カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「ヨシュア記5章9a、10―12節」
イスラエルの民は40年間の荒れ野の旅を終え、モーセ亡き後のリーダーとなったヨシュアに率いられて、ついに「乳と蜜の流れる土地」であるカナン(現在のパレスチナ)に入り、その地での生活を始めました。そして最初の居住地としたギルガルにおいて、人びとは新しい土地における初めての過越祭を迎えることになりました。
過越祭の夜は当日に屠られた小羊を家族で食べることになっています。ただ、この箇所ではその「過越の食事」は書かれないで、翌日からの「土地の産物を食べ始めた(12節)」ことのみが書かれています。ここでは、過越祭以上にイスラエルの民の新しい生活が始まったことに主眼が置かれているからです。
ヨシュア記はそのことを次のように表現しています。
「その日以来、マナは絶え、イスラエルの人びとに、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた(同上)」
荒れ野での放浪生活は終わり、定住農耕生活が始まったのです。
「荒れ野」では農耕生活も狩猟生活も不可能でした。そこはまさに何もなく、人間の「手のわざ」によっては生きて行くことのできない場所だったのです。そのため、神は民に天からのパンである「マナ」を降らせ、人びとはそれを食べて生きていました。それが再び、自分たちの「手のわざ」によって生きて行く生活が始まったのです。
「荒れ野」は人間にとって己の無力さを痛感させられる過酷な場所ですが、逆に言えば、それだからこそ神の恵みを直接的に受け取ることができ、「神に生かされている」ことを実感できる「恵みの場」であると言えます。
私たちは己の「手のわざ」すなわち自らの「労働」によって生きています。それは気がつかないうちに、自分は「己の力によって生きている」という「おごり」を生じさせてしまう可能性があります。
「四旬節」という「四十日間」という日々は四旬節第一主日の福音で読まれたように、イエスの荒れ野での「四十日間」、またイスラエルの民の荒れ野での「四十年間」の日々に基づいています。
ですから、私たちは四旬節の黙想を通して、「荒れ野」へと向かうのです。そのためには自分の「手のわざ」を捨てて「空の手」になることです。社会的な地位や仕事、金やモノを忘れて、「神」以外には「何もない」状態になることです。
そこで改めて自分は己の力によって「生きている」のではない、神によって「生かされている」のだということに立ち返ることができます。
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙二5章17―21節」
本日の手紙でパウロはコリントの教会の信徒に次のように書き送ります。
「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ(18節)」
ユダヤ教の「いけにえ」は「和解のいけにえ」と呼ばれるように、動物のいけにえを捧げることによって、神と和解させて頂くことを目的としていました。
キリストは十字架を通して自らを「いけにえ」とすることによって、動物のいけにえでは成しとげることのできなかった「神と人との完全な和解」をもたらしてくださったのです。
それに続けてパウロは「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました(同上)」と書きます。キリストがご自分の命を捧げてまでも、もたらしてくださった「和解」の恵みに応えるためには、「和解のために奉仕しなさい」と信徒に促しているのです。
「神との和解」といっても、目に見えない神と具体的な関係を持つことができない私たちはどのようにすれば、「神との和解」を具体化できるのでしょうか。
そのヒントが、ヨハネの手紙の中にあります。
「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
(ヨハネの手紙一4章20節)」
「神との和解」も「神への愛」と同じです。すなわち、「目に見えない神と和解することは、目に見える兄弟姉妹と和解する」ことなのです。
私たちの「和解のための奉仕」はまず私自身が私の兄弟姉妹と和解することから始まるのです。その際、神が「人々(私たち)の罪の責任を問うことなく(19節)」
キリストを通して和解させてくださったように、私たちも相手の「罪の責任を問うことなく」和解すべきなのです。
「肉(人間)となった神のことば(ヨハネによる福音1章1―14節)」であるキリストはまた「和解の言葉(19節)」そのものでもあるのです。キリストの洗礼によって救われ、またキリストの弟子となった私たちは「キリストの使者(20節)」として「(和解の)務めを果たして(同上)」行くのです。
私たちはキリストを通して神と和解させて頂いています。それを人びとにあかしするために、私たちは「目に見える(身近な)兄弟姉妹」と和解するのです。
けれども私たちの力では、その責任を問うことなく無条件でゆるすこと、和解することは困難です。そのためにも、私たちは「主の祈り」を唱えるのです。
イエスの「肉声」である「主の祈り」を唱える時、必ずイエスがそばに来て、共に唱えてくださいます。「私たちも人をゆるします」と唱える時には、イエスはそれが早く実現するようにと祈りつつ、共に唱えてくださるのです。そのイエスの祈りに支えられて、私たちは「人をゆるす」ことが、きっと、できます。
福音朗読「ルカによる福音15章1―3、11―32節」
本日のたとえ話は、日本語の翻訳聖書では、どの翻訳でも「放蕩息子のたとえ」という標題がつけられています。けれども、それは誤解を招くような標題であると思われます。まず、このたとえ話は先行するふたつのたとえ話と合わせて「ひとつのたとえ話」となっています。本日の朗読箇所では省略されているふたつのたとえ話は日本語の翻訳聖書においては「見失った羊のたとえ(3―7節)」「なくした銀貨のたとえ(8―10節)」という標題がつけられています。
ですから、このたとえ話の標題も「いなくなった息子のたとえ」とするべきなのです。それに「放蕩息子」では「兄」の視点に立つことになります。兄は弟を「放蕩息子」と呼ぶことによって、「弟」を断罪しているのです(兄は「あなたのあの息子(30節)」と言って「弟」とさえも呼びません)。
けれども「父親」にとっては「「放蕩息子」ではなく、あくまでも「「大切な息子」なのです。「「父親」は「息子」を愛しているがゆえに、裁くことはしないのです。
「放蕩息子」という標題では、読む前から私たちの意識に「兄」の視点が刷り込まれてしまうことになりかねません。
ただ、2000年ほど前、イエスがユダヤの人びとを前にしてこの話をし、締めくくりとして「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか(32節)」と言った時、人びとはきっと「当り前じゃないぞー」「こんな馬鹿げた話があるか」といった非難ごうごうの反応を返してきたと思います。私たちも「福音書」という枠をはずしてみて、初めてこの話を聞いたとしたならば、きっと同じような反応をしたと思います。ここに出てくる弟はあまりにも人間的な道徳規範から外れています。父親が生きているうちから、遺産を要求するのは「僕にとってはお父さんの命よりもお金が大切なんです」と言っているようなものです。ところが父親は叱りつけることもなく、与えてしまいます。おそらくその額は日本円にすれば何千万いえ億単位であったかも知れません。すると弟はもうこの家には用がないとばかりにさっさと遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして、全てを無駄遣いしてしまうのです。
そしてユダヤ人にとって汚れた動物である豚と一緒に生活するというどん底に落ちた時、父の家に帰ろうと考えます。これも虫のいい話です。こうして帰ってきた息子を父親は自ら走り寄って抱きしめ、ひとことも叱らないで、祝宴まで開くわけです。
きっと2000年前の聴衆は「ゆるすにしても、まずは何年か、召し使いとして働かせて、それがきちんとできてから許すべきだ」「この父親は子どもに甘すぎる。父親失格だ」といったような抗議をイエスにしたと思いますが、明らかにこのたとえ話の父親も一般的な父親像からは大きく外れています。
けれども、イザヤ書の中で、神は私たちに、こう語りかけられます。
「天が地を高く超えているように 私の道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている(55章9節)」
神のいつくしみは、わたしたちの「当たり前」をはるかに超えているのです。
このたとえを考えるためのカギとなる言葉は父親が兄に向かって言った「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる(31節)」であると思います。それは次のように言葉を継ぎ足せば、さらによくわかります。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。それ以上、何を望むというのだ。それとも、お前は何か別のものを求めて、私と一緒にいたのか」
兄が弟に怒る最大の原因は父親の財産を食いつぶしてしまったことにあると思います。兄にとっては、弟よりもお金が大切であったということです。
けれども、父にしてみると、お金は何千万円であろうが、何億円であろうが、まったく価値のないものなのです。父にとって、息子こそが大切で、お金など、どうでもいいのです。そして、息子の、また父にとっての本当の幸せは、一緒に、共に生きることなのです。父親は息子たち以上に共に生きることを望んでいて、それを最高の喜びと考えているのです。ですから、息子が帰ってきたことが心から嬉しく、その喜びを隣人と共に祝おうとするのは「当たり前」なのです。
同じように、神は私たちと「共にいたい」と望んでくださっているのです。
私たちがこの話を聞いて腹を立ててしまうのは、どこかでお金を人間の幸せの基準に置いてしまっているからではないでしょうか。もし、弟の浪費したお金が一万円ぐらいであれば、それほど理不尽さを感じないかも知れません。私たちもどこかで兄のように、隣人よりもお金に価値を置いているのかも知れません。現代の世界の拝金主義の流れの中にどっぷりと漬かりこんでいるのです。まさに現代の日本に於いても、お金こそが絶対的な価値を持っていて、まさに偶像になっていると思います。主がイスラエルの民にきびしく禁じられた偶像崇拝です。人間の価値もお金に換算されているといっていいと思います。どれだけ金銭的利益をもたらすことができるのかによって、人の優劣が決められています。
けれども、イエスはこのたとえ話を通して、私たちに呼びかけておられます。「それは本当に当たり前なのか」と。「もっと別の世界、神のいつくしみに満ちた世界がある。そこは、父なる神を真ん中にして、みんなが手を取り合って共に生きている世界、いつくしみと愛が価値になっている世界、その中にこそ、人間の本当の幸せがある」と。そしてイエスは手を広げて「さあ、帰って来なさい」と私たちのもとに駆け寄って来てくださるのです。
