2025年2月16日 年間第6主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

第一朗読「エレミヤの預言17章5―8節」

エレミヤは紀元6世紀前半、バビロニア帝国によるユダ王国への侵略、その結果としての「バビロンの捕囚」が始まる直前に預言者として活動しました。ユダ王国の王を始めとする主だった人びとはエジプトの軍事的支援によって、バビロニアの軍事的脅威に対抗しようと考えました。けれどもエレミヤは降伏することが神のみ旨にかなうことであり、バビロンでの捕囚生活をも受け入れることを促しました。当然、そのような預言はユダの人びとの激しい反発を招き、エレミヤは迫害を受けました。

本日の朗読箇所では主の言葉として、エジプトに頼ろうとするユダの人びとを「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人(5節)」であるとして、「呪われよ(同節)」と強く非難しています。

この節の中において「人間」と「人」というように、日本語に翻訳する際に言葉を使い分けています。これは原文のヘブライ語ではそれぞれ別の言葉が使われていることに対応するためです。「人間」は「アーダーム」で、「人」は「ゲヴェル」というヘブライ語が使われています。「アーダーム」は「アーダーマ(土)」を語源としていて、直訳すれば「土の人(創世記の最初の男である『アダム』の名)」ですが「土から生まれ土に戻る者」として人間存在の弱くはかない面を表しています。「肉なる者」も同様です。「主なる神は土の塵で人を形づくり(創世記2章7節)」とあるように、聖書では人間の「肉」は「土」と同じだからです。

対して「ゲヴェル」は「力ある者」で人間存在の偉大さを表すための言葉です。ただその「力」は人間独自のものではなく、あくまでも神によって与えられた「力」です。「神はご自分にかたどって人を創造された(創世記1章27節)」からこそ人間は「偉大」なのです。

そのため、人は神を信頼し、神をよりどころとすることによって「ゲヴェル」となり、神から祝福を受けることができるのです(7節の趣旨)。それが「エジプト」という人間に過ぎない者を信頼し、よりどころとする者は「アーダーム」に過ぎない者として滅び行く存在となるのです。

私たちが「アーダーム」となるか「ゲヴェル」となるかは、人間ではなく神を信頼できるかどうかにかかっているのです。

 

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一15章12、16―20節」

本日のパウロの手紙から、当時(紀元54年ごろ)のコリントの教会の信徒の中に「死者の復活」を否定する人びとがいたことがわかります。

「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか(15節)」

ただ「ある者」たちは「キリストの復活」を否定したわけではなく、自分たち「信徒の復活」を否定したのです。その論拠は「キリストの洗礼を受けたことによって人は霊的に『完成』されたので、さらに新たに『復活』する必要はない」というようなものであったそうです。けれども実はこの問題は神学的論争だけではなく、ギリシア思想の影響が背景にあったと考えられます。

「使徒言行録」の17章にアテネの中心部の広場(アレオパゴス)で、アテネの市民に向けてのパウロの初めての宣教が報告されています。アネテというギリシアの中心的都市でのギリシア人の反応は次のようなものでした。

「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った(32節)」

当初ギリシア人たちは、パウロの語る旧約に基づく神に関する考え方に興味をもって耳を傾けていましたが、「死者の復活」について語り出すと、一斉に背を向けて立ち去ったのです。ユダヤ文化に定着していた「復活」は、ギリシア文化においては受け入れがたい思想であったからです。

ギリシア文化においても「霊魂の不滅」という思想は広く共有されていました。

それに対して「肉体」は、「霊魂」とは相いれない、むしろ対立する別個の「存在」であり、「死」をもって滅びるべき「物質」にすぎないものでした。そのような「肉体」がなぜ「復活」する必要があるのか、ギリシア人の思考の枠内においては受け入れがたい馬鹿げた考えに思われたのです。

このようなギリシア的な思想に慣れ親しんで来たコリントの信徒にとっても、「体の復活」は強い違和感を感じさせるものであったと考えられます。

実はこのような「違和感」を、現在の日本に住む私たちもどこかで感じているのではないでしょうか。信仰宣言で「からだの復活を信じます」と唱えていますが、改めてこれについて思い巡らしてみる必要があるのでは、と思えます。

日本的な思想の流れにおいても「霊魂の不滅」という発想はあり、対して「肉体」は滅びるべき、むしろ「穢れ」にまみれた「モノ」という発想があるのではないでしょうか。「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」という平安中期に書かれた源信の「往生要集」の冒頭の言葉は広く知られていますが、「穢土」の言葉には「穢れたこの世」と共に「穢れた肉体」という意味が含まれていると受け取られて来たように思われます。私たちもどこかで「霊魂」として神の愛の中で永遠に生きることを信じることはできていても、「からだの復活」についてはあまり「実感」を持てては・・・いない、のではないでしょうか。

今日はここまでにしますが、キリスト者として「からだの復活」という神秘を絶えず心に留め、皆さんと一緒に思い巡らして行きたいと思います。

 

福音朗読「ルカによる福音6章17、20―26節」

本日の箇所はマタイによる福音の「山上の説教」の冒頭部分(5章1―12節)のルカによる福音での並行箇所に当たります。

マタイでは「山に登られた(1節)」で始まりますが、ルカでは逆に「山から下りて、平らな所にお立ちに(17節)」なって説教を始められます。そのためマタイの「山上の説教」にたいしてルカのものは「平地の説教」と呼ばれています。さらにルカは「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた(20節)」として、イエスは弟子たちや群衆よりも「低い所」にいたとしています。これは象徴的な表現で、イエスは権威主義的に高みから教えるのではなく、社会の最底辺に立って、社会的弱者の立場から発言されることを表しています。

マタイでは「心の貧しい者」で始まりますが、ルカでは「貧しい者」です。マタイにおける「貧しさ」は霊的な、精神的な状態を表していますが、ルカでは明らかに物質的な、現実的な「貧しさ」を表しています。しかもその「貧しい」にはギリシア語の原文では「プトーコス」が使われています。「貧しい」という意味の本来のギリシア語は「ペネース」です。「プトーコス」は当時のギリシア語の用例では「何も持たず、無一文で生きている物乞い」の状態を指します。現在の社会で言えば「ホームレス」という状況に当たると言えます。

つまりイエスは「ホームレスは、幸いである」と言われているのです。これは私たちの常識を打ち崩すような衝撃的な言葉と言っていいと思います。むしろ、イエスはその「衝撃」を私たちに与えようとされていると思えます。

本日のイエスの「衝撃的」な教えを解釈するためには、本日の朗読箇所が前半部(20―23節)と後半部(24―25節)に分けられていて、しかも対象的な構造になっていることがポイントになります。

前半 後半

☆貧しい人びとは幸い *富んでいるあなたがたは不幸

☆今飢えている人びとは幸い *今満腹している人びとは不幸

☆今泣いている人びとは幸い *今笑っている人びとは不幸

☆人びとに憎まれるとき幸い *すべての人にほめられるとき不幸

後半で「富んでいる」「満腹している」「笑っている」とありますが、それ自体はけっして「不幸」ではありません。むしろ「幸い」でしょう。けれどもそれらを前半の「貧しい」「飢えている」「泣いている」と並べて、同時進行しているとした時に、後半の有りさまは「不幸」になるのです。

「貧しい人びと」がいるのに平然として「富んでいる」、「飢えている人びと」がいるのに平然として「満腹している」、「泣いている人びと」がいるのに平然として「笑っている」、それが「不幸」だとイエスは言われているのです。この教えがたとえ話として語られているのが、同じルカによる福音の「金持ちとラザロ(16章19―31節)」です。

ある金持ちの屋敷の門前にホームレスのラザロが横たわっています。食物もなく金持ちの家の残飯でも食べたいものだと思っていました。けれども金持ちはラザロを目の前にしながら、平然とぜいたくに遊び暮らしていました。ラザロがまるでそこに存在しないかのように全く関わろうとしませんでした。やがて金持ちは死んで盛大に葬られ、ラザロも死んで誰からも弔われることはありませんでしたが、天使たちが来て天上の宴へと連れて行かれました。

金持ちには天使は来ず、地獄に堕ち、さいなまれていました。金持ちが見上げるとラザロがアブラハムの傍らで天の宴の中にいるのが「はるかかなたに(23節)」見えました。それで金持ちはラザロをよこして、指先に浸した水で少しでも冷やさしてほしいとアブラハムに訴えますが、アブラハムは「『わたしたちとお前たちとの間には大きな淵があって(26節)』越えて行くことはできない」と答えます。

金持ちの罪は「無関心の罪」でした。目の前に苦しむ人がいながら、まったく「無関心」で心を痛めることなく、平然と「富み」「満腹で」「笑って」暮らしていたのです。ただ、「地獄に堕ちた」ことが「不幸」なのではありません。「大きな淵」が「不幸」なのです。

「神の国」の喜びから「はるかかなた」に隔てられ、戻ることのできない「大きな淵」に阻まれていることこそが「不幸」なのです。

マザー・テレサも「愛の反対は無関心です(ノーベル平和賞を受賞したユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルの言葉)」と言っているように、「無関心」は「神の愛」からも真逆の位置にあって、人を神の愛から「はるかかなた」に引き離すのです。

どんなに豊かで富や財物に囲まれていようとも、神の愛から引き離されていることが「不幸」なのです。

これを思う時、私は戦慄せずにはおれません。私たちは今、ネットなどを使って簡単に世界中の情勢を見て取ることができます。金持ちが目の前に横たわるラザロを見ていたように、目の前に世界中の「貧しい人びと」「飢えている」「泣いている人びと」を「今」見ることができるのです。その人びとにたいして私が「無関心」であるならば・・・、と思うと恐ろしくなるのです。

私に何ができるのかは、わかりません。でもまず「関心」を持つこと、心に「痛み」を感じること、そこから始めることが大切だと思えます。