カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日のミサは例年であれば、典礼暦C年の第 31 主日のミサが行われるはずで したが、今年は「死者の日」と重なりましたので、「死者の日」が優先されて、「死者の日」固有の祈願文と朗読箇所を用いたミサが行われます。
ただ「死者の日」は典礼暦的には「祭日」でも「祝日」でもなく、「記念日」でさえもない通常の「日」に過ぎないのです。 対して前日の 11 月 1 日は「諸聖人の日」で、聖母マリアを筆頭とする、これまでに亡くなった全ての聖人のためのミサを捧げる日であるだけに「祭日」にな っています。少し失礼な言い方に聞こえるかも知れませんが、本日は「聖人以外」のこれまでに亡くなった全ての一般の方がたのためにミサを捧げますので、典礼的には「祭日」「祝日」「記念日」には当たらないわけです。
ただ、留意して頂きたいことは典礼暦における「聖人」は、教皇庁、バチカンによって公的に認可された「聖人」です。けれども、歴史的に名を留めることなく亡くなられた無数のキリスト者の中には「知られざる聖人」とも呼ぶべき方が数多くおられると思います。聖職者、修道者に限らず、「キリストを生きた」方がたは数多くおられ、「天」においては「聖人」として、バチカンによって認められた「聖人」と肩を並べて共に神を賛美されている、と私は信じています。
また、「聖書と典礼」には、本日の典礼の色として「白・紫・黒」と書かれて いますが、現在では「黒」を用いることはほぼなく、「白」か「紫」ですが、私の祭服を見て頂ければわかりますように、「白」を用いる司祭の方が多いと言えます。
それは葬儀ミサにおいても同じことが言えます。「黒」は仏教の葬儀の形式に影響されていると言えます。これから申し上げますことは、仏教の葬儀の形式を 否定するものではありません。信仰内容の違いであって、どちらがいい悪いということではないということを前提にしてお聞きください。
仏教の宗派によっては、亡くなった方のお宅が「忌中」であることを表すため に「忌」という文字を玄関に掲げます。「忌」は訓読みでは「い(み)」と読み、「忌み」を国語辞典で引くと「死、不浄など、はばかりのあること」と書かれています。「死」は「忌み恐れる」べきものであり「穢(けが)れ」なのです。です から、仏教の葬儀においては「塩」が配られ、参列後に体に塩をまくことによっ て「穢れ」を払います。
けれども、キリスト教では主イエスが「復活」によって「死」に打ち勝ってくださったと信じています。それは人間が「死」に抱いていた恐怖や穢れといった概念をも打ち砕いてくださったということです。
キリスト教では葬儀ミサを「天国への凱旋式」と呼びならわして来ました。 亡くなった方が天国に行かれたことを参列者みんなで喜び合う「祭儀」であるか らです。私たちは亡くなった方が死後、すぐに天国に行かれる、正確に言えば「父なる神によって招かれる」ということを信じています。私たちをご自分のもとに引き寄せるために、御子であるキリストを遣わしてくださり、キリストが私たちの霊魂を御手に抱いてくださって、ご自分の足で天国へと連れて行ってくださると信じています。それはけっして私たちが天国に入るにふさわしい人間だからではありません。ただ、神が私たちを愛してくださっているから、神が私たち とともにいることを望んでくださっているからなのです。
そして、「天国」の「天」は物理的な空間である「空」ではありません。「天」は聖書では「神の座」であり、新約においては「父と子と聖霊の神の座」です。 また「場所」でもありません。それは「父と子と聖霊の神の愛の交わり」です。 この神の愛の交わりの中に招き入れられることこそが、私たちの「救い」「天国」なのです。
「天国」というと一般的には美しい風景があって、快い音楽が流れていて、おいしい食事が食べられて・・・、というようにイメージされがちですが、風景も音楽も食事も、「肉体」が、「五感」あってこそ味わうことができます。死んで「肉体」を失ってしまって「霊魂」だけになった私たちは、それらのものを楽しむことはできなくなるのです。では、「霊魂」は何を楽しむのか。それが「愛」なのです。実は私たちはそれを「肉体」を伴って生きている今も、どこかで知っているのです。簡単な例を出 せば、どんなに財産や地位や名誉を手にしても、愛し合う人もなく、孤独であれ ば、「幸せ」と言えるでしょうか。逆に財産や地位や名誉がなくとも、本当に愛し合って生きている人がそばにいれば、人間は「幸せ」を感じるのではないでし ょうか。私たち人間にとって本当の「幸せ」は財産や地位や名誉ではなく、「愛し合う交わり」にあることを私たちはどこかで知っているのですが、しばしばそれが地上的な快楽にごまかされて、見えなくなってしまうのです。
けれども私たちの愛は不完全ですから、愛し合っていても、傷つけ合ってしまうのです。友人で会っても、夫婦であっても、親子であっても、愛し合っていても時に傷つけ合ってしまいます。けれども、そのような不完全な愛の交わりであっても、私たちは喜びを感じることができるのです。だとしたら、完全な愛の交わりである「父と子と聖霊の神の愛の交わり」が、どれほどの幸せを、喜びを与えてくれることでしょうか・・・。
この「天国」への希望に支えられて、私たちはこの世における人生という「巡礼」を歩み続けて行くことができるのです。
