2025年4月20日 復活の主日(典礼暦C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

福音朗読「ヨハネによる福音20章1―9節」

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに(1節前半)」

私たちの主イエス・キリストはまさに今朝、復活されました。今日の復活の主日、福音朗読で読まれたヨハネの福音は今日、私たちの中に実現しました。

それは「まだ暗いうちに」、完全に明けきらぬ、まだ世界が暗闇の中に覆われていた時にも関わらず、主は復活されたのです。

今のこの世界も泥沼化しているウクライナでの戦争、パレスチナのガザでのイスラエル軍による虐殺といってもよい民間人への無差別攻撃、また全世界に頻発する自然災害をもたらす環境問題、そして国ぐにの間や、また社会の中で拡大し固定化しつつある貧富の格差の問題などの闇に覆われていて、先の見通せない不安の中で私たちは生きています。けれども、その暗闇の中にあっても、主の復活はすでに成し遂げられていることを信じて、希望を持ちましょう。

 

「墓から石が取りのけてあるのを見た(1節後半)」

この「石」、生者の世界と死者の世界を隔てるこの石は人類の歴史が始まって以来、誰も取りのけることができませんでした。どんなに泣いても、呼んでも、死者が生者の世界に戻ってくることはありませんでした。その無言の巨大な石は厳然として人類の前に立ちはだかり、人類はその前にひざを屈するしかありませんでした。死によって全ては終わり、未来は絶たれてしまうのです。

マグダラのマリアとペトロたちもそのように全てを終わったこととして、あきらめていました。そのために「石が取りのけられてある」のを見、また聞いたのにも関わらず、まだ「墓」にこだわるのです。

「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません(2節)」

マリアはまだ「墓」の中にだけ、イエスをさがし求めています。「墓」に捕らわれ、イエスが予告されていた「復活」という新しい世界に向かって開かれていくことができません。

 

「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った(3節)」

ペトロもやはり、「墓」に走って行きます。「墓」の中にイエスを探しに行くのです。ある意味、それはイエスの「死」という過去に捕らわれ、未来ではなく過去に向かって走っている姿であるのかも知れません。中に入ったペトロは「亜麻布が置いてあるのを見た(6節)」単にイエスの遺体が存在しないということを「見た」だけでした。けれども、先に着きながらも後から入ったもう一人の弟子は違います。

 

「見て、信じた(8節)」

単に「見た」だけではなく「信じた」のです。何を信じたのか、「復活」を信じたとしか考えようがありません。先に2節ではこの弟子を「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と表現しています。以前はこの「弟子」は本日の「聖書と典礼」の下の注釈にも書いてあるようにゼベダイの子、またヤコブの弟である使徒ヨハネであるとされていました。けれどもくわしい説明は省略いたしますが、現在の聖書学ではこの弟子は使徒ヨハネではないとされています。この聖書を聞き、また読んでいる人が自分をこの「愛された弟子」にあてはめることによって、自分も登場人物のひとりになって、追体験するための「仕かけ」と考えられています。ですから、この福音書が書かれた時代にあっては初代教会の人びと、現代にあっては今、この福音を読んでいる私たち自身が、この「イエスに愛された弟子」であるのです。そうなると、私たちはすでにイエスの復活を知ったうえで福音の物語の中にいることになります。つまり物語の中にいながらも「枠外」にいて、超越的に物事を見ていることになります。ですから、私たちが「墓」に行くということは、ペトロ(福音の物語の枠の中にいます)と違って「イエスの遺体」をさがしに行くのではなく、「イエスの復活」を確認するために行くのです。私たちは福音記者が証言するその情景を聞かされたことによって「見た」ことになり、そして改めて「イエスの復活」を「信じる」のです。

ヨハネの福音は過去と現在との間を自由に行き来していて、それによって、現在の私たちが過去のイエスの時代に入って行くことができるのです。

大切なことは私たちが今日のヨハネがあかしした復活体験を聞いて(読んで)、「聞く(読む)」だけでなく「信じる」ことです。

 

イエスは誰も取りのけることのできなかった「死」という「石」を取りのけて、まったく新しい世界を開いてくれた、ということを信じることです。復活の朝、「永遠の命」という終わることのない、無限の可能性が私たちの命に与えられたのです。この世的な価値観のもたらす様々な負の面(失敗、挫折、格差、憎悪など)に束縛されることのない、傷つけられることのない、本当の自由と喜びが無限に広がる命です。それらはすべて、キリストの十字架の奉献によって達成されたのです。

 

復活の日の朝、この偉大な神秘、この偉大な救いのわざを、全世界の教会と共にひとつになって、感謝と賛美をささげましょう。