カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日のみことば、第一朗読、第二朗読、福音朗読に共通するテーマは「むなしい生き方」です。けっして「むなしい人生」ではありません。「人生」は神が私たち一人ひとりに固有のものとして与えてくださった、最大の「たまもの」であり「恵み」で、尊いものです。
その「人生」がむなしくなるか、豊かになるかは、私たちの「生き方」にかかっているのです。
第一朗読「コヘレトの言葉1章2節、2章21―3節」
本日の「「コヘレトの言葉」の冒頭は、新共同訳の翻訳では「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい(1章2節)」で始まります。他には「空の空、一切は空である」という、仏教の経典のような翻訳もあります。いずれにしても旧約聖書にあって、このような悲観的厭世的な言葉はめずらしく、読む者をとまどわせずにはおきません。
ではコヘレトは何を「空しい」と言うのでしょうか、それは2章21節に明記されています。「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果」です。この言葉は次のように言い換えれば、ここにこめられた思いがもっとよくわかるでしょう。
「私の知恵と私の知識と私の才能を尽くして労苦した結果」
ここには「私」の知恵や知識、才能といったように「私」の力だけで生きようとする「生き方」があります。そのような「生き方」では「私」だけで満たされていて、「神」の入る余地がない「人生」になってしまうのです。このような「神」が不在の「人生」を、コヘレトは「空しい」と言っているのです。
このことは「コヘレトの言葉」の最後の結論において、明確に示されています。
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』
これこそ、人間のすべて(10章13節)」
コヘレトは神を中心にして、絶えず神と共に、神の思いを求めて、神の力によって生きる「生き方」によってこそ、「人間」本来のまことの「人生」を生きることができると、この書を通じて訴えたかったのです。
背景にはこの書が書かれた紀元前三世紀ごろ、ユダヤ社会にヘレニズム文化が浸透してきて、ユダヤ人がユダヤ教の教えから離れて、ギリシア的な哲学や学問に向かう傾向への危機感があったと考えられます。
第二朗読「使徒パウロのコロサイの教会への手紙3章1―5、9―11節」
ここでは、二つの生き方が対比されています。
ひとつは「上にあるもの(1節)」を求める生き方であり、もうひとつは「地上のもの(2節)」を求めて生きる生き方です。
前者の「上」とは「天」を指しています。「天」は空間的な「空」ではなく、「父と子と聖霊の神の座」です。だからこそ、「そこ(天)では、キリストが神の右の座に着いておられます(1節)」と「三位一体の神の座」における「神の子の座」が指し示されているのです。
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです(3節)」というのは、私たちが洗礼の秘跡を受けたことによって、私たちの命はもうすでに三位一体の神の座につながっていることが言われているのです。洗礼の秘跡を通して私たちは古い自分に死にました。そしてキリストの復活に与かって、「神の子」の命に生まれ変わったのです。同時に私たちの中に聖霊が降り、聖霊を通して目には見えなくとも、私たちの命は三位一体の神の座である「天」につながっているのです。私たちは「地上」を生きながらも、もうすでに「天」を生きているのです。
だからこそ、このような大きな恵みを受けて「天」を生きている私たちが「地上的なもの(5節)」を求めて生きることは、その恵みに反し、無にすることになってしまうのです。「地上的なもの」は人を果てしない「貪欲」の地獄へと堕として行きます。
パウロは「貪欲」を「偶像崇拝」であると断言します。現代においてそれは「金」に対する「貪欲」につながっています。「金」こそがこの世界における絶対的な価値として、それを追い求める現代人の姿は、まさに「金」を「神」として礼拝する「偶像崇拝者」のあさましい姿です。また人によっては「地位」や「名誉」を、「モノ」を、また「人」を己の「神」として崇拝し、必死になって追い求めています。まことの「神」以外のものを神として追い求め、執着する、このような生き方は、まことに「空しい人生」をもたらすだけなのです。
キリストの洗礼を受けて新しくされた私たちは、キリストと共に、聖霊に導かれながら、「天」におられる父なる神の思いに生きる生き方こそが、まことの幸いに至る道なのです。
福音朗読「ルカによる福音12章13―21節」
ここでイエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい(15節)」と明確に「貪欲」に対して、私たちに注意を促しています。「貪欲」に捕らわれる人間の愚かさを教えるために、イエスはたとえを話されます。
ある金持ちの畑が豊作になり、その実りをどこにしまっておこうかと思い巡らします。17節から18節までの金持ちの独白は、新共同訳による翻訳では、ギリシア語原文では書かれているひとつの言葉が省略されています。それは「私の」という言葉で、それを補って本文を書き出してみます。
「金持ちは『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や財産をみなしまい・・・』」
新共同訳では「私の」を訳出することによって、文章がくどくなってしまうことを恐れて省略されたと思えますが、実はこの「くどさ」こそが金持ちの貪欲をよく表しているのです。「私の作物」「私の倉」「私の穀物や財産」というように、全てを「私」だけのものにしようとして、この世界を全て「私」という狭い世界の中に閉じ込めようとするような、異常な貪欲です。
この金持ちはただただ、「私」のため、自分のためにだけ生きているのです。
神がこの金持ちに向かって「愚かな者よ(20節)」と言われるのは、金持ちが「自分のために富を積んで(21節)」いるからです。
神から与えられた人生を自分ひとりのためにしか使えない、何という「空しい」生き方でしょう。そこにはキリストが自らの生き方によって示されたような、出会う人びと、共に生きる人びとと絶えず喜びも悲しみの分かち合って生きる、それによって広がる交わりの喜びが全くありません。この交わりの喜びにこそ、人間のまことの幸いがあるのです。その喜びを知ることもなく、ただただ自分のためにだけ富を積むことにあくせくし、そしてそれを独り占めするために必死になっている、私も思わず叫びたくなります。「何という空しさ!」
そこには神も隣人も入る余地がまったく、ありません。金持ちは自分が「富」を「所有」していると思っていますが、実は金持ちが「富」によって所有され、その中でがんじがらめにされているのです。それは「空しい」を越えた貪欲の「「地獄」と言ってもいいでしょう。
「私の」ではなく「みんなの」として、自分の富を分かち合って生きて行く、確かに地上的には分かち合うことによって富は減って行くでしょう。でも、天においては分かち合うことによって、ますます豊かに、また「幸い」になって行くのです。
この地上で手にした富や地位や名誉は、どんなに莫大なものであっても、死ねば、すべては失われます。ほんのわずかでも「天」に持って行くことはできません。けれども生きている間に多くの人と交わり、分かち合って生きた喜びというまことの「富」は「虫が食うことも、さび付くこともなく(マタイ6:20)」、その人を「神の前に豊か(21節)」な者にするのです。
「天」は本質的に「交わり」です。父と子と聖霊の「愛の交わり」です。「天」を求めて生きるということは、神と人との交わりを生きることです。その「交わり」が私たちの人生を豊かなものにするのです。
