カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「知恵の書9章13―18節」
「知恵の書」は紀元前一世紀、エジプトのアレキサンドリアで書かれました。アレキサンドリアはプトレマイオス朝エジプトの首都で、地中海の海上貿易の拠点としても繁栄した大都市でした。そこには大きなディアスポラ(ユダヤ人の居住地)が形成されていて、中には海上貿易によって巨万の富を得る者もいました。多くのユダヤ人は社会的に成功するためにも、当地の社会のギリシア・ローマ文化とその生活習慣に積極的に順応して行こうとしていました。
その風潮の中で、ユダヤ人がユダヤ教から離れて行く現状を憂いて、「知恵の書」は書かれました。それは先週の第一朗読「シラ書」の成立事情と似通っています。「知恵の書」もギリシア語を日常語とするディアスポラのユダヤ人に読んでもらうために、ギリシア語で書かれました。また、ギリシア語の文献になじんでいる彼らのために、修辞的にもギリシア的な手法が取り入れられています。本日の箇所には「対句法」が使われています。形や意味が対応するように文節を対にして、言葉を書き換える方法です。
13節「神の計画を知りうる者」⇒「主の御旨を悟りうる者」
14節「死すべき人間の考えは浅はか」⇒「わたしたちの思いは不確か」
15節「朽ちるべき体は魂の重荷」⇒「地上の幕屋が、悩む心」
このようにして同じ意味を持つ言葉の言い換えを対にして並べています。
17節「あなたが知恵を お与えにならなかったなら」⇒「天の高みから聖なる霊を 遣わされなかったなら」
17節では「知恵」が「聖なる霊」として言い換えられています。それは「知恵」が「霊」という人格的な存在として考えられていることを意味しています。
他にも「知恵を愛する人には進んで自分を現わし、探す人には自分を示す(6:12)」というように「知恵の書」では「知恵」が一人の人格として表現されています。
このような表現から、新約の民、キリスト教徒の集いである教会の伝統では、この「知恵」を「キリスト」と解釈するようになりました。そのように読むならば、17節の「天」は「父と子と聖霊の神の座」であり、その聖性の「高み」から「子」が、父なる神によって「遣わされた」と読み取ることができます。
イエス・キリストこそが私たちに「神の知恵」を、その全存在を通して啓示してくださったのです。キリストは「神の知恵」が人格化した存在であるとも言えます。キリストによって「地に住む人間の道はまっすぐにされ(18節)」、「あなた(神)の望まれることを学ぶようになり(同節)」、そして私たちは「知恵(キリスト)によって救われたのです(18節)」。
福音朗読「ルカによる福音14章25―33節」
冒頭に「大勢の群衆が一緒について来た(25節)」と書かれていますが、イエスはどこに向かって歩んでいたのでしょうか。それはエルサレムに向かっての歩みでした。イエスがエルサレムに向かうのは、十字架に架けられるためでした。すなわち、イエスは「十字架」に向かって歩んでいたのです。
その「十字架」に向かう歩みの中で、イエスは「大勢の群衆」に振り向いて言われます。それは「十字架」を理解していない、むしろ「十字架」とは真逆のこの世的な栄光にイエスは向かっているとカン違いしている群衆に、はっきりと「十字架」を突きつけるためでした。
「わたしの弟子(26節)」になるためには「十字架を背負ってついて来る者(27節)」にならなければならないと、イエスは群衆に向かって要求されます。
そのためには「父、母、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」とまで断言されるのです。
ただ、本日の「聖書と典礼」の5頁の下の注釈にも書かれていますように「『憎む』はここでは、『より少なく愛する』という意味」であって「憎め」と言われているのではありません。イエスは「家族や自分の命よりも、わたしをより強く愛しなさい」と言われているのです。
しかも、そのイエスは「「十字架を背負うイエス」です。イエスのエルサレムへの歩みに一緒について来た人びとは、イエスがエルサレムで「王」の座につかれると考えてついて来ていたのです。だからこそ、イエスは「十字架を背負う」ためであることを明確に言われて、その「十字架」のイエスについて来る覚悟があるかどうかの選択を人びとに突きつけられたのです。その選択をするためには「まず腰をすえて(28節)」考える必要があります。それは「自分の持ち物を一切捨て(33節)」なければならないほどの決定的な選択であるからです。
この「自分の持ち物」の中に「父、母、子供、兄弟、姉妹」も含まれるのでしょうか。イエスは「家族」をも捨てるようにと言われているのでしょうか。
これを考えるために、本日の第二朗読「使徒パウロのフィレモンへの手紙9b―10、12―17節(この手紙は短いので章立てはされていません)」の中にこめられているメッセージに照らし合わせて、このイエスの言葉の意味を考える方法があります。ミサの朗読配分は、第一、第二朗読には福音朗読のメッセージと共鳴し合うような箇所が選択されているからです。
この手紙はコロサイの教会の信徒であったフィレモンに宛てて書かれた個人的な手紙です。フィレモンは裕福な人で、多くの奴隷も所有していました。この時代には奴隷制は公認されていて、当時の社会制度を維持していくためには必要不可欠な制度となっていました。そのフィレモンの奴隷であったオネシモが逃亡して、獄中にあったパウロのもとに来ていたのです。オネシモが逃亡したのは過酷な労働状況におかれていたなどの理由で、フィレモンのもとから逃げたかったからだとは考えにくいと言えます。なぜならば、当時の法律では逃亡奴隷を見つけた場合には主人のもとに送り返すことが義務づけられていましたから、フィレモンと親しいパウロのもとに逃げたところで送還されることになるのは目に見えていたからです。きっとオネシモは逃亡したかったのではなく、パウロに会いたかったのでしょう。パウロはかつてオネシモに洗礼を授けていました(「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ(10節)」)。オネシモにとってパウロは、自分をキリストの洗礼へと導いてくれた「心の師」のような存在であったのだと思えます。
そしてパウロがフィレモンに書いた手紙が、本日の第二朗読に選ばれており、そこに書かれているパウロのフィレモンへのメッセージが、今日の福音のイエスの言葉と響き合っていると思えるのです。
パウロは「彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったのかも知れません(15節)」とフィレモンに語りかけます。ここでパウロは、フィレモンからオネシモを一時的に引き離したのは、実は「「神」であったのだと暗示しているのです。フィレモンがオネシモをいつまでも自分のもとに置くために、神がそのようになさったのであって、オネシモが逃亡したのは神の「ご計画」であったとパウロは言いたいのです。それはまた、オネシモに「責任」はないので、許してやってほしいという願いでもありました。
そしてパウロは、オネシモが戻ったら「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として(16節)」迎え入れなさいと、ほとんどフィレモンに命じるかのように語りかけます。それは、「一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはず(同節)」だからです。
ここでパウロは、キリスト者は誰かに対して「主人と奴隷」という関係を持つことは許されない、キリスト者は誰に対してであっても「愛する兄弟」という関係を持つべきであると言っているのです。パウロはけっして「奴隷制」そのものを否定してはいません。ただ、一般の「市民」ではなく「キリスト者」となった以上は「奴隷制」に従って生きてはならないと言っているのです。
「主人と奴隷」という関係は当時にあって、この世的には「「正しい関係」でしたが、キリストを生きる者にとっては「間違った関係」になるのです。ですから、神がオネシモをフィレモンから引き離したのは、「愛する兄弟」というキリスト者にとっての「正しい関係」に引き戻すためであったのだということが、パウロがフィレモンに伝えたかったことだと思います。
ただ、パウロはそれを高圧的に、命令するような口調で語ってはいません。「あなたの承諾なしには何もしたくありません(14節)」「オネシモをわたしと思って迎え入れてください(17節)」というように、「師と弟子」としての関係からではなく、やはり「愛する兄弟」としてフィレモンに訴えかけているのです。
おそらくフィレモンはこの手紙を読んで、パウロの兄弟愛、神のご計画のすばらしさを深く受けとめて、涙を流して感動したことでしょう。だからこそ、この個人宛ての手紙が全教会の共有財産として、現在に至るまで「神のことば」として大切に伝承されて来たのだと思えます。
このそれまでの地上的な「「間違った関係」を捨ててキリスト者としての「正しい関係」に戻すことが、イエスの言われる「家族を憎む、捨てる」ということだったのではないでしょうか。
私たちは家族との関係において、人間的な情愛を絆とした関係を生きているのではないでしょうか。また、自己を中心とした関係を築こうとしがちではないでしょうか。そしてイエスの時代の「家族」は「家父長制」の大家族でした。それは「父」が王のように家族を支配する封建的な制度で「主人と奴隷」の関係に近いようなものであったと言えると思います。
イエスはそのような人間的な、地上的な「家族の関係」を捨てて、キリスト者として「正しい関係」を作り直しなさい、と言われているのではないでしょうか。しかも「十字架を背負う者」としてのキリスト者、としてなのです。
私たちが隣人や、すべての命、また持ち物との関係を「十字架」という視点から見つめなおし、再構築することによって、十字架の道を行くキリストについて行く、キリストの弟子となることができるのではないでしょうか。
