カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「シラ書27章4―7節」
この朗読箇所が選ばれているのは、本日の福音朗読に関連していると考えられているからです。福音朗読では三つのたとえが語られていて、その三つ目のたとえで「木は、それぞれ、その結ぶ実によってわかる・・・善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し・・・人の口は、心からあふれ出ることを語るのである(ルカによる福音6章44―45節より)」と語られています。このイエスのたとえと本日のシラ書の「樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けば分かる(6節)」のたとえを同じメッセージを伝えていると解釈しているのです。この解釈に従えば、善い人が結ぶ「良い実」とは「人の口から、あふれ出ること(言葉)」であり、シラ書では「話」であることになります。
けれども、私たちは知っています。人は「心にもないこと」を「話す」ことができるのです。本来、「悪いものを入れた倉」であっても「良いもの」を捏造することができます。
イエスが言いたいことは、「人間の心」からあふれ出る言葉ではなく、「神の思い」からあふれ出る言葉こそが「良い実」であるということではないでしょうか。
「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ(マルコによる福音13章11節)」
私たちの「心の倉」というのは所詮、「良いもの」よりもむしろ「悪いもの」がたくさんある「悪い倉」なのです。
「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ(創世記8章21節)」
私たちは「神の心の倉」から取り出すことによって初めて「良い実」を結ぶことができるようになるのです。そのためには、絶えず聖霊の導きを求め、聖霊に照らされて、自分の思い、考えではなく、神の思いに従って「言葉」を口にすることによって、「善い木」となることができるのです。
大切なことは「何を話そうか」と自分の心の中で思いめぐらすのではなく、自分を神の思いの中に開いて行って、神が私に「何を話してほしいのか」を求めることです。それは「祈り」がなければ、「聖霊の導き」がなければ、できないことです。
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一15章54―58節」
本日の第二朗読のパウロのコリントの教会の信徒への手紙は、先々週から続いている「死者の復活」についての議論の続きです。
本日の箇所でパウロは次のように語ります。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です(56節)」
この言葉によってパウロは「「肉体的な死」だけではなく、律法による「霊的な死」についても語ろうとしています。このテーマはパウロの書簡にたびたび表れる、パウロにとって自己の生き方の本質に関わる大きなテーマです。
「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら『正しい者は信仰によって生きる』からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。(ガラテヤの信徒への手紙3章11―12節)」
信仰こそが人を生かし、律法は人を殺してしまう、というような考え方はパウロ自身の体験から生じています。パウロは熱心な律法主義者でした。
「先祖からの伝承(口伝律法をも含めた600箇条にも及ぶ律法)を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。(ガラテヤの信徒への手紙1章14節)」
しかしパウロはいつからか、自分が律法によってがんじがらめに縛られているかのような息苦しさを感じ始め、律法から解放されたかのように自由な信仰に生きるキリスト者に出会うことによって、その束縛感はますます強くなって行ったのではないかと思えます。ある意味、パウロがキリスト者を迫害したのは、彼彼女らへの羨望と嫉妬と、またこれまでの自分の生き方が否定されることへの恐れであったのかも知れません。けれども、「律法」はパウロの中に深く根を下ろしていて、それを き抜くことはパウロという存在をも崩壊させかねず、パウロはもがき苦しみました。
そして、ついにその「古いパウロであったサウロ」は死んだのです。それがダマスコへの道にあってキリストと出会い、大地に倒れ伏したことであったのです。パウロは「目が見えず、食べも飲みもしなかった(使徒言行録9:9)。」これはまさに「死んだ状態」です。そして「三日目」に目が開け、洗礼を受けて食べるように、生きるようになったのです。パウロはすでに「霊的な復活」を体験していたのです。だからこそ誰よりも「復活」のすばらしさを知っていて、新たな「からだの復活」への希望と期待を抱くことができたのだと思います。
福音朗読「ルカによる福音6章39―45節」
本日の福音も、先々週からの「平地の説教」の続きです。本日の箇所では三つのたとえが語られています。
ひとつ目のたとえ(39―40節)では「盲人が盲人の道案内をすることができようか(39節)」と語られます。この「盲人」は肉体の目が見えていないことではなく、霊的な、信仰による目が見えていない私たちのことを指しています。肉体の目は、まさに「見える世界」しか見ません。しかし信仰者である私たちは「見える世界」の背後に広がっている、「見えない世界」である「神の思い」を読み取らなければなりません。
その「信仰の目」を養うために「十分に修行を積めば(40節)」と言われています。ただ、この新共同訳による翻訳は間違ってはいませんが、原文のギリシア語では別の翻訳も可能であると、聖書学者の雨宮慧神父様は書かれています。雨宮神父様によると、この箇所は「神があなたを完全にすれば」と翻訳することも可能だということです。(「主日の聖書解説〈C年〉」教友社202頁)
「修行を積めば」では自分自身の「努力」によって「信仰の目」が養える、というような意味合いになります。けれども、「信仰の目」は私たちの努力によって開くようなものではなく、神の恵みによってこそ開くものであると思えます。「神があなたを完全にすれば」と翻訳すれば、そのような意味合いになるのです。
私たちは盲人バルティマイのように必死になって、イエスに向かって「目が見えるようになりたいのです(マルコ10:51)」と祈り求めるべきなのです。
ふたつ目のたとえ(41―42節)では、イエスは私たちに「まず自分の目から丸太を取り除け(42節)」と言われます。
「自分の目の中の丸太(41節)」と「兄弟の目にあるおが屑(同節)」とが対照的に並べられていることから、「おが屑」は「小さな罪」、「丸太」は「大きな罪」を意味していると考えて、私たちは大きな罪を犯していながら、他人の小さな罪を非難する傾向があるということをイエスは指摘されている、というような解釈があり、ひとつの解釈として間違っていないと思います。
ただ、むしろこの「丸太」は私たちの「信仰の目」をさえぎってしまう、覆い隠してしまうもののたとえではないでしょうか。そのように考えるならば、「丸太」は「執着」のたとえであると解釈することができると思います。
「執着」はこの世的な地位や名誉、財産への欲望のようなものでもあれば、また他者への「情欲(愛ではありません)」「憎悪」「怒り」のようなものでもあるでしょう。
いずれにしても何かへの「執着」は私たちを自己という「檻(おり)」の中に閉じ込め、神の思いから き離してしまいます。そして、他者や世界を見る眼差しが、自らの執着から生じる激情によって覆われ、歪められてしまいます。もちろん、「信仰の目」が入る余地は、全く無くなってしまいます。
今週の水曜日は「灰の水曜日」です。四旬節が始まります。四旬節は「回心」の時です。「回心」のために私たちは、私たちを神から き離し、自分という牢獄の中に閉じ込めてしまう「執着」から解放される必要があります。けれどもしばしば私たちは自分が「執着」に囚われていることに気づいていない場合が多いのです。そのために黙想の内に自分をよく見つめ、神に、イエスに「私の心を執着の檻から解き放ってください」と心から祈り求めましょう。
