2025年2月23日 年間第7主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一15章45―49節」

今週の第二朗読は、先週の第二朗読の続きです。先週では、コリントの教会の信徒の中に「死者の復活」を信じない者たちがいることをパウロが非難し、復活信仰を欠いてしまえば、キリスト教の信仰はむなしいものになると戒めていました。今週では、パウロは復活信仰について、アダムとキリストを比較して説明しようとしています。

アダムは「命のある生き物」であったのですが、「最後のアダム」であるキリストは「命を与える霊となった」とパウロは語ります(45節)。そのためにアダムは「自然の命の体」を持ち、キリストは「霊の体」を持っていることになるのです(46節)。ただ、「体」と言う場合にパウロはその存在の「在り方」についてではなく「生き方」について語っていることに注意する必要があります。

「最初の人=アダム」は「地に属する者」であり、「第二の人=キリスト」は「天に属する者」である(47節)と表現していますが、「地に属する者」とはこの世的な、地上的価値観に従って生きている者、「天に属する者」とは、神の思い、福音的価値観に従って生きる者であると、パウロは言いたいのです。

キリスト者は「地=この世」に生きながらも、「天=神の思い」に従って生きようと努力する者であるということです。それはキリストのように生きることであり、「キリストの似姿」になろうとする努力です。けれども、地上においては私たちは「完全なキリストの似姿」になることはできません。

そのために「復活」が必要であると、パウロは言いたいのではないでしょうか。

「復活」によってのみ、キリスト者は「完全なキリストの似姿」になることができる、それが「霊の体」になることであると思います。それによって、私たちは完全に「天に属する者」になれるのです。

それを「肉の体」から「霊の体」に変化する、というような存在の「在り方」の視点で考えてしまうと間違えてしまうことになる、と思います。それでは「復活」が「魔術」のようなものになってしまうのではないでしょうか。

洗礼の秘跡もそうです。洗礼を受けたことによって、私たちの「体」が何か変化するわけではありません。「霊」の次元において変わるのであり、それは「生き方」の変化として具体化します。「復活」もそのような視点で考えるべきものであると思えます。

 

福音朗読「ルカによる福音6章27―38節」

本日の福音も、マタイの「山上の説教(5章―7章)」の並行箇所であるルカの「平地の説教(6章20―49節)」の続きです。

本日の「あなたがたは敵を愛しなさい(35節)」という教えは人類の歴史上、初めて文字にされたのではないかと思えるほど、衝撃的な、過激と言ってもいい言葉であると思います。実際に現代世界においても、国家が他の国家と戦争状態になってしまえば、それぞれの国民は互いに「敵」となり、「敵」の国民であれば「殺人」までもが許容されるという状況が続いていて、「敵を愛しなさい」は社会的な常識を超えた過激な教えであり続けているのです。聖書学者の雨宮慧神父様は「敵への愛」は「私たちの自然の感情を超える(「 主日の聖書解説〈C年〉教友社191頁より)』ものである」と書かれているほどです。

それでは不可能とも思える「敵への愛」を可能にするためには、どうすればいいのでしょうか。それについてのヒントが第一朗読の「サムエル記上26章2、7―9、12―13、22―23節」によって示されています。

ダビデを亡き者にしようとして執拗に追いかけ回すサウル王は、ダビデにとって「敵」以外の何者でもありません。その「敵」であるサウル王が部下と共に無防備に眠り込んでいる場に、ダビデは遭遇します。ダビデも、彼の従者であるアビシャイもこの状況を神が与えたものと考えます。けれどもその神の思いにたいする二人の解釈は、全く異なったものでした。アビシャイは「神がサウル王をダビデの手に渡された」と考えますが、ダビデは「神が私を試そうとされている」と考えるのです。アビシャイの解釈は、サウル王を「敵」とした場合のきわめて人間的な「自然な感情」に基づいています。それに対してダビデは人間ではなく、神の視点に立って考えようとしているのです。

神の視点に立てば、サウル王は「敵」ではなく「主が油を注がれた方(9節)」になるのです。そのサウル王を殺害することは、神の思いに反し、神のご計画を阻止することになってしまいます。ダビデはサウル王個人ではなく、サウル王の背後におられる「神」の存在を信じて、判断するのです。

私たちも目の前にいる相手を、ただ人間と人間という一対一の閉ざされた関係性の中で見るのではなく、お互いを包みこんでいる「神の思い」の中で相手を見ることによって、相手を「敵」とする「自然な感情」から解放されることの可能性が生じてくると思えます。それは何よりも、どんな人であっても、「神に愛されている人」として認識することが出発点であると思えます。

自分にとって「敵」と思える人であっても、自分と同じように「神に愛されている」と認めることによって、もはや「敵」ではなく、「神に愛されている仲間」「友」となることができると思います。

「わたしたちが(人を)愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです(ヨハネの手紙一4章19節)」

「神の愛」は誰をも除外しません。「神の愛」の中には「敵」はいません。

この文脈の中で「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい(31節)」という教えが出て来ます。この教えはキリスト教だけではなく、多くの宗教や哲学で見出される教えとして「黄金律」と呼ばれています。イエスもこの「黄金律」を肯定して、人びとに伝えようとしたのでしょうか。

私はそうではないと考えています。この言葉は並行箇所である、マタイの「山上の説教」の中の言い回しを用いれば、次のようになるのではないでしょうか。

「あなたがたも聞いているとおり、 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」

そして「自分を愛したところで(32節)」「自分をよくしてくれる人に善いことをしたところで(33節)」「返してもらうことを当てにして貸したところで(34節)」

それらは「どんな恵みがあろうか」という文脈に続いていると思えるのです。

イエスは「黄金律」を肯定しているのではなくて、その限界性をいくつかの例を持ち出しながら具体的に指摘して、それを超える教えを示そうとしているというように私には読めるのです。

その「限界」とは「報いを求めて」ということにあると思います。

「人にしてもらいたいと思うこと」を「人にする」ということは、それを人にすることによって、「お返し」として「自分が相手からしてもらいたいと思うこと」を自分にもしてもらえる、つまり「報い」「お返し」がもらえることへの期待が「黄金律」の前提にあるのではないでしょうか。

そのような「黄金律」にあっては「敵を愛する」ということは不可能と言ってよいでしょう。「敵」から「お返し」「見返り」をもらえることは考えられないからです。「黄金律」は「敵」を除外しているといえます。

だからこそイエスは「しかし」と言ったうえで、「あなたがたは敵を愛しなさい」と命じられるのです(35節)。この「しかし」は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」にかかっていて、それに反対するための逆接の接続詞であると考えるのです。

そして「敵を愛しなさい」「何も当てにしないで善いことをし、貸しなさい」というイエスご自身の教えを提示されるわけです。その根拠として「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである(35節)」と言われます。

あえてその「報い」を言うならば「いと高き方の子となる」ことであり、「人」からではなく「神」から来る「報い」です。

そして、イエスは自らの「キリストの黄金律」を提示されるのです。

「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい(36節)」

「キリストの黄金律」は、「人の思い」ではなく「神の憐み」を私たちの行動原理とするようにと促すのです。