2025年10月19日 年間第29主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

本日のみことばである第一朗読、第二朗読、福音朗読に共通するテーマは福音朗読冒頭の「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」です。

 

第一朗読「出エジプト記17章8―13節」

第一朗読では、イスラエルの民のエジプトを脱出してからの荒れ野の旅路における、アマレクの民との戦いについて描かれています。この「アマレク」はイスラエルの民が荒れ野からカナンの地に入ってからも、何度もイスラエルの民と戦いを繰り広げます。

アマレクはパレスチナの南端部からシナイ半島の東端部の地域に広がる、乾燥気候下の樹木の少ない草原地帯で移動を繰り返していた遊牧民でした。そのため、干ばつなどに見舞われるとヨルダン川中流の肥沃な地域の人びとを襲撃していたようです。その通り道がイスラエルの民の居住地域に当たっていたために、その度に戦闘になっていたようです。そのために、イスラエルの民にとってアマレクは目の上のたんこぶのような存在になっていたのでしょう。アマレクに対する敵意の激しさは旧約の記述に表れています。本日の朗読箇所のすぐ後の14節にはモーセに告げられた神のことばとして、次のように書かれています。「このこと(アマレクとの戦い)を文書に書き記して記念とし、またヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」さらに申命記25章19節でも、神の言葉として「アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない」と繰り返されています。「アマレク」の名はダビデ王による王国統一の後、旧約から消滅します。ダビデによって滅ぼされたのでしょうか。

ただ、「アマレク」の名は旧約聖書以外の同時代の文献には出て来ません。エジプト王国やメソポタミアのさまざまな帝国の記録には、全く書き記されていません。おそらく、大国にとっては自国の治安に影響の及ぶことのない、気にする必要もなかった弱小民族であったのでしょう。ところが、旧約聖書に記録されたことによって、「アマレク」の名は今に至るまで残り、本日は世界中のカトリック教会のミサの中で読み上げられているのです。

考えてみると、これは奇妙な話です。「アマレクの記憶を天の下からぬぐい去る」と神が言われているというのですが、逆にその「神の言葉」が残ったことによって、歴史の中で小さな塵のような存在であった「アマレク」がいつまでも、多くの民の記憶に残ることとなったのです。

実はこれこそが本来の「神の思い」であったのではないでしょうか。確かに「他民族への襲撃」は現代の私たちの倫理からすると許されるべきことではありませんが、当時のアマレクにとっては民族が生き残るための必死の行動であったと思えます。当時の世界にはこのような小さな民族が数多くいて、必死に生きながらも歴史に名を残すことなく、滅び去って行きました。

そのような小さな民への神の憐みが「アマレク」の名を残したことに現わされているのではないでしょうか。

 

本日の第一朗読の本筋から離れてしまいました。戻りましょう。

アマレクとイスラエルとの戦いの間、モーセは手を上げています。これは本日の「聖書と典礼」の注釈11にありますように「祈りの一つの姿勢」です。現代でもユダヤ教、イスラム教では、ひざまずきつつ両手を天に上げて祈る姿がよく見られます。モーセはアマレクとの戦いに神の加護を求めて祈っていたのです。

ところが疲れから、モーセは手を下ろしてしまいます。するとアマレクが優勢になってしまうのです。そこで「アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた(12節)」ので「その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた(同節)」ために、イスラエルは勝利することができました。

ここには大切な教えが示されています。「絶えず祈らなければならない」という教えはもっともなことなのですが、それでもやはり、私たちには祈れない状態に落ち込む時があります。モーセのように肉体的な疲れから、また精神的な疲れからなどによって、一人では祈れない時があります。その時、一人ではなく、「誰かに支えられて祈る」ことが大切です。一人では祈れなくても、誰かと共に祈ってもらうことによって、祈ることができるのです。

このミサが、まさに「共に祈る祈り」です。教会共同体と共に、そして秘跡によってキリストと共に祈る場なのです。共同体の仲間が、キリストが、私たちの疲れてしまった「「祈る手」を支えてくれます。祈る力を与えてもらえるのです。

 

第二朗読「使徒パウロのテモテへの手紙二3章14節―4章2節」

先々週から申し上げているようにこの手紙は、パウロによってエフェソの教会の責任者に任命されたテモテが何らかのトラブルを起こしてしまって、司牧に行き詰まりを感じ、意気消沈している時に、パウロがテモテを励ますために書き送られたものです。

本日の朗読箇所の前半では、キリスト教徒が信仰を「確信(3:14)」するため、「救いに導く知恵(3:15)」を受けるためには、「聖書(同節)」を学ぶことが必要であることが述べられています。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ(3:16)」と書かれていますが、これが私たちカトリックの聖書解釈の基本になっている「聖書霊感論」です。聖書はあくまでも人間が書いたものですが、神の霊の導きの下に書かれた、という考え方です。ですから、そこにはどうしても「人間的な限界」が入って来てしまいます。それを前提に聖書を解釈していくのです。これに対して「霊感」ではなく、神が直接的に人間をロボットのようにして書かせたとする立場が「(聖書的)原理主義」です。この立場に基づけば、聖書の言葉の一字一句全てが「神の言葉」になり、解釈の余地はなくなります。私たちカトリックでは神は私たちの自由意思を尊重してくださると信じます。そのため、聖書は神と人との「応答」によって書かれている書物であるというように信じるのです。

ただ、いずれの立場にしても、また、どの教派にとっても、聖書こそが私たちキリスト教徒の信仰の源泉であるという信念に変わりはありません。聖書を読み、学ぶことなしには、私たちキリスト者の信仰はあり得ないのです。

それを前提にパウロは「キリスト・イエスの御前で・・厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい(4:1―2)」と改めて、テモテに厳然と命じるのです。もしかしたら、テモテはいつの間にか、「御言葉」を宣べ伝えることよりも、人間的な関係や組織の問題に迷いこんでしまっていたのかも知れません。これは私たち現在の教会も陥りやすい、注意すべき点です。

そしてパウロは「折が良くても悪くても励みなさい(同節)」と書きますが、テモテは「折の悪い時」の中にいたのです。そのような時にあってもまさに「気を落とさずに絶えず祈らなければならない(本日の福音の冒頭)」のです。「御言葉を宣べ伝える」ためには祈りつつでなければ、それはただの「きれいごと」になってしまうからです。みことばに「命」をこめ、「生きたことば」とするのが「祈り」なのです。

 

福音朗読「ルカによる福音18章1―8節」

今日のたとえ話は「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」というテーマを先にはっきりと示されたうえで語られているので、わかりやすくはあるのですが、「不正な裁判官(6節)」と絶対的に公正な神が対比されているという、そのギャップの大きさにいささか戸惑いを感じます。

ただ、「不正な裁判官」に頼らざるをえない「一人のやもめ(3節)」の存在によって、イエスの時代の社会的弱者の窮状を知ることができます。旧約から聖書における社会的弱者の代表は「孤児・やもめ・寄留者(外国人)」で、彼彼女らは社会から疎外され、ほとんど生きて行く術がありませんでした。そんな社会的弱者にとっては、現在もそうですが、「法」にすがるしかなかったのです。少なくとも「法」は分け隔てなく、全ての人に同じように施行されることが原則とされているからです。けれども、「法」を施行するのは「人」なのです。そしておそらく当時の多くの裁判官は「不正な裁判官」であったと考えられます。そのような「不正な裁判官」にすがるしかなかったというのが、当時の社会的弱者の実情であったことを、イエスはこのたとえ話を通して示したかったのかも知れません。

この実情を踏まえて「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人びとのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか(7節)」とイエスは言われるのです。「選ばれた人びと」は優秀なエリートではありません。本日の「聖書と典礼」の注釈7に書かれているように、本日の「一人のやもめ」のように「弱く、神の助けを待ち望む人」、社会的弱者のことです。私たちの神の本性の特徴には「弱者の優先」があるからです。神はいつも、「弱者」の側におられるのです。

実は、このたとえでイエスが言いたかったことは「マタイによる福音」の「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(25章40節)」と同じ思いなのではないのでしょうか。イエスは私たちに「このやもめのような最も小さな者と一緒になって、昼も夜も叫び求め、絶えず祈ってあげてほしい」と訴えているのではないでしょうか。

このように考えれば、最後の「人の子が来る(キリストの再臨)とき、はたして地上に信仰を見いだすだろうか(8節)」の「信仰」は、「最も小さな人びとの中にキリストはいる」という「信仰」を指していると考えることができると思います。

私たちもこの世界の現状に気を落とさず、あきらめることなく、「弱者」の人びとのための「裁き」を求めて、神に絶えず祈らなければならないのです。