2025年9月28日 年間第26主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

本日のみことばである第一朗読、第二朗読、福音朗読に共通するテーマは先週の「神と富とに仕えることはできない」と同様に、「地上の富」の問題に関わっています。

 

第一朗読「アモスの預言6章1a、4―7節」

第一朗読は先週と同様に「アモスの預言」が選ばれています。紀元前8世紀、アモスの活動した北イスラエル王国は、アッシリア帝国の弱体化に乗じて、領土を広げ、ソロモン王の時代に匹敵するような繁栄を享受していました。けれども、古代の封建的な社会にあっては、その富は上流階級や富裕層のみに集中し、国民の大多数を占めていた貧しい人びとに流れて行くことはありませんでした。そのため、豊かな者と貧しい人びととの間の格差は、それまで以上に大きく広がってしまったのです。

先週では富を得た商人たちがさらに大きな富を求めて、貧しい人びとを踏みつけ、搾取する「富に仕える者」となった姿が描き出されていました。今週は王や貴族たちの上流階級の人びとの「富に仕える姿」が生々しく描き出されています。北イスラエル王国の首都であったサマリアの宮殿に暮らす王をはじめとする貴族たちは「象牙の寝台に横たわり(4節)」「宴を開き(同節)」「歌に興じ(5節)」「大杯でぶどう酒を飲み(6節)」というように毎夜、ぜいたくの限りを尽くして「富」を楽しみます。

けれども「ヨセフの破滅に心を痛めることがない(同節)」のです。「ヨセフ」は北イスラエルの中心部族の先祖の名であり、北イスラエルの国またその社会全体を象徴します。そして新共同訳において「破滅」と訳されているヘブライ語の原語は、直訳すると「骨折」です。神はアモスの口を通して、北イスラエルの社会は「骨折」していると言われているのです。社会が、豊かな者と貧しい人びととの間の格差の広がりによって「ふたつに折れてしまっている」「断絶している」と言っておられるのです。それなのに、豊かな者たちはそのような社会の分断に、貧しい人びとの苦しみに「心を痛める」ことなく、平然としてぜいたくに溺れて、富を自分たちの娯楽のためにだけ使います。このような「富に仕える者」の姿が、本日の福音朗読の「金持ち」の姿につながっています。

北イスラエル王国は、やがて再び強大になったアッシリア帝国に滅ぼされます。サマリアは破壊され、王や貴族といった上流階級、また商人ら富裕層の人びとは「捕囚」としてアッシリアの国々に連れ去られて行きます。そしてアッシリアの土地において完全に「埋没」してしまい、その血統は絶たれてしまいます。

「今や彼らは捕囚の列の先頭を行き(7節)」という預言は成就し、彼らの子孫たちが故郷の地に戻ることは二度とありませんでした。

福音朗読の「金持ち」と同様に、彼らは「陰府」に落ちたのです。

 

第二朗読「使徒パウロのテモテへの手紙一6章11―16節」

本日の朗読箇所だけを読むと、「富」の問題との関連性を見い出すことはできません。実は、冒頭の11節には省略されている箇所があって、それが「富」の問題に直結しているのです。省略箇所を補うと、次のようになります。

「(しかし、)神の人よ、あなたは(これらのことを避けなさい。)、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」

(「)の中が省略された箇所です。「これらのこと」とは直前の6章3節から10節において、ふたつのことが明確に示されています。

ひとつは「異なる教え(3節)」、すなわち「異端」です。そしてもうひとつが「金銭の欲(10節)」なのです。

「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます(同節)」

パウロは「金銭の欲」こそが「悪の根」すなわち「悪の根源」である、とまで言っているのです。「金銭を追い求める者」が「富に仕える者」であり、その者は「信仰から迷い出て」「苦しみに突き刺される」ことになるのです。

この文脈で本日の朗読箇所を読むならば、パウロは「金銭を追い求める者」ではなく「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める者」になりなさいと言っているのであって、そのような者こそが「神に仕える者」なのです。

この流れの中で、続く12節の「信仰の戦い」の第一の「敵」も「金銭の欲」であると考えていいと思います。まず何よりも「金銭の欲」に打ち勝つことによって、「永遠の命を手に入れ(12節)」ることができるとパウロは力説していると思えるのです。そのことは、パウロの言葉が次のイエスの言葉と共鳴していることによってもわかります。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」――――マルコによる福音8章36節

「全世界」とは、この世的な価値、「地上の富」を指していると思います。「財産」「地位」「名誉」などです。「地上の富」を追い求めた結果「信仰から迷い出て」「永遠の命」を失ってしまったら、生きて来た意味、神から「命」を頂いた意味がどこにあるのか、とイエスは言っておられると思います。

 

福音朗読「ルカによる福音16章19―31節」

本日の福音はある意味、「恐ろしい話」であると思えます。

まず、地獄に落ちたこの金持ちは神に向かって、このように訴えるのではないでしょうか。

「神よ、私がどのような罪を犯したというのですか。私は人から盗み取った金ではなく、自分の金でぜいたくをしていたのです。また、ラザロに対しても、私は追い出したり、いじめたりもしていません。何もしなかったのです。」

けれども、金持ちの最大の罪はまさにこの「「何もしなかった」ことにあるのです。目の前に苦しんでいるラザロの姿を見ながら「「何もしない」で、あたかもそこにラザロが存在しないかのように、平然とぜいたくに暮らしていたことが「罪」なのです。それは第一朗読において「ヨセフの破滅に心を痛めることがない」と同じ「罪」であり、いわゆる「無関心の罪」なのです。

マザー・テレサが「愛の反対は『憎しみ』ではありません。『無関心』です」と言っています。「憎しみ」は負の感情であるにはせよ、少なくとも相手の存在を意識し、「関心」を持っていると言えます。けれども「無関心」は相手の存在を完全に自分の中から消去してしまっています。だからこそ「痛まない」のです。

目の前に飢えた人がいても、平気で「食べる」ことができるのです。

「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって(26節)」という「淵」とは、「愛」に生きる人びとと「無関心」に生きる人びとの間に広がっている「断絶」であると思えます。乗り越えられない「壁」と言ってもいいと思えます。

だとしたら、私たちはどちらの側にいるのでしょうか。初めに「恐ろしい」と言ったのは、このことです。

情報社会に生きる私たちは、ネットなどの媒介を通じて、簡単に世界中の情勢をまさに「目の前に見る」ように見て取ることができます。現在の世界情勢であれば、パレスチナのガザにおける凄惨な状況、やせ細った子どもたちの姿、子どもを失って泣き叫ぶ母親の姿を見ることができます。それらの「目の前で苦しむ人びとの姿」を目にしながら、私たちが平然と日々の生活を送ることができるならば、私たちも知らず知らずのうちに「無関心の罪」に陥ってしまうのではないでしょうか。それは「愛」の根源である神の世界ではなく、超えられない「淵」によって隔てられた反対側の世界にいることになってしまうのです。それが「陰府」「地獄」に落ちることではないでしょうか。

私たちキリスト教徒は、誰もが神の愛の輝きに満ちた世界の中で生きていたいと望んでいます。それは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者(マタイ25:40)」を真ん中にして、キリストの愛に包まれて生きる世界です。助け合い、支え合い、いつもお互いのことを思い合いながら生きる世界です。これこそが「天国」なのです。

苦しむ人びとのために私たちができることは限られているかも知れません。ただ、まず「関心」を持つことから始まると思います。苦しむ人びとの姿に「心を痛める」こと、その「痛み」と向き合うことから逃げないでいることだと思います。そのような姿勢をもって生きていれば、きっと、神が何らかの「道」を示してくださるに違いないと思えるのです。

「この世の富」は、そのような「苦しむ人びと」から、私たちの目を覆い隠してしまう「麻薬」のようなものであるのではないでしょうか。その「麻薬」による刺激、陶酔が「苦しむ人びとを思う痛み」を麻痺させて行くのではないでしょうか。

先週のイエスのことば、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない(ルカ16:13)」をあらためて、心にとめて、思いめぐらしてみたいと思います。