カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日のみことば、第一朗読、第二朗読、福音朗読のテーマは「へりくだり」です。
第一朗読「シラ書3章17―18、20、28―29節」
「シラ書」は「シラの子、エルサレムに住むヨシュア」によって紀元前190年にヘブライ語で書かれ、ヨシュアの孫によってギリシア語に翻訳されました。「シラ書」が書かれた目的は、当時のユダヤ社会にヘレニズ文化が浸透し、多くのユダヤ人が人間的なギリシア・ローマ文化に影響されて行く状況において、ユダヤ教の唯一神を中心とした宗教の優れた価値を再認識してもらうためでした。
そのためには、エルサレムを中心としたパレスチナのユダヤ人よりもローマ帝国の中に散在するディアスポラ(ユダヤ人居住地)に住むユダヤ人にこそ読んでもらう必要がありました。彼らの多くがギリシア語を公用語としていましたので、ヨシュアの孫は祖父の思いをディアスポラのユダヤ人にも伝えるためにギリシア語に翻訳したわけです。ただ、ヘブライ語の原文は失われ、ギリシア語による翻訳文だけが現代に至るまで伝承されて来ました。
本日の箇所の18節には次のように書かれています。
「偉くなればなるほど、自らへりくだれ。」
この一節だけを取り上げるならば、人間関係を円滑にするための「処世訓」のような印象を受けます。けれども、「シラ書」における「へりくだり」は人間関係の中におけるものではありません。人間関係においては自分の社会的地位や身分に応じて「へりくだる相手」「へりくだる必要のない相手」というように選別をします。
「シラ書」はあくまでも神と人間の関係における「へりくだり」を説いていて、まず神の前に「へりくだる」のです。人間が神の前にへりくだるのは「主の威光は壮大(20節)」だからです。私たちは聖書を通して、また日々の出来事を通して、そして神の創られた大自然の威容を通して、「神の威光」の前に畏敬の念をもってへりくだります。それは同時に自分の小ささを実感することです。そして神の前において、全ての人間は皆、小さな存在であり、格差などのない平等な存在(全知全能の神の前にあっては人間が何を成そうとも『どんぐりの背くらべ』)であることに思い至るのです。私たちが「選択しないへりくだり」をできるようになるためには、まず神の前にへりくだることが必要になるのです。
第二朗読「ヘブライ人への手紙12章18―19、22―24a節」
本日の朗読箇所の前半では、第一朗読にあるように「主の威光」の壮大さの前にあっての「へりくだり」について語られます。
「燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人びとがこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声(18―19節)」、これらの「しるし」は「出エジプト記」におけるシナイ山での神の顕現に伴って現れたものです。
「雷鳴と稲妻と厚い雲が(シナイ)山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いた・・シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られた・・モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた(19章16―19節)」
すさまじい自然現象、雷鳴をもって語られる神の言葉の声、イスラエルの民は顔をあげることもできずに、恐れおののきつつ、神の前に「へりくだった」のです。これが「旧約」における、神の前での「へりくだり」でした。
けれども「新約」においては、このような神の威光の前での畏怖による「へりくだり」ではありません。本日の「ヘブライ人への手紙」の箇所においても、『「旧約」のシナイ山におけるような神の顕現のしるしを通して神に「近づいたのではありません(21節)」と断言されています。「新しい契約の仲介者イエス(24a節)」を通して、神に「近づいた」のです。
「新約」においては、イエスこそが神の顕現の「しるし」となってくださったのです。それは人びとが近づけないような、大自然の脅威ではなく、一人の人、しかも限りない慈しみをもって私たちを包みこんでくださり、対等の人間として対話し、交わりを持ってくださる「人」であったのです。その「人」に対して、私たちはもはや「畏れ」ではなく、その「愛」の前に、喜びと感謝のゆえに「へりくだる」ようになったのです。
「旧約」のシナイ山においてはモーセただ一人だけしか、神と「顔と顔とを合わせて語り合う」ことができませんでした。けれども「新約」の民である私たちはイエスを通して、誰もが神と「顔と顔とを合わせて語り合う」ことができるようになったのです。
神に感謝しましょう!
福音朗読「ルカによる福音14章1、7―14節」
本日の前半のイエスのたとえ話を読むたびに、私は違和感を持たないではいられません。それは「あなたは恥をかいて(9節)」「同席の人みんなの前で面目を施すことになる(10節)」という言葉によります。ここでは「恥をかく」のも「面目を施す」のも「人間」に対してなのです。このような表現はこのたとえ話にしか見られません。イエスはこのような「人間」に対しての関係における「恥」とか「面目」ではなく、絶えず「神」との関係における「恥」や「面目」を重視されていたからです。
「わたしは人からの誉れは受けない・・互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとはしないあなたたちには、どうして信じることができようか(ヨハネによる福音5章41、44節)」
イエスは人から受ける誉れも、面目も恥も一切気にすることなく、ただ神にどのように思われているかだけに心を向けられていたのです。ですから、ここだけが「人」からの「恥」や「面目」を気にしているようで「違和感」を覚えるのです。
私はこれは「ルカによる福音書」の福音記者がイエスのこのたとえ話を編集する際に、自分の解釈によって付け加えた言葉ではないかと考えています。
本来のこのたとえ話は「人前で恥をかく、面目を施す」というような「処世術」ではなく、「神の国」に関するたとえ話であったと思えます。そのように思える根拠は冒頭の「婚宴に招待されたら(8節)」にあります。
「婚宴」はイエスのたとえ話においては、世の終わりにおける『「神の国での宴」を意味しています。ですからここでも、この「婚宴」は人間が催した「宴」ではなく、神が催した「神の国」での「宴」であると考えられます。そう考えるならば、招待してくださるのは「神」です。そして招かれているのは私たち一人ひとりです。私たちは本来は神の国の宴に招かれるような資格のない、罪にまみれた、弱い人間です。けれども神はあの放蕩息子のために「宴」を催されたように、父の愛によって、私たち一人ひとりを招いてくださるのです。その人間的常識を超えた神の愛の前に「へりくだった」結果として、自ら「末席に行って(10節)」座るのです。けれども、神はそのような私たちを自ら手を取ってくださって「上席(同節)」へと連れて行ってくださるのです。「上席」とはこの世的な「高い地位」などではありません。神のみもと、神の胸に抱かれる「場」です。ですから「面目を施す」ではなく、「神の愛に包まれる」ことになるのです。このような無条件の神の招き、神の愛をこのたとえ話は本来、語りたかったのではないでしょうか。
そうして「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる(11節)」という言葉で締めくくられます。この新共同訳による翻訳は、雨宮神父様によれば、直訳すると次のようになるそうです。
「自分自身を高くする者はだれでも神が低くされるだろうし、自分自身を低くする者は神が高くされるだろう。」
私たちを『「低くする」のも「高くする」のも神なのです。私たちはただ「へりくだる」だけなのです。
「自分自身を高くする者」とは、「自分は自分の力によって生きている」と考えている人のことでしょう。そのような人は自分の才能や知識を誇って、自分を「高く」し、才能や知識のない人を見下します。このような人は神の前で「へりくだる」ことはできません。
対して「自分自身を低くする者」とは「自分は神によって生かされている」と考えている人のことでしょう。このような人は、自分の持っている才能も知識もすべて、神が与えてくださったものとして、誇ることがありません。ですから、他人をその能力によって判断することもありません。このような人が神の前に「へりくだる」ことができます。
神の前にへりくだる人が「高くされる」というのは、このたとえ話の本来の趣旨からすると、「父と子と聖霊の神の愛の交わりへと招かれる」ということであると思われます。
その「神の愛の交わりへの招き」こそが本日の朗読箇所の結びである「報われる(14節)」こと、まことの「幸い(同節)」であると思います。
