2025年9月21日 年間第25主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

*21日の9時半のミサは「子どもとともに捧げるミサ」を行いました。今回の「説教の要約」は、当日の7時のミサの説教の要約です。

本日のみことばである第一朗読、第二朗読、福音朗読に共通するテーマは、本

日の福音の結びである「神と富とに仕えることはできない」です。

 

第一朗読「アモスの預言8章4―7節」

本日のアモスの預言では「富に仕える者」の姿が描かれています

預言者アモスは紀元前8世紀、北イスラエル王国で活動しました。当時の情勢はアッシリア帝国が弱体化したことによって、北イスラエルはアッシリアの圧力から解放され、それに乗じて領土を拡大させることに成功したことによって、かつてない繁栄を享受しました。ただ、当時の社会構造にあっては、富は一部の特権階級に集中し、貧しい人びととの間に格差が広がりました。

そして莫大な富を得た者はより多くの富を求めると言う、いわば「富への依存状態」に陥ります。その結果、果てしもない利潤追求へと飢えた獣のようになり、貧しい人びとまでも喰らい尽くそうとするようになります。そのあさましい姿が「アモスの預言」にはなまなましく描かれています。

「升を小さく(5節)」「分銅は重く(同節)」し、「偽りの天秤を使って(同節)」売りつける麦の量をごまかそうとします。さらに本来は売り物にならない「くず麦(6節)」を売りつけようとします。そしてついには「弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう(同節)」と同胞を奴隷として売買するまでの悪に堕ちて行ってしまうのです。全ては「富」への執着から始まっています。

「富に仕える者」は良心を捨て、悪を増大させ続けることによって、神から遠く離れて行ってしまうのです。

「わたしたちとお前たちとの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない(ルカによる福音16章26節『金持ちとラザロ』)」

「富に仕える者」たちは、神と決定的に乖離する状態になってしまうのです。

ただ、この世的には「富に仕える者」たちは成功し、権力を有し、「幸い」であるかのように見えます。ただ、神はアモスの口を通して、次のように「誓われ(7節)」ます。

「わたしは、彼らが行ったすべてのことを いつまでも忘れない(同節)」

 

第二朗読「使徒パウロのテモテへの手紙一2章1―8節」

第一朗読が「富に仕える者」を描いていたのに対して、第二朗読では「神に仕える者」の姿が描かれます。

それは「神に仕える者」が、いつも「平穏で落ち着いた生活」を送っている姿です。その生活は「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげ(1節)」ることが土台になっています。「すべての人々」ですから、そこには当時、パウロらキリスト者を迫害していた「王たち(ローマ皇帝も含まれます)」と「高官たち(ローマ帝国の大臣らなど)」も含まれます。

これはけっして皇帝や大臣たちの「機嫌を取って、へつらいなさい」という処世術的な意味合いのものではありません。これはイエスの教えに基づいているのです。

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」―――マタイによる福音5章44節(「山上の説教」の一節)

パウロも「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます(4節)」と教えています。「神に仕える者」はこの神の望み、イエスの教えに従って「王たちやすべての高官」のためにも祈るのです。

その祈りはすべての人を神の愛のうちに包みこみ、祈る人の心の中から「敵」という存在を消し去ります。そのために「敵」に対する感情である怒りや憎しみも消え去るのです。「怒り」や「憎しみ」は人の心の平穏を乱し、憤怒の炎で苦しめます。すべての人のために祈ることによって、神がその炎を消し去ってくださいます。それによって「平穏で落ち着いた生活」がもたらされるのです。

「神に仕える者」は「利潤追求」ではなく「神の望み、思いを行うこと」を求めて生きます。そのような人を、神はご自分の深い愛の中に包みこんでくださり、「平穏で落ち着いた生活」がもたらされるのです。

 

福音朗読「ルカによる福音16章1―13節」

本日のたとえ話は、私たちを当惑させます。

「主人は、不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた(8節)」「不正にまみれた富で友達を作りなさい(9節)」「不正にまみれた富に忠実でなければ(11節)」

これではまるで、「不正なやり方」を用い、「不正にまみれた富」を活用することを、イエスが奨励しているかのように聞こえます。

イエスの真意はどこにあったのか、さまざまな解釈があり、正直、私も「これだ」と確信できるような解釈に出会っていません。本日はひとつの解釈を用いながら、私なりの考えを皆さんと分かち合いたいと思います。

その解釈では、管理人は「不正」を働いてはいないとされます。その根拠は以下の律法の教えに基づいています。

「同法には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない(申命記23章20節)」

律法では同胞であるユダヤ人に利子を付けて金を貸すことを、いかなる場合であれ禁じているのです(外国人には適用されません)。ただ、これでは商売そのものが成り立ちません。そのため実際には、利子分を上乗せした金額を貸付金とした証文を作成し、利子を隠し取ることが暗黙の了解として行われていたようです。管理人はこの「上乗せ分」を差し引いて、証文を書き直しさせたと考えるのです。

この解釈に立てば、主人は管理人を表立って叱ることはできません。管理人は律法に従った「正しい」方法で、証文を書き直させたからです。主人は公的には「私がうっかりして、間違った金額を書いてしまいました」としか言えず、管理人を「よく気がついて訂正してくれた」と「ほめる」ことしかできないからです。

この解釈に従って、イエスのメッセージを読み解くならば、管理人は主人を律法に従った「正しい道」に引き戻したことになります。この主人は、最初はどこか良心の痛みを感じながら行っていた「不正」を繰り返すうちに、次第に良心が鈍って行き、痛みを感じなくなっていたのかも知れません。この状態がエスカレートすると、第一朗読で描かれていた「富に仕える者」となり、さらなる悪に染まって行って、神から乖離して行くことになったかも知れません。

そのような状態に堕ちつつあった主人を、管理人が神のもとへと「引き戻した」と言えるのではないでしょうか。管理人は「富に仕える者」から「神に仕える者」へと立ち帰ったのです。それはまた、主人が「神の友達」に立ち帰ったということだと思います。そうであるならば、管理人は「神の友達」を「作った」と言えるのではないでしょうか。

私は「ひとりでも多くの神の友を作りなさい」ということが、このたとえ話のメッセージではないかと思えるのです。もちろん、そのためにはまず、自分自身が「神の友」とならねばなりません。

「不正にまみれた富」についてですが、この言葉に私たちが疑問を抱いてしまうのは、実は私たちが「不正にまみれていない富」「正しい富」があると思っているからなのです。ですから「不正にまみれた富」ではなく「正しい富」を活用するようにすべきではないかと反論したくなってしまうのです。

けれども、神の前にあっては「正しい富」はあり得ないのです。「この世の富」のすべては「不正にまみれた富」なのです。ただ、これに対しても納得できない人は多くいることでしょう。「私は不正な方法で富を得てはいない」と。

けれども、この「不正」は社会構造の中に組み込まれているものなのです。

たとえば、「日本」で豊かな生活を送っている人びとは個人の能力だけではなく、「日本」という豊かな国の「富」を基礎として、豊かな生活を送ることがで

きているのです。その日本の「豊かさ」は貧しい第三世界の国々の上に成り立っているのです。豊かな国により多くの資源、財力が流れ込むような経済構造が社会構造の上に組み込まれているからです。「富の公正な分配」ではなく、豊かな国はより豊かに、貧しい国は努力しても豊かにはなりにくい構造です。

それは日本国内においても言えます。格差が固定化しつつある状況です。貧困の連鎖と言われています。豊かな家庭と貧困家庭に生まれた子どもたちの間には経済的格差によって、「教育を受ける権利」が明らかに「公平である」とは言えない状況にあります。貧困家庭の子どもたちは、個人の努力では乗り越えられない経済的な壁に遮られているのです。

これらの状況は「富の公正な分配」が社会構造的に行われていないからです。ですからそのような社会構造におけるすべての「富」は「不正にまみれた富」であると言えるのではないのでしょうか。

イエスが、そのような「この世の富」に「忠実」でありなさいと言われるのは、それをどのように「用いる」のかが問われる、ということだと思えます。

それは結局は、「独占」するのか「分かち合う」のか、ということではないのかな、と私には思えます。

最終的にイエスは「富」への「執着」をきびしく禁じます。

「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない(13節)」

けれども、私たちは「富」に弱いのです。だからこそ、イエスはこのようにも言われています。

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」―――マルコによる福音10章23節

私たちにとって、生きて行くために必要以上の「富」を持たないことが、「富」への対応策として一番いい方法であるのかも知れません。