カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日のみことばである第一朗読、第二朗読、福音朗読に共通するテーマは「祈り」です。
第一朗読「創世記18章20―32節」
第一朗読においては「祈り」が「神との対話」であることが示されています。旧約、新約ともに聖書に共通しているのは、絶えず「神と人間との対話」があることです。古代の宗教において、その聖典もしくは神話において、このような「神と人との対話」が記述されているのは、ユダヤ教そしてキリスト教の聖典である「聖書」だけです。他の宗教においては「教典」として一方的に神の教えが書かれているか、「神話」では神々の営みが書かれているだけなのです。
「対話」はお互いが自分を相手に「開く」ことによって成立します。それは相手の思いを受け止めて、尊重することです。自分の思いだけを一方的に相手に押しつけるだけで、相手の意見を聞こうとしないのであれば「対話」は成立しません。時には相手の考えに従って、自分の考えを変えることをも可能にするのが「対話」であり、自分を相手に「開く(ある意味、それは『明け渡す』)」ことなのです。
神はまさに人間に対してご自分を開いてくださって、私たちの思いに耳を傾けてくださるのです。そして「出エジプト記」にあるように、モーセの訴えによって、ご自分の考えを変えてくださったりもするのです(出エジプト記32章7―14節『主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された』など)。
このように神が絶えずご自分を私たちに開いてくださることによって、私たちにとっての「祈り」は一方的なものではなく、「神との対話」になるのです。
本日の第一朗読はまさにそうで、アブラハムの神への「祈り」が同時に神との「対話」になっています。アブラハムの祈りは「どうか、ソドムの町を滅ぼさないでください」という訴えでした。一読するとアブラハムは「正しい者」の救いだけを求めているように思えますが、アブラハムは「正しい者」の存在によって「町をお赦しにはならないのですか(24節)」というように「町」の救いを願っているのです。もし「正しい人」だけであれば、「正しい人だけは救い出してください」と願うことでしょう。
そのためにアブラハムは赦しの条件のハードルを下げようとして「五十人、四十五人、四十人、三十人・・」と徐々に、神に遠慮しながら減らしていきます。いきなり多くの人数を減らしてしまっては神の怒りを招いてしまいかねないからです。このアブラハムの「悪の町」ソドムを赦してもらうための必死の努力、「祈り」には心を打たれずにはいられません。私たちは「悪」と思われる人びとのために、ここまで懸命に必死になって「祈る」ことが、神に「訴える」ことができるでしょうか。
アブラハムは「十人」で止めていますが、きっと本心では「一人」まで下げたかったことでしょう。ただ、そこまで言ってしまうと、自分の考えを強要して、神の決定権を冒してしまうことになるのを畏れて「十人」で留まったのでしょう。
けれども、もしアブラハムが「一人しかいないかもしれません」と言っていたら、きっと神は「その一人のためにわたしは滅ぼさない」と言われたと思います。
そう思える根拠は、イエス・キリストというただ「一人」の人の存在があるからです。神がご自分の独り子を「人間」にしてくださり、復活させてくださったことによって世の終わりまで、この悪に満ちた人間の世界にあっても、ただ「一人の正しい人」であるイエス・キリストが「いる」ことになったのです。それは逆に言えば、私たち人間を滅ぼさないために、神は独り子を「一人」の人間にしてくださったのです。
第二朗読「使徒パウロのコロサイの教会への手紙2章12―14節」
本日の短い朗読箇所において、同じ言葉が三度も使われています。
「キリストと共に葬られ(12節)」「キリストと共に復活させられた(同節)」「キリストと共に生かしてくださった(13節)」
「キリストと共に」が三度も繰り返されることによって、私たちは生きている時も、死に至る時も、復活するときも、いわば生涯のいかなる時においても、「キリストが共にいてくださる」ことが強調されているのです。それは「インマヌエル=神が我々と共におられる(マタイ1:23)」がキリストによって成就したことなのです。
そのため、特に「祈る」時において、キリストはいつも私たちと共にいてくださいます。「祈り」はキリストと共にいる時です。全てのことから離脱して、キリストと共にもっとも親しく過ごす時間です。
それがもっともよく実現される「祈り」こそが「主の祈り」なのです。
福音朗読「ルカによる福音11章1―13節」
本日の福音には三つの教えが語られています。三つとも「祈り」に関する教えです。
最初が1節から4節までで、「主の祈り」です。「主の祈り」はマタイとルカだけが記載しています。私たちが通常唱えているのはマタイによる「主の祈り(マタイ6:9-13)」に基づいています。ただ、聖書学的にはルカの「主の祈り」の方がよりイエスが教えた本来の言葉に近いと考えられています。ルカでは「父よ(2節)」という呼びかけで始まっています。イエスは弟子たちに、当時の公用語であったアラム語で「主の祈り」を教えられたと考えられています。この「父」をイエスはアラム語の「アッバ」を使ったとほぼ断言することができます。
それは四福音書の成立よりも古い60年代初めに書かれたとされているパウロの「ローマの信徒への手紙」の中に次のような言葉があるからです。
「この霊(聖霊)によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(8章15節)
パウロは「主の祈り」を念頭に置いて語っていて、初代教会では「主の祈り」は「アッバ」で始まっていたことを踏まえて、このように書いているのです。
「アッバ」はアラム語では幼児語で、幼い子どもが父親を呼ぶ時のことばで、日本語に直訳すれば「お父ちゃん」「パパ」になります。けれどもギリシア語でも日本語でも一般的な「父」が使われているように、イエスの時代にあっても神を「お父ちゃん」と幼児語で呼ぶことは不謹慎とされていたのでしょう。それだけに、イエスの「アッバ」への特別な思いが感じられます。イエスは弟子たちに神を畏れ敬うべき方というよりも、幼い子どもが純粋な愛と無限の信頼をこめて「お父ちゃん」と呼ぶような方であることを示されたのです。
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない(マルコによる福音10章15節)」
「子供のように」というのは、子どものように神を父と慕い、信頼する者になりなさいということでもあろうと思います。「主の祈り」を唱える時、私たちは「賢い者や知恵ある者(マタイ11:25)」としての「大人」ではなく、自らに頼ることができず、ただひたすらに父親に寄りすがり離れまいとする子どものようになることが求められているのです。
「主の祈り」の前半はまず「神の国」を求めます。後半で私たちに必要なものを求めます。必要な第一のものは「糧」です。ここには肉体を養う「食料」だけではなく、心を養う「精神的な糧」も含まれています。
そして第二に必要なことがお金とか地位ではなく「ゆるし」なのです。イエスは私たちに「ゆるし合う」ことが生きて行くために必要な大切なことであると言われているのです。
現代の世界情勢を見ると、それは痛切に感じられます。具体的にはロシアとウクライナが、イスラエルとパレスチナが「ゆるし合う」ことができずに、このまま戦争を続けて行くなら、やがて周辺の国々、そして大国を巻き込んでの第三次世界大戦が勃発する危険性が現実味を帯びて来ているのです。第三次世界大戦は核戦争になる可能性があり、そうなれば私たち人類はまさに「滅亡」してしまうでしょう。また個人的レベルにおいても、ゆるし合わずにいつまでも、憎しみと恨みの中に生きていれば、その人の「心」は死んでしまうでしょう。
私たちにとって「ゆるし合う」ことは生きて行くために「糧」と共に本当に必要なことなのです。
ふたつ目の教えは「しつように祈る」ことです。ただ、私自身はこのイエスのたとえ話の本来のメッセージは別の所にあったのではないかと考えています。
そう考える根拠は「友よ(5)」という言葉です。この呼びかけの言葉はイエスの他のたとえ話においても数回、用いられていますが、それらはいずれも「神」にたとえられている人が、自分の思いを理解できていない、共有してくれない人に呼びかける時に用いられています。一例をあげればマタイの「ぶどう園の労働者のたとえ(20:1-16)」です。ぶどう園の主人(神をたとえています)が労働者を雇うのに早朝、日中、最後には夕方になってからでも雇い、それぞれをぶどう園に送ります。夕方、賃金を払うに当たって主人は、早朝から働いていた者と同じ賃金を後から来て働いた者たちにも与えます。当然、早朝から働いていた者たちが不平を言うと、主人はその人に「友よ」と呼びかけるのです。
この「友よ」という呼びかけから類推すると、真夜中に友達の家に行って門をたたいたのは「神」であったと考えられます。この「神」の所に来た「旅行中の友達(6節)」は単なる「旅行者」ではなくて「放浪」の果てにぼろぼろになって「神」のもとへと帰って来た人であったのかも知れません(あの「放蕩息子」のように)。ですから「神」は真夜中であっても、「友」の所に行って「いなくなっていた人が帰って来たけれども、空腹で疲れ切っているから、助けてあげてくれ」と訴えに来たのかも知れません。
そして「しつように頼めば(8節)」という新共同訳の翻訳は次のように訳することもできると聖書学者の雨宮神父様は書いておられます。
「恥知らずと言われたくないから(「『主日の聖書解説〈C年〉』教友社254頁)」
最初は断った(神の)友人が自分の友(神)の思いに反したことを恥ずかしく思って「神」の思いに応えた、ということになります。
このたとえ話は「神はいつも私たちの心の門をたたいている」ということではないでしょうか。「私の友である小さな人びとを助けてほしい」と。私たちはそれにたいして面倒だから厄介だからと避けるのではなく、神の思いを共有して、身近にいて苦しんでいる人びとに手を差しのべなさいということが、イエスの意図された本来のメッセージであったと、私には思えるのです。
ルカはそれを「しつように祈りなさい」というメッセージに受け取って、この「祈り」についての教えの文脈の中に取り入れたのではないでしょうか。
三つ目の教えは「求めなさい、探しなさい」というように、絶えず神に祈り求める必要性を提示していると思えますが、これに関する説明は、本日は省略いたします。
