カトリック香里教会主任司祭:林和則
第二朗読「使徒パウロのフィリピの教会への手紙2章6―11節」
本日の「フィリピの教会への手紙」の中から選ばれている朗読箇所は、パウロ自身の創作ではなく、当時の初代教会において広く唱えられていた「キリスト賛歌」をパウロが引用した箇所であると考えられています。
ただ、その中において『』で括った以下の箇所は、パウロ自身が書き加えた、原文にはなかった箇所であると考えられています。
「へりくだって、死に至るまで、『それも十字架の死に至るまで』」従順でした(8節)」
ですから、本来の初代教会の「キリスト賛歌」においては「へりくだって、死に至るまで従順でした」であったということになります。つまり、そこではイエスの「死」が「十字架の死」であったことが言われていないのです。それは初代教会が「十字架の死」を意図的に「伏せよう」としていたからだ、と考えられています。なぜならば、「十字架の死」が宣教において大きな「躓き」になると初代教会が考えたからです。福音書を通して「十字架の死」がイエスの「奉献」と切り離すことのできない、不可欠のものであることを知っている現代の私たちにとって、それは理解しがたいことに思われるでしょう。けれども、初代教会が置かれていたローマ社会の中にあっては、「十字架の死」はもっとも恐れ、忌み嫌われていた「死」であったことに思いを馳せなければなりません。
この手紙が書かれたのは紀元50年代半ば頃であると考えられています。つまり、イエスの十字架の死から20年ほどを経た時代ですが、その時にあっても初代教会が「十字架の死」を明言できないほどに、それは一般の民衆にとって受け入れがたいものであったのです。そう考えると、逆にイエスの「十字架の死」がどれほど恐ろしいものであったのか、そして「十字架」で死んだイエスを「神の子」とする信仰に弟子たちを導いた「復活体験」がどれほど偉大な神秘であったのかを思わずにはいられません。
そしてパウロはほとんど「怒り」をもって「それも十字架の死に至るまで」と書き加えます。翻訳によっては「しかも十字架の死に至るまで」とされています。
パウロは「十字架の死」こそがキリストの宣教の到達点であり、キリストの愛の本質であるとして、教会の中に「十字架の神学」を打ち立てたのです。
福音書はマルコが紀元70年、マタイ、ルカが80年、ヨハネが90年の成立で、教会の中に十分に「十字架の神学」が浸透された後で書かれているのです。
このように考えると、パウロが初代教会のキリスト教の神学の形成にいかに大きな貢献をしたのかを、改めて感じさせてくれます。
入城の福音朗読「ルカによる福音19章28―40節」
本日の典礼は典礼暦C年の聖週間の初日にあたり、主がついにエルサレムに入城されたことを記念します。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書では、イエスの宣教活動中におけるエルサレム入城はただ一度、その最期の日々に果たされたとされています。それによって、エルサレム入城が十字架の死へ向かう最後の一歩であったことを示しています。ちなみにヨハネではイエスは5回、エルサレムに上ったとされています。
けれども今日の福音にあるように、その入城の様子は十字架の死とはまったく逆の、勝利と栄光に満ちたものでした。大勢の群衆が王を迎える時のように、イエスの進む道に自ら脱いだ服を敷き詰め、イエスの前後を取りまいて「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように(38節)」と歓呼の声をあげ、イエスを「王」と呼びます。そう、群衆はまさにイエスが彼らの待ち望んでいた真の王である「「メシア」としての行動を開始するためにエルサレムに来られたのだという期待に熱狂していたのです。*注
群衆のこの熱狂を理解するためには、当時のユダヤがメシアを待ち望む運動、いわゆるメシア主義(メシアニズム)にいかに沸騰していたかに思いを馳せる必要があります。それは福音書全編の背景を思い描くためにも欠かすことのできない視点です。その運動は同時にローマ帝国からの独立運動、民族主義的な熱情と一体化していました。ユダヤ人はローマ帝国から民族を解放してくれる政治的、軍事的な王としてのメシアを待望していました。
私たちはしばしばその民の熱狂を、神の救いをもたらす真のメシアを理解できずに地上的な栄光を求めていた愚かなユダヤ人として蔑視しがちです。
けれども、何世紀にもわたって大国の支配や侵略に虐げられてきた弱小民族が解放と独立を切望するのは当然のことです。
エジプト王国、アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシア帝国、アレクサンドロス大王のギリシア、シリア、そしてローマ帝国と、3000年近くに及ぶ旧約、新約の歴史において、イスラエルという小さな民(「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった(申命記7章7節)」)は大国に蹂躙され続けて来たのです。
むしろそのような「人間的な見方」を超えた神の思いに開かれていくことはきわめて困難なことで、おそらくどの民族にあってもそれは同じで、私はイエスがどの民族に生まれていても、やはり死刑にされていたと思います。何よりもイエスがそれをもっとも理解されていたことでしょう。だからこそ、受け入れられなくても、神の民であるユダヤ人を愛されていたのです。それはイエスがエルサレムを思って涙を流されたことからもわかります。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛(ひな)をその羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか(マタイ23章37節)」
まさにイエスは母親が幼いわが子を腕の中に抱きしめるように、ユダヤの民を愛されていたのです。ここから言えることは、イエスの十字架の苦しみは肉体的なものだけでなく、弟子たちの裏切りがそれ以上の苦しみであったとよく言われますが、それと同様に愛する民から見放されて、憎まれ、さらに殺されるという大きな苦しみがあったのです。
今日のエルサレム入城で歓呼する群衆に、イエスは真のメシアを理解してもらおうとして必死に訴えています。それが「子ろばに乗って」入城する姿です。イメージしてみてください。人びとが立ち上がってイエスを讃えている、けれどもイエスは低い子ろばに乗っているために人びとの視線より下にいて、人びとを見上げています。人びとはイエスを見下ろしています。何という奇妙で、ちぐはぐな光景でしょうか。もしイエスが群衆の期待するような王であったなら、それにふさわしい姿は、馬に乗って来る姿であるべきだったのです。馬に乗ればイエスは人びとを見下ろし、人びとはイエスを見上げることになるからで、目に見えるかたちで「上下関係」が示されるのです。だからこそ馬は権力者と軍人の乗り物でした。それは「政治」と「軍事」の権威の象徴で、人びともそのような「「王」としての権威をこそ、イエスに求めていました。
だからこそ、あえてイエスはろば、しかも子ろばに乗って来たのです。ろばは庶民が運搬また乗用にというように、生活のために使用するものでした。庶民の労働と生活は「平和」であればこそ営むことができます。「ろば」は「仕えること」と「平和」の象徴だったのです。イエスにとってメシアであるということは「仕える」ためであり「平和」をもたらすことでした。それが人びとに理解できないのは、イエスは「人間的な見方」によってではなく、それを超える「神の愛の視点」に立っておられるからです。
ですから、群衆の歓呼が響き渡るような輝かしい今日の福音には、実はイエスと群衆の思いの間に横たわる深い断絶がすでに表れていて、その断絶がやがて「十字架」をもたらすことになります。
ですから、一見、勝利の栄光に輝いているような「エルサレム入城の福音」は、実は「受難の序曲」ともいうべきものであるのです。
*注:ヨハネによる福音だけが、群衆は「なつめやしの枝を持って迎えに出た(12章13節)」と書いています。「なつめやし」と「棕櫚」は本来、同じヤシ科であっても違う植物です。ただ、日本では「棕櫚」以外のヤシ科の植物が一般的でなかったため、明治時代から「棕櫚の枝」と翻訳されることが多く、また手に入れやすいことから「枝の主日」の典礼では、棕櫚の枝が用いられています。
