭を抱えたことでしょう。

それでパウロは第二の手紙を書き送ります。その中でパウロは「終末」を迎えるにふさわしい生き方について、次のように書きます。

「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい(12節)」

「終末」を迎えるために「今の生活を捨てて、修行の道に入り、宣教に旅立ちなさい」といったような、特別なことをパウロは要求しません。ただ、今の生活、今の仕事を誠実に生きなさい、と言うのです。「終末」が来るからといって、今の生活がどうでもいい、ということにはならないのです。むしろ、「終わりがある」「限りがある」からこそ、今の生活が「尊い」ものになります。一生懸命生きようと思えるようになるのです。

そして大切なことは「落ち着いて」生きることです。たとえ、どんな終末が来ようとも、「神への信頼」さえあれば、何も恐れたり、あわてふためくことはないからです。むしろ、あたふたしたり、心配して仕事が手につかなくなったりするのは、神を信頼していない不信仰をさらけ出しているようなものです。

パウロは特別なことをするのではなく、今、自分に与えられている仕事、日々の生活を、神が与えてくださったものとして誠実に生きて行くことこそが、「終末」を迎えるための生き方であり、それは「神への信頼」なくしてはできないと、私たちに教えていると思えます。

 

福音朗読「ルカによる福音21章5―19節」

本日の福音の構造は5―6節が前の枠、18―19節が後の枠になっていて、全体を枠づけています。前の枠では神殿の崩壊の予告、後の枠では迫害に対する心構えが書かれています。

枠に挟まれた中の7―17節は前半と後半に分けることができます。前半は7―11節までで、終末が起こるときの徴(しるし)について書かれています。前半と後半をつなぐ言葉が「しかし、これらのことがすべて起こる前に(12a節)」であり、それに続いて17節までの後半では、現代における迫害の状況が書かれています。

ただ「現代」といっても、それはイエスが生きていた時代の「現代」ではありません。「ルカによる福音書」が書かれた時代の「現代」です。

「ルカによる福音書」は紀元80年ごろに書かれました。その時代には、ユダヤ教の中で「ナザレ派」とよばれていた、イエスをメシア(キリスト)と信じる者たち(初代教会)は次第に異端者と見なされて、同胞であるユダヤ教徒から迫害を受けていました。当時の家父長制の大家族の中にあっては、家族からでさえも「一族の恥」として疎外され、まさに「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる(16節)」というような「現実」の中に置かれていたのです。

この現代の迫害の状況を後半に置き、後の枠でそれに対する心構えが書かれているという構造から、ルカが強調したかったのは「終末」よりも「迫害の現代」であったことがわかります。「終末」は「迫害の現代」を忍耐するための「希望」として書かれていると考えられます。「迫害はいつまでも続かない、必ず世の終わりが来て、あなたがたは救われる」という「希望」です。

前の枠と後の枠とで対応し合っている言葉が「一つの石も崩されずに・・残ることのない(6節)」と「髪の毛の一本も決してなくならない(18節)」です。その対応から読み取れるメッセージは「神殿は一つの石も残さずに滅んだ(神殿は70年にローマ軍によって破壊されていました)。けれども、あなたがた一人ひとりは主によって守られており、決して滅びることはない」ということでしょう。

ですから、イエスは終末のことを言いたいのではなく、「現代」を忍耐をもって誠実に生きなさいと福音書を通じて福音の時代の人びとに、そして「現代」の私たちに呼びかけておられると思います。

 

*第一、第二、福音を通して共通するメッセージは、「『終末』は『未来』についてではなく、『現代』について、『現代』を神の思いに従って、誠実に、忍耐をもって生きて行くためにある」ということであると思えます。