2025年10月5日 年間第27主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

本日のみことばである第一朗読、第二朗読、福音朗読に共通するテーマは「謙虚」です。一般的な道徳における「謙虚」ではなく、「神の前における謙虚」で す。

 

第一朗読「シラ書 35 章 15b―17、20―22a 節」

「シラ書」は紀元前 2 世紀頃にエルサレムに住むヨシュアによって書かれたとされています。この時代には「シラ書」をはじめ「知恵の書」「コヘレトの言葉」などのいわゆる「知恵文学」と呼ばれる書物が書かれています。

紀元前 4 世紀のアレクサンドロス大王の東方遠征以降、ユダヤの国はヘレニ ズム文化に浸透されて行きました。ユダヤ教を離れてギリシア哲学、ギリシア思想に傾倒して行くユダヤ人も多く出て来ました。その状況をくい止めるために、 ユダヤ教の信仰を背景とするユダヤ文化のすばらしさを伝えようとして書かれたのが「知恵文学」であり、この「シラ書」です。

 

本日の朗読箇所の「謙虚」というテーマに関連するのは次の箇所です。

「御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。

謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、

それが主に届くまで、彼は慰めを得ない(20―21 節)」

「雲」は「出エジプト記」におけるシナイ山での神の顕現に際して「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む(19:9)」とあるように、神の栄光が地上に顕現するに当たってのしるしです。「出エジプト記」においては、モーセだけが その「雲」の中に入って行き、神と「顔と顔とを合わせる」ようにして語り合う ことができました。

「シラ書」では「謙虚な人の祈り」が「雲を突き抜けて行き」、その「祈り」は 「主に届く」のです。つまり「謙虚な人」は「祈り」を通して、神と語り合うことができるのです。

神の前における「謙虚な人」とは、どのような人であるのか。それを本日の福音でイエスがたとえを用いて語られています。

 

福音朗読「ルカによる福音 18 章 9―14 節」

まず、このたとえは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している 人々(9 節)」をいましめるために語られています。福音書の他の箇所における、 このような「人々」の多くはファリサイ派もしくは律法学者を対象としています。

けれども、本日の「聖書と典礼」5 頁の注 9 に指摘されていますように、前 後の文脈から考えてみて、この箇所の「人々」は「イエスの弟子たち」なのです。

ただ、だからといって、このたとえはペトロやヨハネに向けて語られていると いうように、自分には関係のない「他人事」として読んではいけません。「私たち自身に向けて語られている」と考えて読むべきなのです。

福音書はイエスの時代の「弟子たち」に向けて語られているのではなく、「福音書の書かれた時代」の「イエスの弟子たち」に向けて語られているからです。 そして福音書は「生きたことば」であるので、「私たちの時代」である「現在」に向けても語られているのです。「現代」における、キリストの洗礼を受けて「イ エスの弟子」となった「私たち」に向けても語られているのです。何よりもまず、 私たち自身が「「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」で あることを認めて、イエスが今、私たちをいましめておられると思い描いて、こ のたとえ話に耳を傾けて行きましょう。

 

ミサの聖書朗読で用いられている新共同訳では「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」と翻訳されていますが、雨宮神父様によれば、 原文のギリシア語を直訳すると「自分自身に頼って」となるそうです。それに従って読み直すならば「自分は正しい人間だと自分自身に頼って、他人を見下している人々」になります。

「うぬぼれる」は「自分を過大評価する」ことであると思いますが、そうであるならば、このファリサイ派の人は確かに自分を過大評価してはいません。自分が実際に行っていること(「 週に二度断食(12 節)」「全収入の十分の一を献げて(同 節)」など)の事実に基づいて自分を評価しているからです。

問題はそのように正しい評価であっても、それによって「自分自身に頼っている」姿勢なのです。自分を優れた「完全」なものとして、他者の助け、何よりも 「神の助け」を全く必要としない生き方です。このファリサイ派の人は神の前で一方的に自己を誇示しているに過ぎないのです。彼にとって「祈り」とは「自己 顕示」「自己正当化」の場であり、「正しい自己」を神に対して誇っているだけです。それは一方的な自己主張であり、神との「対話」になってはいないのです。

 

対して徴税人は「胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』(13 節)」。徴税人にとって自己は罪深い、どうしようもない存在であり、 ただ神に寄りすがって、憐れみを受ける以外に生きて行く術はない、と思っているのです。自分自身ではなく、全面的に神を頼って生きているのです。それは己の全てを神の前に開いている、さらけ出している姿です。神に向かって必死に手を差しのべている姿です。その姿に応えて、神は憐みの御手を差し伸べられます。 しっかりと徴税人の手を取って、握りしめるのです。そこに神と人との応答、「交わり」が生じるのです。

 

ファリサイ派の人は自分を「閉じて」います。開いていません。「正しい自分」で満たされ、神に憐れみを求めようとはしません。このような人には、神の御手が入る余地がありません。そのため、神と人との「交わり」も生まれません。フ ァリサイ派の人は、神の憐みに触れる体験ができません。そのために神の愛の 喜びを体験することができないのです。

また、隣人との交わりも困難でしょう。「神様、わたしはほかの人たちのよう に・・(罪を)犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない(11 節)」と いうように、隣人を見下しています。このような人が隣人を愛することは困難でしょう。ファリサイ派の人のような「自分自身を頼る」人が愛することができる 相手は「自分」だけなのです。ある意味、ファリサイ派の人が義とされなかった のは「交わり」を生きていなかったからであると言えるかも知れません。

 

第二朗読「使徒パウロのテモテへの手紙二 4 章 6―8、16―18 節」

本日の朗読箇所の前半部分だけを読むと、パウロは「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし(7 節)」というように、自らを誇り、「自分自身を頼って」いるかのように思えます。その結果として「義の栄冠を受けるばかりです(8節)」と他の人びとから抜きんでた存在であるかのように、己を誇示しているようにも見えます。

 

けれどもパウロは「しかし(同節)」として、「(義の栄冠は)わたしだけでなく、 主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます(同 節)」と、これまでの文意を引っくり返すようにして、新たに語り出します。 自分の働きではなく、「主が来られるのをひたすら待ち望む人」すなわち「ひたすら主により頼む人」には誰にでも「義の栄冠」は与えられると言うのです。 自分の力によって、すなわち「自分自身に頼る」のではなく、「ただ主に頼る」 ことによって「義の栄冠を受ける」すなわち「義とされる」というように、本日の福音のイエスが言われたのと同じことを、パウロも言っているのです。

自分だけではない、「主により頼む人びと」と共に「義の栄冠」を受けると言 うことによって、自分を特別視し、他の人びとを見下すのではない、キリスト者 の共同体と共に生き、共に救われる、というパウロの共同体意識、「交わり」を生きている姿を見ることができると思います。

 

結局、「神の前に謙虚な人」は、「自分」ではなく、「神と人との交わりを生きている人」であると言えると思います。

 

ちなみに「謙虚」の「謙」の訓読みは「へりくだ(る)」です。「虚」は「むな (しい)」で、「むなしい」は「空っぽ」という意味があり、「空しい」とも書かれます。「神の前の謙虚」は神の前にへりくだって、自分を空っぽにすることであると言えます。「自分を空っぽ」にするというのは、イエスが十字架を通して、 自分の全てを神と人とに与え尽くした姿に通じると思います。