カトリック香里教会主任司祭:林和則
*9日は「四旬節黙想会」を実施し、講師は男子跣足カルメル修道会(宇治修道院在住)の松田浩一(ひろかず)神父様にお願いしました。当時のミサの司式と説教も行って頂きましたので、私の説教はありませんでした。
*司祭は普段は自ら説教を行うばかりで、なかなか他の司祭の説教を聞く機会がありません。そのために松田神父様の説教を聞けたことはとても嬉しく、霊的な刺激を受け、いろいろと思いめぐらすことができました。
今回は私の「思いめぐらしたこと」を皆さんに紹介したいと思います。
福音朗読「ルカによる福音4章1―13節」
当日の福音では、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、聖霊に導かれて(福音では「〝霊〟によって引き回され(1節)」)荒れ野を四十日間さまよわれ、悪魔からの誘惑を受けられます。
松田神父様はイエスの荒れ野の四十日間の歩みを、イスラエルの民の荒れ野の四十年間の旅路に重ね合わせるという視点からこの箇所を解釈されて、悪魔の誘惑をイスラエルの民が荒れ野で受けた誘惑と重ねました。
ひとつ目の誘惑は「この石にパンになるように命じたらどうだ(3節)」です。
荒れ野では本来、「パン=食べ物」がない場所です。イスラエルの民も絶えず「パン=食べ物」を巡って神とモーセに不平を訴え、あげくの果てには次のように言ってしまいました。
「我々はエジプトの国で・・死んだ方がましだった。あのときは・・パンを腹いっぱい食べられたのに(出エジプト記16章3節)」
「パン」が得られないがために、エジプトの奴隷状態から救い出してくださった「神のわざ」を否定し、破棄しようというような恩知らずで、冒とくと言ってもいいような暴言を神とモーセに向かって吐いたのです。けれども神は「パン」なくしては生きてはいけないという人間の弱さをご存知です。イスラエルの民の不平を受け入れて、天から「マナ」を降らせてくださいました。
それをイエスは「『人はパンだけで生きるものではない』(4節)」と言われて、時には食欲、命をも超えて尊きものを選び取って生きていける人間の尊厳を示されました。
ふたつ目は「もしわたしを拝むなら(7節)」とあるように、神以外の存在、偶像を拝むようにという誘惑です。
イスラエルの民はモーセがシナイ山に上ったまま、何日も降りてこないので不安になります。神が自分たちを見捨てたのではないかと、「神の不在」という恐怖の前に別の神にすがろうとして「金の子牛」をアロンに造らせ、祭壇を築いていけにえを捧げ、飲み食いし、たがが外れたかのように踊り狂いました(出エジプト記32章1―6節)。
ある意味、私たちがこの世的な名誉や地位、財産などを求めるのは、「神の臨在」を信じられないがゆえに、目に見えるものにすがろうとして、「神の不在」という、ぽっかりと空いた穴を埋めようとしてのことであるのかも知れません。
イエスは「『あなたの神である主を拝み』(8節)」と言われます。ここでイエスは「神は『あなたの神』であって、いつもあなたと共にいる」ということを明言されることによって私たちの不安を取り除き、神の臨在を信じて、神に立ち返るようにと言われているのだと思います。
みっつ目は「飛び降りたらどうだ(9節)」に象徴されているように「神を試す」ことへの誘惑です。
荒れ野でのイスラエルの民も神を試そうとしました。そのことについて詩編95番は、神の言葉として次のように書いています。
「『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑なにしてはならない。
あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしのわざを見ながら、なお、わたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった』(8-10節)」
そして、神は次のように宣告されます。
「『わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った』(11節)」
イスラエルの民は荒れ野での「誘惑」にことごとく負けてしまったのです。結果的にエジプトを出た時の民は「約束の地」に誰一人として入ることができずに荒れ野で死に、荒れ野で生まれた次世代の民のみが入ることになったのです。
「イエスの荒れ野での四十日の歩みとイスラエルの民の四十年の旅路を重ね合わせる松田神父様の解釈を聞きながら私は、イエスはイスラエルの民の荒れ野での「失敗」を帳消しにしてあげようとしたのではないだろうかと思いました。
イエスはご自分の荒れ野での四十日を通して、イスラエルの民の荒れ野での四十年の旅を「やり直してあげた」ということです。イスラエルの民が荒れ野での「誘惑」にことごとく負けてしまったのを、イエスがことごとく打ち勝つことによって、民の失敗を帳消しにし、あのとき「約束の地、憩いの地」へと入れずに今もさまよっている民をイエス自らが先頭に立って、まことの「約束の地」である「神の国」へと導いて行こうとされたのではないでしょうか。そう、イエスはまさに荒れ野をさまよう、弱い私たちを一人も失うことなく、まことの「約束の地」に導いてくださる、新たなモーセ、本当の「救い主」なのでは・・・。
松田神父様の説教、それを通していろいろと思い巡らすことができたこと、このような恵みを神が与えてくださったことに感謝いたします。
