カトリック香里教会主任司祭:林和則
*当日の9時半のミサは「子どもとともに捧げるミサ」を行いましたので、説教も子どもに向けて行いました。今回の「説教の要約」は7時のミサの説教の要約です。
本日のみことば、第一朗読、第二朗読、福音朗読のテーマは、この世の流れに流されることなく、迫害を受けようとも、神の思い、福音的価値観をこの世に向けて投げかけることが私たちに求められている、ということです。
第一朗読「エレミヤの預言38章4―6、8―10節」
本日の第一朗読の歴史的背景は、紀元前6世紀初頭のバビロニア帝国によるユダ王国への侵攻がもたらした首都エルサレムの攻囲戦です。
紀元前605年、新バビロニア帝国の第二代目の王として即位したネブカドネザルは現在のシリア地域でエジプト軍に大勝し、中近東の覇権を確立して、ユダ王国もバビロニアの支配下に入ります。しかし、601年、エジプト国境にまで兵を進めたネブカドネザル王が敗退すると、当時のユダ王国の王であったヨヤキムはバビロニアに反旗を翻します。その結果、598年、バビロニアはユダ王国に侵攻して、第一回目のエルサレム包囲を行います。597年にエルサレムは陥落し、ヨヤキム王は殺害され、第一回目のバビロン捕囚が行われ、この際に王族、貴族たちや、祭司であったエゼキエルもバビロンに連行されて行きました。
ネブカドネザル王はユダの王族の中から21歳のゼデキヤを選んで王としました。それはゼデキヤが主体性のない優柔不断な人柄であったがゆえに、バビロニアにしてみると「傀儡政権」の「王」として適格者であると判断されたためでした。紀元前588年、30歳になったゼデキヤ王は国内の増大する反バビロニア勢力からの圧力に抗することができずに、バビロニアに反旗を翻します。ネブカドネザル王は即座にエルサレムに向かって侵攻を開始しました。
今日の箇所はバビロニアによる第二回目のエルサレム攻囲の直前の時で、エレミヤは神のことばとして、人びとにバビロニアに降伏するように訴え、さらに捕囚となってバビロンに向かい、そこで暮らすようにと勧めます。この預言はバビロニアへの徹底抗戦を主張する反バビロニア勢力にとっては許しがたいものでした。彼らはエレミヤを捕らえて「どうか、この男を死刑にしてください(4節)」と王に訴えたのです。それに対してゼデキヤ王は「任せる」と言って、さらに「王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから(5節)」と言い放ちます。この言葉には、自己の意見を主張できずに周囲の大勢に従って行くというゼデキヤ王の気弱な姿がよく表されています。けれども、だからこそまた、宦官のエベド・メレクにエレミヤの助命を嘆願されると、あっさりとエレミヤを助けるようにと命じもするのです。まさに風に吹かれて左右に揺れる葦のような、頼りない王であったわけです。
このエレミヤを取り巻いていた当時の社会状況は、80年前の太平洋戦争末期の日本の状況によく似ているように思われます。沖縄が陥落し、いよいよ日本本土に向けて米軍の侵攻が迫る中、誰もがもはや勝てる見込みのないことがわかっていながらも本土決戦、一億玉砕というように徹底抗戦に向けて日本社会は狂ったように突き進んでいました。その状況下で米軍に降伏し、米軍による日本占領を受け入れるようにと訴えたりすれば、「非国民」として憲兵によって獄に投じられ、死の危険さえもあったことでしょう。その抑圧的な状況の中で、人びとは口をつぐみ、ただただ破滅に向かって突き進んで行ったのです。
エレミヤは似たような状況にあって、国中が好戦的な傾向に流されて行く中でも「声」をあげたのです。本日の朗読に書かれているような迫害を受けることを予測しながらも、「預言者」としての使命に徹して、当時の社会の流れに真っ向から反対するような「預言」を投げつけたのです。それはまさに本日の福音の「地上に火を投ずる(ルカ12:49)」行為であったのです。
私たちも洗礼を受けた時に「預言職」をキリストから与えられています。私たち「キリストの教会」は、またそれを形作る「石」である私たち一人ひとりは、社会の流れに流されることなく、絶えず神の思い、福音的価値観に従った「預言」を社会に向かって投げつけて行かなければならないのです。
第二朗読「ヘブライ人への手紙12章1―4節」
本日の朗読箇所で「ヘブライ人への手紙」の著者(パウロではありません、不明です)は、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか(1節)」と私たちに呼びかけています。その競争はこの世での出世競争のようなものではありません。地上的な「重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて(同節)」「神の子」としての完成に向かって走り抜く「競争」です。それは「神の子」であるキリストの福音的価値観に従って走り続けることです。まさに聖火ランナーがオリンピックの火をかざして走るように、「聖なる火」である「福音」を人びとの前で高く掲げながら走る「キリスト者」としての「競争」です。
しかし先の教皇フランシスコが何度も言っていたように、福音的価値観に従って生きようとすれば、どうしても現代社会から迫害を受ける、生きづらくなってしまいます。そのために信仰者としての歩みに「気力を失い疲れ果てて(3節)」しまいがちなのですが、だからこそ私たちは絶えず「信仰の創始者また完成者であるイエス(2節)」を仰ぎ見る必要があるのです。
イエスは「十字架の死(同節)」によって信仰を完成させてくださいました。こ
の世的な「喜び(同節:イエスにしてみると、それはこの世的な栄光のメシア)」を捨て去って、「十字架のメシア」となることによって信仰を完成させられたのです。イエスの十字架の苦しみはまた、私たちと苦しみを共にされるためであったのです。イエスはいつも私たちの苦しみをその身に担ってくださっているのです。私たちは十字架のイエスに支えられてこそ、信仰の道を走り続けることができるのです。
本日の朗読箇所の最後の4節の言葉は、私たちの胸に突き刺さります。
「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」
本当に、どこかで妥協してしまう私たちです。自分の罪、この世の罪に対して、「これ以上は、しんどいから」「生きて行くためには仕方ないから」というように自分に、社会に妥協して、流されてしまっている情けない私がいます。
けれどもイエスは最後まで妥協しなかった、流されなかった、福音を曲げなかった、その結果が「十字架」であったのです。イエスはまさに「血を流して」果ては自らの命を捧げて「福音」を守られたのです。
私たちは絶えず、十字架のイエスを仰ぎ、その前に頭(こうべ)を垂れなければなりません。
福音朗読「ルカによる福音12章49―53節」
本日の福音でイエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである(49節)」と言われます。この「火」とは「福音」であると思われます。「福音」は「良きおとづれ」「幸福の便り」ですが、また「火」のように、この世の「罪」と「悪」を燃やし尽くします。特にイエスは「小さな者(社会的弱者)」が虐げられる社会をけっして許しません。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい(マルコ9:42)」
またイエスは「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない(51節)」と言われます。ただイエスは別の箇所でこのようにも言われています。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える(ヨハネ14:27)。」一方では「平和をもたらすために来たのではない」と言われ、また一方では「平和を与える」と言われるのは矛盾であると思われるかも知れません。そうではなく、言われているふたつの「平和」は異なる「平和」なのです。
前者で否定されている「平和」は、イエスの時代の欧州、中近東を覆っていた、いわゆる「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」なのです。それは大国ローマが支配する、ユダヤのような小さな国々を強大な武力でもって押さえつけることによって生じている「平和」です。大国が小国を支配し搾取し、小国の忍従と血と涙の上に築き上げられている「平和」なのです。イエスはこのような「平和」を許すことなく、そのゆがんだ社会に向かって「福音」の「火」を投げ入れられるのです。それによって当然、社会に分裂が生じるでしょう。福音的価値観に従って現状の改革に努力しようとする人びとと、大国に従って行こうとする人びととに分裂し、議論だけならばよいですが、大国が力でもって反対派をねじ伏せようとするかも知れません。それでも、キリスト者は声をあげねばなりません。
イエスもけっして黙ろうとしなかったからです。そのために「十字架」を担うことになったのです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マルコ8:34)」私たちもイエスに従って、たとえ世の権力者から迫害を受けようとも、福音の「火」を社会に向かって投じなければなりません。
そのために本日の箇所は、教会が社会に対して、政治に対して、福音的価値観から意見を、時には批判をするべきであることの根拠に使われます。しばしば教会では、政治に口出しをすべきではない」という意見があります。それはどこかで「面倒にまきこまれたくない」「社会の矢面に立ちたくない」「そっとしておいてほしい」という思いからなのかも知れません。それは信仰に集中したいと思うからで理解できるのですが、やはり私たちの信じるイエスが「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか(49)」とまで、強く言われているのです。そのイエスの「願い」に目をつぶりながらの「信仰」があり得るでしょうか。
私たちはたとえ「分裂」が生じようとも、福音的価値観に従って、小さな人びと、小さな国ぐにが本当に大切にされ、助けるために、強者が、大国が協力し合うことによって生じる「平和」こそがまことの「平和」であると、世界に向かって、「声」をあげ続けなければなりません。「キリストの平和」がこの世界に実現するために、福音の「火」を灯しつづけなければなりません。
黙っていることは、結局は強者の側に立つことになってしまうのです。
ただ、後半の「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と(53節)」というように親子が対立し合うような凄まじい「分裂」は福音書の成立した時代背景が反映しています。紀元80年ごろ、ユダヤ教徒の中でイエスをメシア(キリスト)と信じる「ナザレ派」と呼ばれていた人びとは次第に「異端」として同胞から排斥、迫害されて行ったのです。当時の家父長制、大家族の中で、まさに肉親から迫害、排除されるというようなことが「現実」に起こっていたのです。
ですから、けっして親子の分断を求めているということではなく、これはまさに当時の「現実」であって、その状況に苦悩していた初代キリスト者を励ますために、このように書かれていると考えられます。
