カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日は例年の典礼暦であれば、年間第32主日が行われるはずでしたが、11月9日は「ラテラノ教会の献堂」の祝日に当たっているため、「ラテラノ教会の献堂」のミサが行われます。
ローマ皇帝コンスタンティヌスは323年、「ミラノの勅令」を発布し、それまでの禁教令を廃止して、キリスト教を公認しました。翌年の324年にコンスタンティヌス帝は自ら、ローマ教区の司教座聖堂(カテドラル)として、ローマ市内のラテラノに大聖堂を献堂しました。ラテラノ教会は「ローマと世界のすべての教会堂の母であり頭」とたたえられて、全世界のカトリック教会で祝われるようになりました。現在に至るまで、歴代のローマ教皇は毎年の聖週間の聖木曜日にラテラノ教会におもむき、「主の晩さんの夕べのミサ」を捧げています。
本日はローマ教区の司教であるローマ教皇の座が置かれているラテラノ教会を祝うことによって、全世界のカトリック教会が教皇の座に対して一致と親愛の情を示す日です。
また、本日の第一朗読、第二朗読、福音朗読は「教会」とは何かを改めて思い巡らす機会を与えるような箇所が選ばれています。
第一朗読「エゼキエルの預言47章1―2、8―9、12節」
エゼキエルは紀元前597年の第一回バビロン捕囚において、バビロンに連行されました。エゼキエルは祭司であったので、586年、バビロニア軍による再度のエルサレム包囲戦によって神殿が破壊されたことを捕囚の地で知って、深い絶望の中に落ちて行きました。「これでユダヤ教は終わった。祭司である私も終わった。神殿が破壊されてしまっては、祭司としての私の存在も破壊されてしまったようなものだ」というように。
けれども神は、生きる意味を見失ってしまっていたエゼキエルに「預言者」としての新たな使命を与えて、彼を再び立ち上がらせようとします。そして本日の朗読箇所にある「新しい神殿」の幻を見せるのです。
失われてしまった神殿よりもはるかに壮大な神殿にエゼキエルは導かれて行きます。神殿の敷居の下からは水が湧き上がり、豊かな川となって、神殿から東に向かって流れ出ていました。そして「汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる・・群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる(8―9節)」と神の使いはエゼキエルに語ります。
「汚れた海」とは「死海」のことです。「死海」は水面の標高が海水面よりも低いために、大量の塩分を含んでいて、現在でも魚が生息することのできない、まさに「死の海」です。けれども、この幻においては多くの魚があふれる「命の海」に変わっているのです。それは神殿から流れ出る水は、すべてのものを「再生」することができるからです。
それは神がエゼキエルに与えた大きな希望でした。故郷のユダの地、エルサレムの街、そして神殿がバビロニアによって徹底的に破壊され、民はバビロンへと連れ去られ、その地はまさに「死の地」となっていましたが、再び神殿が建てられ、そこから流れ出る水にうるおされることによって「命の地」としてよみがえるという、大いなる「再生」を告げる幻であったのです。「神殿から流れ出る水」については、主なる神の「限りない慈しみ」「天地に満ちる栄光」というように、さまざまな旧約のイメージを思い浮かべることができるでしょう。
そして「新約の民」である私たちにとって、この幻に現わされた「神殿」は「教会」であり、「流れ出る命の水」は「聖霊」であると解釈することができます。
ただ、「教会」の「建物」としての聖堂から聖霊があふれ出るのではありません。聖堂という「建物」は、キリストの最後の晩さんにおける「これを私の記念として行いなさい」という命令に従って、「最後の晩さんの記念」である「ミサ」を行うために建てられました。「ミサ」を行う時、聖霊が働き、聖堂の中に聖霊が満ちあふれるのです。聖変化の時だけではありません。司祭が祈願文などを通して神とキリストに呼びかける時、みことばが朗読される時、会衆が讃美の歌を共に歌う時、聖霊は泉のように湧き出て、私たちを包みこんでいくのです。
そして、ミサという豊かな聖霊の泉は聖堂内だけにとどまることなく、香里教会の小教区の地にあふれ出していくのです。そして、この地を新たに生き返らせていくのです。私たちは聖堂内に集まった自分たちのためだけにミサを捧げているのではありません。香里教会の周囲に住む全ての人びとを、聖霊の流れの中に浸し、生きる力を与えるためにミサを捧げているのです。
香里教会で捧げられるミサがまことの「聖霊の泉」となって、香里の地に住む全ての人びとに聖霊の恵みが注がれることを絶えず祈念しつつ、この聖堂でミサを捧げて行きましょう。
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一3章9c―11、16―17節」
パウロは「「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか(16節)」と書いています。この言葉は宛先である紀元一世紀のコリントの教会の人びとに向けられているだけでなく、現在の私たち一人ひとりにも向けられています。
私たちも洗礼を受けたことによって、「神の霊」である聖霊が私たちの中に降って来てくださり、住んでくださっているからです。そのために「聖霊である神」の住まい、「神殿」となっているのです。「神殿」は私たちの「体」だけではなく、私たちの「存在」そのもの、また私たちが生きる「人生」そのものが「神殿」となったのです。ですから、私たちの「体」「存在」「人生」はもはや私たちだけのものではなく、神の住まい、「神のもの」となったのです。パウロは「神の神殿を壊す者がいれば(17節)」と書いていますが、私たちが聖霊の導きを求めず、自分の思うままに生き、聖霊の働きに反するようなことを行うことによって「神の神殿を壊す者」となってしまい、「神によって滅ぼされる」ことにもなりかねないのです。
また、私たちは洗礼を受けたことによって「キリストという土台(11節)」の上に据えられたのです。もはや地位や名誉、財産といった、この世的な土台の上に自分を据えて生きることから解放されました。でも、それは同時に「キリストを生きる」という使命を与えられたことでもあるのです。「キリストを生きる」ことによって、私たち一人ひとりが「神の建物」である「教会」になるのです。
大切なことですが「私が教会」であって、けっして「私の教会」ではありません。「私が教会」という場合、自分は教会共同体を形作る一員であるというように、「教会のために私がある」というような「奉仕者」的な意識になります。対して「私の教会」では、自分の思い通りになるような、自分の意に適うような教会というように「私のために教会がある」というような「支配者」的な意識になってしまいます。
誰も「私の教会」と言うことはできません。なぜならば「教会」は「キリストのもの」、「キリストの教会」であるからです。私たち一人ひとりは「キリストの体」である「キリストの教会」の一部であり、私たち一人ひとりも「キリストのもの」であるのです。
「あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、(キリストが)代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
――――コリントの信徒への手紙一6章19―20節
福音朗読「ヨハネによる福音2章13―22節」
イエスは「わたしの父の家を商売の家としてはならない(16節)」と叫ばれます。当時の神殿には莫大な金銀があふれかえっていました。律法でユダヤ教徒は十分の一税を神殿に収めねばなりませんでした。ただ、エルサレムに住むユダヤ人たちは貧しかったようで、パウロはたびたびエルサレムの教会、信徒のための献金を手紙の中で呼びかけています。けれども、アレクサンドリアやアンティオキアなどローマ帝国の都市のディアスポラ(ユダヤ人居住地)に住むユダヤ人には裕福な者が多く、高額の十分の一税がローマ中から神殿に送り届けられていたのです。そのために神殿は、かつてないほどの富を蓄積していました。富が集まるところには利権が生じ、それを手にしようとする強欲な人びとが群がって来ます。まさに「死体のある所には、はげ鷹が集まる(マタイ24:28)」というような状況になっていました。イエスの怒りは単に「牛や羊や鳩を売っている者たち(14節)」にだけではなく、祭司たちを筆頭とする神殿の利権をむさぼる者たちに向けられていたのです。
そしてイエスが「羊や牛をすべて境内から追い出し(15節)」たのは、象徴的な行為でした。それは神殿における牛や羊を用いての「いけにえの祭儀」の撤廃を示す行為であったのです。イエスは十字架の死を通して、新たな「いけにえの祭儀」を始められました。それは動物ではなく、御自身をいけにえとして捧げる祭儀、すなわち、この「ミサ」です。キリストは「ミサ」を通して、今もご自身をいけにえとして捧げてくださっているのです。それは私たちの罪をあがない、私たちと神との和解を実現するためです。
そしてイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる(19節)」
と言われますが、それは21節で説明されているように「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだった」のです。
もはや「建物」としての「神殿」は廃止され、「キリストの体」が「神殿」となったのです。
私たちにとっての「神殿」は「教会」です。「教会」も「キリストの体」なのです。もちろん、「建物」としての「教会」ではありません。「キリスト者の共同体」としての「教会」です。
そして具体的に、目に見えるかたちで「教会」が「キリストの体」となる場こそがまさに今、ミサが行われている、この場なのです。ミサを捧げている私たちの中に「キリストの体」が立ち上がって行くのです。特に聖体拝領をしたとき、私たち全員の中に「キリストの体」が住まわれて、私たち全員は「キリストの体」を通して「ひとつ」になります。ひとつの「キリストの体」になります。
そして私たち一人ひとりは「キリストの体」の一部になるのです。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体の部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
――――コリントの信徒への手紙一12章12、27節
