カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「創世記15章5―12、17―18節」
本日の朗読箇所である創世記15章は、神の約束へのアブラハムの疑念から始まっています。アブラハムはメソポタミア地方の豊かな街であったハランで人生の日々の大半を送り、75歳になっていました。子宝には恵まれなかったけれども、豊かな財産を有し、後は住み慣れた街で余生を穏やかに過ごすことのみを考えていたであろうアブラハムにある日突然、神が「父の家(ハラン)を離れて、わたしが示す地に行きなさい(12章1節)」と命じます。アブラハムはためらうことなく、すぐに「主の言葉に従って旅立った(12章4節)」のです。長い旅を経て、カナンに到着したアブラハムに「見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える(13章15節)」と神は約束されます。
けれども更に年を重ねて90歳近くになると、アブラハムは次第に神の約束に疑いを抱き始めます。「90歳の私と80歳の妻のサラに子どもが生まれるだろうか」と。人間的な常識から言えば、この疑いは当然のことです。
15章冒頭で、神が「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう(1節)」と呼びかけたのに対して、アブラハムは「わが神、主よ、わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません(2節)」と言って、ついに自分の疑念を神に向かってぶつけてしまいます。
それにたいしての神の応答が本日の朗読箇所の冒頭です。神は怒ることなくアブラハムを「外に連れ出して・・・『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい』(5節)」と言われます。この神の応答は次のように言い換えることができると思います。
「人間的な考えの小さな枠の中でぐるぐると堂々巡りをすることをやめて、『外』に出て来なさい。そして神の座である『天』を仰いでみなさい。一切の限界のない、人の思いを遥かに超えた、神である私の無限の思いの中に包まれて生きていることを思い起こしなさい」
自己の狭い枠の中から神の無限の思いの中に解放されていくことによって「アブラムは主を信じた(6節)」のです。
けれどもさらに、アブラハムは神の約束を「何によって知ることができましょうか(8節)」と「しるし」を求めます。その「しるし」として神はアブラハムと契約の儀式を行われます。
それが「煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた(17節)」であったのです。これはユダ王国において実際に行われていた契約締結の儀式でした。具体的な例としては紀元前588年ごろ、当時バビロニア王国の支配下にあったユダ王国の王であるゼデキヤはエジプトに援軍を要請して、バビロニアに反乱を起こしました。けれども国内には親バビロニア派の人びともいて、政情は不安定でした。そのため、ゼデキヤ王は貴族、役人、祭司、国の民を集めて、自分に従うことを誓わせ、その後、二つに切り裂いた子牛の間を共に通ることによって契約を結ばせたのです。それは「もし、私たちが契約に背いたならば、この子牛のように切り裂かれてもかまいません」という決意を目に見えるかたちで表す契約の儀式だったのです(エレミヤ書34章18―19節参照)。
神はアブラハムへの約束を守る「しるし」として、この契約の儀式を行ったのです。ただ本来でしたら、切り裂かれた動物の間を通るのは契約を結んだ「両者」でなければならないのですが、通ったのは「煙を吐く炉と燃える松明」として顕現された神お一人だけで、契約相手のアブラハムは通ってはいないのです。
つまり、契約によって生じる義務や責任は神のみが負われて、アブラハムには要求されていないのです。この契約は、神からアブラハムへの一方的な契約であったわけです。これは神が私たちを「一方的に愛してくださっている」ことから生じる必然なのです。
神は、私たちが愛されるにふさわしい正しい人間であるからとかではなく、無条件に、無償で、私たちを愛してくださっているのです。ですから、契約に際しても、私たちがそれを守るかどうかは問われないで、一方的に結んでくださるのです。もし、神が私たちに何かを要求しての「契約」であれば、それは「取引」になってしまいます。神の「愛」は「取引」ではなく、見返りを求めないのです。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している(ルカによる福音6章)」
神は、もし私たちが神を愛していなくても、私たちを愛してくださるのです。
第二朗読「使徒パウロのフィリピの教会への手紙3章17節~4章1節」
本日の第一朗読は「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで(18節)」という、神のアブラハムへの約束の言葉で終わっています。けれども現在に至るまで、歴史的にはこの約束は実現されていません。イスラエルがエジプトから現在のイラクに至るまでの領土を有したことは歴史上、ただの一度もありません。また、アブラハム本人が実際に手に入れることのできた土地は、妻のサラと自分のための墓を造るためにヘト人から購入した土地、「ヘブロンにあるマムレの前のマクベラの畑と洞穴」だけに過ぎなかったのです(創世記23章)。
神はアブラハムとの契約を守られなかったのでしょうか。その答えが第二朗読のフィリピの教会に送ったパウロの手紙の中にあります。
「わたしたちの本国は天にあります(20節)」
旧約、新約において一貫している「(契)約」は「神が必ず私たちを救ってくださる」というものでした。旧約において、その目に見える「しるし」が「土地を与える」ということでした。それは単に具体的にどこか場所としての「土地」を与える、ということではなく「土地=地上」において救いが実現するということを意味していたのです。それが「旧約」における「限界」であったと言えるでしょう。ただしその「限界」は神の側ではなく、人間の側によってもたらされるものです。「旧約」の神の民はイエスの時代の人びとがそうであったように、この「地上」において完成する「救い」を求めていて、神もその人間の「限界」に応じて語られ、約束されていたのです。
けれども「新約」においてキリストの十字架を通してもたらされた救いはもはや「地上的」「この世的」なものではないのです。「天」において完成される救い、それこそが人間的な「限界」を超えた、真の「救い」であったのです。
「旧約」において、アブラハムやモーセが神によって約束された「土地」を得ることができなかった、入ることができなかったのは、それを暗示していたのだと思えます。この「地上」において、「土地」や「支配」や「権力」を得ることを求めることは、人類の歴史が示しているように、争いと殺戮をもたらすだけなのです(悲しいことに現代もそうです)。
キリストによって始まった救いは「天」においてこそ、完成するのです。
「小教区」と言う言葉はラテン語の「パロッキア」に当たる言葉ですが、実はそれは翻訳ではありません。「パロッキア」の直訳は「仮住まい」だからです。
「小教区」とは、例えば香里教会が独立した「教会」ではなく、あくまでも「大阪高松教区」という「教区」の一部「小さな教区」である、という「教会という組織」の説明になっているのです。たいして「仮住まい」は本日のパウロの「本国は天にある」というように、信仰者の基本的な生き方を示しているのです。
昨年12月24日から始まった聖年のテーマは「希望の巡礼者」です。私たちの人生の旅路はまさに、「天の本国」に向かっての「巡礼」なのです。この世は「仮住まい」に過ぎないから適当に生きていればいい、ということではありません。この世界は「巡礼地」であり、この世を信仰をもって「巡礼」の旅路として誠実に歩むことによってこそ、「天の本国」に入ることができるのです。
私たち一人ひとりが「天の本国」に向かって歩んでいる「希望の巡礼者」なのです。それをこの聖年を通じて、あらためて意識し、まことの「巡礼者」となるように心がけて行きましょう。
福音朗読「ルカによる福音9章28b―36節」
本日の福音は「主の変容」です。「主の変容」はイエスの弟子たちへの最初の受難予告の後に起こっています。受難予告を聞いた弟子たちは激しく動揺します。彼らにしてみると、イエスはやがてユダヤの王となり、神の力によってローマ帝国を打ち倒してユダヤを解放し、さらには神の民としてユダヤ人による全世界の支配を実現する「栄光のメシア」であったからです。それが王どころか、当時のローマ帝国にあって最もみじめで最低の死である十字架刑によって殺されるという予告は想像すらできないものであったことでしょう。受難の後に「復活」することもイエスは予告しているのですが、弟子たちの心は「十字架」の衝撃によって覆い尽くされてしまっていて、「復活」と言う言葉が入る余地は全く残されてはいませんでした。
その弟子たちの動揺を少しでも静め、希望を与えるために「復活」を先取りして、「復活のイエス」の姿をペトロたちの前に現わされたのが「主の変容」であったと解釈されています。それはまた、この地上において「天の本国」が現出した時であったと思われます。
だからこそ、まだ「旧約の民」であったペトロは何とかして、この「すばらしいこと(33節)」を「地上」に留め置こうとして、「仮小屋を三つ建てましょう(同上)」と進言するのです。けれども、この「地上」においては全ては過ぎ去り、留めておくことはできません。すぐに「雲が現れて彼らを覆った(34節)」のです。そして「これはわたしの子、選ばれたもの、これに聞け(35節)」という神の声がすると、元の「地上」の世界に戻り、イエスだけが元通りの姿で立っておられたのです。
神が「復活のイエス」にではなく「地上のイエス」にこそ「聞け」と言われたのは、「十字架で死んで行くイエス」こそが「神の子」であり「選ばれたメシア」であることをペトロたちに示し、聞き従うようにと教えられたのだと思います。聞き従うべきイエスの言葉とは、受難予告の中の「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(ルカ9章23節)」に集約されています。
ペトロは手紙の中で「主の変容」の思い出に触れています。「わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです(ペトロの手紙二1章18節)」それを体験したことによって「預言のことばはいっそう確かなものになっています(19節)」と言います。つまり、「主の変容」を体験したことよって、イエスの言葉が真実であることを実感できたということです。
そして「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください(同上)」
と信徒たちを導くのです。
私たちも、神がいることを実感できるようなすばらしい体験をする恵みを受けることがあります。それは過ぎ去ってしまいますが、その思い出を忘れずに、大切に守り続けることによって、「暗い所に輝くともし火」を心の中にともし続けて、「巡礼」である人生の旅路を歩んで行くことができると思います。
