2025年4月6日 四旬節第5主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

第一朗読「イザヤの預言43章16―21節」

本日の「イザヤの預言」は聖書学で「第2イザヤ」と呼ばれている預言者の箇所です。第2イザヤは「バビロンの捕囚」の後期にあって、捕囚からの解放が近いことを人びとに預言しました。

「今や、それは芽生えている(19節)」は、キュロス王率いるペルシア帝国の軍隊がバビロニア帝国へと進軍を進めている事実に基づいています。神は第2イザヤに「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う(44章28節)」と告げることによって、キュロス王を使ってユダヤの民を「バビロンの捕囚」から解放することを啓示したからです。

神は「バビロンの捕囚」からの解放を宣言されるに当たって、次のように民に語りかけられます。

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな(18節)」

「初め」は天地創造の「初め」ではなく、「バビロンの捕囚」という出来事の「始め」です。バビロニア帝国によって多くの民が殺され、国が滅ぼされたことから「バビロンの捕囚」は始まりました。それは辛く、悲しく、現在で言うところの「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」のように、思い出す度にその時の痛みがフラッシュバックされて、心を引き裂かれるような思いになる出来事でした。

忘れたくとも忘れられないような出来事ですが、神は「思い出すな、思いめぐらすな」と言われるのです。それは冷然として命令しているのではありません。

神はその御手で民の背中をなでさするようにして、深い憐みと痛みをもって語りかけられているのです。「忘却」は神が与えてくださる「恵み」であると思えます。いつまでも自分の痛みや苦しみに捉えられているのは、自分自身を自ら痛めつけているようなものです。神は「もっと自分を大切にしなさい」と私たちに「忘却」の恵みを与えてくださるのだと思います。

そのために「新しいこと(19節)」を行ってくださるのです。第2イザヤの預言においては、それが「バビロンの捕囚」からの解放でした。

私たちも何かの辛い過去の思い出に捉われていると、せっかく神が新たな世界を、出来事を私たちの目の前に広げてくださっているのに、見えていない場合があると思います。過去に捉われて、心の目がさえぎられてしまっているからです。神が示される「新しいこと」に絶えず自分を開いて行けるように、心の目を閉ざすことなく、いつも開いておくこと、それは神への信頼と希望があってこそ、はじめて可能になります。

 

第二朗読「使徒パウロのフィリピの教会への手紙3章8―14節」

本日のパウロの手紙も、第一朗読と同じようなメッセージの箇所が選ばれています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ(13節)」とパウロも書いています。

パウロにとっても「後ろのもの=過去」は辛いものでした。パウロの場合の辛さには、「罪悪感」が重くのしかかっていました。パウロは熱心なファリサイ派として、キリスト教徒を迫害したのです。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました(ガラテヤの信徒への手紙1章13節)」とパウロ自身が告白している通りです。

ただ、パウロのキリスト教徒への迫害の活動は、当時の大祭司を頂点とするユダヤ教の上層部からは評価され、パウロは一定の社会的地位を獲得していました。その地位をキリスト教徒になることによって失ったのです。

「キリストのゆえに、わたしは全てを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています(8節)」

パウロが「塵あくた」と見なしているのは社会的地位だけではなく、「律法から生じる自分の義(9節)」も含まれています。パウロは律法を守ることによって「義」を獲得し、神の前に「正しい者」となろうとしたのです。それは「律法を守る」という「自分の努力」によって、つかみ取ろうとする「自分の義」でした。そのような「義」は自分の力で勝ち取ったものとして人を傲慢にし、できない人を軽蔑する差別意識を生じさせるのです。イエスが「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ(ルカによる福音18章9―14節)」で言われたように「義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない(14節)」となるのです。パウロは「自分の義」を捨て「キリストへの信仰による義(9節)」を選び取ったのです。それは自分の力ではなく「神から与えられる義(同上)」であり、神からの恵みなのです。

過去のパウロは律法を守る自らの力のみを頼り、律法に捉われないキリスト教徒を迫害するという、現在のパウロにしてみると「穴があったら入りたい」という思いにさせるような、愚かな人間であったのです。

パウロはその過去の自分を「忘れ」、「前のもの」すなわち神が始められた「新しいこと」に全身全霊をかけて向かおう、生きて行こうとしているのです。パウロにとっての「新しいこと」は「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞(14節)」すなわち「キリストの死と復活によって成し遂げられた救いのわざ」にほかなりません。

パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」を神によって体験させて頂いたことによって、過去の恥ずかしい自分に決別し、「忘却」する恵みを頂いたのです。

 

福音朗読「ヨハネによる福音8章1―11節」

本日の福音で「律法学者たちやファリサイ派の人々(3節)」によって、「姦通の現場で捕らえられた女(同上)」がイエスの前に連れて来られます。その逮捕と連行は、申命記22章22節に書かれている、次の律法に基づいています。

「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」

しかし、この律法に準拠していたとすれば、疑問に思われる点があります。

律法では「男もその女も」とあります。つまり、その現場にいた「男」も連行されなければいけないのに、イエスの前には「女」しか連れて来られていないのです。そして律法学者たちとファリサイ派の人びとがこの「女」を連れて来た本当の目的は「イエスを試して、訴える口実を得るため(6節)」でした。

だとしたら、次のような推測が可能であると思えます。「この『女』は罠にかけられた」のだと。律法学者とファリサイ派の人びとはイエスを訴える口実を得るために「姦通の現場」を作り出そうとしたのです。そのために利用できるような「女」は「娼婦」が一番、手に入りやすいと言えます。そのため、おとりの「男」を雇い、その「男」に「女」を買わせます。そして準備されていた「姦通の現場」の場所へ「女」を連れて行き、そこに隠れていた律法学者とファリサイ派の人びとの手下が踏み込んで、「女」だけを捕まえたのです。おとりであった「男」は役目を果たし、報酬をもらって、どこかに消えてしまったのでしょう。

この「女」が「娼婦」であったという解釈は教会の伝統の中でも古くからありました。けれども、それによってこの「女」は「罪人」であったと考えられていました。けれども現在の社会学の発展によって、イエスの時代の「娼婦」がどのような女性たちであったのかが、社会学的に考察されています。その出自のほとんどは「やもめ」であったとされているのです。イエスの時代のユダヤ社会では、はなはだしい女性差別が行われていました。結婚においても、男性が理由もなく一方的に女性を離縁することができました。そして離縁の責任はすべて女性の側に負わされて「やもめ」は「罪人」として社会から疎外されました。当時、女性の「職業」はなく、「家」から出された「やもめ」が生きて行く手段は三つしかありませんでした。「物乞い」「妾(めかけ)」「娼婦」でした。この「女」は生きて行くうえでやむを得ず、「娼婦」をえらんだのでした。「娼婦」になれば、さらに「罪人」として社会から疎外され、居場所がなくなります。

また今日の福音で、気にかかる点は、群衆の真ん中におそらく半裸のような状態で立たされている女性が泣いたり、わめいたりもせずに、全く「無言」であることです。おそらくこの「女」は「不幸に慣れてしまっている」のかも知れません。あまりにも、これまで自分の人格を踏みにじられて来たために無感覚になって、もしかしたら「薄笑い」さえ浮かべていたのかも知れません。「私なんか、もう、どうなってもいい」という自暴自棄のような状態です。

けれども、イエスはきっと、それを一目で見通したのです。そしてこれまでの、今の「女」の状況に「スプランクニゾマイ=はらわたの痛むような憐れみ」を感じられたに違いありません。そして、その「女」の痛みなど全く気に留めることもなく、自分たちの企みを達成しようとする周囲の人びとの底意地の悪い表情にイエスは言葉も失って「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた(6節)」のです。きっとイエスはこの「女」のために「人びと」のために「祈り」を書いておられたのだと思います。

「彼らがしつこく問い続ける(7節)」とイエスは「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい(同上)」と言われて、「また身をかがめて地面に書き続けられ(8節)」ます。今度は「誰も石を投げないように」ではなかったでしょうか。投げるべきかどうかで、人びとは極度の緊張状態にありました。こういう時は群集心理のこわさで、一人が投げてしまえば、全員が一斉に投げ出してしまうからです。イエスも必死の思いで「祈り」を書いておられたと思います。

そして人びとが去って行った後、ようやく「イエスは、身を起こして(10節)」この「女」に向かって「婦人よ(同上)」と呼びかけられます。この呼びかけに「女」は驚愕したことでしょう。「婦人」はヨハネの福音の「カナでの婚礼(2章1―12節)」と「十字架につけられる(19章16b―27節)」において、イエスが母マリアを呼ぶ時に使われているように、女性に対する「敬称」なのです。この「女」はもう長い間、このように自分を敬って呼んでもらうことがなかったのです。しかも、このような姦通の現場で捕まってしまったような状況の自分をさげすむことなく、敬ってくれるということが信じられなかったでしょう。

そして、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない(11節)」と言われます。この言葉は「わたしは、あなたを罪人とは思わない。あなたは『罪人』ではない」という意味ではないかと、私には思えます。

イエスは次のように言いたかったのではないでしょうか。

「本当の罪人は、あなたをこのような状況にまで追い込んだ、男たちだ。あなたをさげすみ、疎外した社会の人びとだ。あなたはこの歪んだ社会の『被害者』であって、『罪人』ではない。あなたも大切な『神の民』であって、私は人びとによって失われたあなたを取り戻すために来たのだ。」そして「行きなさい(11節)」も「過去のことを忘れ、神があなたに開いてくださる未来に向かって行きなさい」であったと思うのです。

教会の聖書解釈の伝統には、この「女」が「マグダラのマリア」であったという伝承があります。いずれにしても、イエスを「主よ(11節)」と呼んだこの「女」はイエスの共同体に入って、イエスに従って生きて行く「未来」を神から与えられ、「それに向かってひたすら走る」ことを選び取ったに違いないと思います。