カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「マラキの預言3章1―4節」
先週の第一朗読の「ネヘミヤ記」では、「バビロンの捕囚(紀元前586―539年)」から解放されてエルサレムに帰ってきたユダヤの民が、神殿の再建、街を囲む城壁の修復を成し遂げて、復興の実感を噛みしめながら、律法の朗読を聞き、神を礼拝しつつ、歓喜のあまりにむせび泣く様子が感動的に描かれていました。
けれどもその「歓喜」は、数十年を経た預言者マラキの時代には急速にしぼんで行き、失望に変わっていました。それはエルサレムの復興の次に、ユダヤの民が切望していたユダヤの「国としての独立」が絶望的になっていたからです。ユダヤはあくまでもペルシア帝国の支配下にあって、帝国の管轄下にある占領地として、ユーフラテス西方管区に組み入れられていました。
ペルシア王が側近であったネヘミヤ、宮廷書記官であったエズラをエルサレムの復興のために派遣し、資金援助したのも、あくまでも占領政策の一環であり、支配地の生活また経済を安定させることによって、被支配民からの税金の安定した徴収を可能にするためであったのです。けっして「独立」を認めることではありませんでした。
ユダヤの民は自分たちが所詮は「籠の鳥」であることを悟って絶望感に陥り、神への信頼も失って行き、神殿での祭儀もおざなりになって行きました。神はマラキを通して、次のような言葉で祭司たちを非難します。
「あなたたちは、わたしの祭壇に汚れたパンをささげておきながら 我々はどのようにして あなたを汚しましたか、と言う(マラキ書1章7節)」
そのような状況にあって、神は「レビの子ら(3節)」である祭司たちを清め、正しい礼拝を行わせるために、民が待望しているメシアを送ることを明言されます。
「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる(1節)」
この預言が本日の福音朗読において、ヨセフとマリアに連れられて幼子イエスが「神殿=聖所」に来たことによって実現したと、教会は伝統的に解釈して来たので、この箇所が第一朗読に選ばれているのです。
メシアが生後40日目の無力な赤ん坊として、無名の貧しい両親に抱かれて「聖所に来られる」など、ユダヤの民は誰も思ってもいなかったでしょう。まさに意表を突いた「突如」であり、人間的な期待や思いではなく、神の思いに従って、メシアは聖所に来られたのです。
第二朗読「ヘブライ人への手紙2章14―18節」
本日の朗読箇所は「聖書と典礼」においては〔人は〕という言葉で始まっていますが、これは読者が意味を取りやすいようにという配慮からの編集部による差し替えです。新共同訳聖書の原文では「ところで、子らは」で始まっています。
ただ、この「子」はギリシア語原文では単なる「子ども」ではなく「幼子」を意味するギリシア語が使われています。「ヘブライ人への手紙」の作者が伝えたいことは、神の目から見れば私たちは「一人では生きてはいけない、保護を必要とする、幼子のような存在」であるということです。これは作者の思いではなく、イエスご自身の思いに基づいています。
イエスはゲッセマネの園で「死ぬばかりの悲しみ(マルコ14:34)」の中から、父なる神に向かって、叫ぶようにして次のように呼びかけられました。
「アッバ、父よ(マルコ14:36)」
「アッバ」とはイエスの時代の公用語であったアラマイ(アラム)語で、「父」という意味ですが、幼児語です。幼い子どもが父親を呼ぶ時の言葉で、日本語で言えば「お父ちゃん」「パパ」に当たります。
また、弟子たちに与えた唯一のイエスご自身の祈りである「主の祈り」もアラマイ語であったと考えられていて、その際の「父よ」も「アッバ」であったと考えられています。
イエスは神の前に自ら「幼子」となり、弟子たちにもそのように神に呼びかけるようにと教えられたのです。
私たちは神のご保護なしには、神が共にいてくださらなければ、生きてはいけない、弱い、小さな存在にすぎません。
逆に己の強さを誇り、自らの力のみを信じ、独力で生きて行こうとする時、人は己を「神」とします。それはアダムとエバが「神のようになろう」とした物語(創世記3章)に象徴されている、「原罪」に生きる人間の姿です。
主イエスと共に、神を「アッバ」と呼び、「幼子」となって神の愛の中に身をゆだね切ってこそ、私たちは本当の「幸い」を生きることができるのです。
福音朗読「ルカによる福音2章22―40節」
本日は「主の奉献」の祝日です。福音朗読はヨセフとマリアが神殿で生後40日の幼子イエスを主に献げた箇所が選ばれています。この箇所はイエスの誕生物語に続いて語られていて、誕生物語に属していると考えられます。なお、この後に続くイエスの十二歳の時の神殿での出来事も時系列的には少し離れてはいますが、ルカの「誕生物語」に属していると考えてもいいでしょう。
両親はイエスを主に献げるために、本来は神殿の祭壇でイエスをいけにえとして献げねばならないのですが、身代わりのいけにえを献げることによって、イエスを「あがない」出しました。その際のいけにえが「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽(24節)」であったと書かれています。これは、牛や羊などを購入することのできない、貧しい人びとのために律法が定めているいけにえでした。これによってルカは、誕生物語の「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった(2章7節)」と同様に、ヨセフとマリアが「貧しい人びと」であったことを示しています。
そのとき、シメオンが現れます。シメオンは旧約の民の象徴です。
「この僕を安らかに去らせてくださいます(29節)」という言葉は、イエスが登場したことによって新たな契約が神と人との間で結ばれ、イエスを通して新たな神の民が生まれることによって、シメオンによって代表されている旧約の民が神の救いの歴史から「去っていく」ことになるのを象徴しています。
旧約の民はイスラエル民族に限定されていましたが、イエスを通してなされる新たな契約は「万民のために整えてくださった救い(31節)」で「異邦人を照らす啓示の光(32節)」であって、全世界のすべての民が「神の民」となるように招かれることになったのです。
そしてシメオンはキリストであるイエスを「反対を受けるしるしとして定められています(34節)」と預言します。この預言は「キリストの体」である教会、その一部である私たちキリスト者一人ひとりにも向けられています。
教皇フランシスコは着任以来、「私たち教会が福音的価値観によって生きようとする時、必ずこの世から迫害を受ける」と何度も言われています。「迫害」というのは拷問を受けるというようなことではなく、教皇の表現では「生きづらくなる」ということです。この世的な弱肉強食的な論理ではなく、福音的な価値観を生きる時、この世的には「逆行」することになってしまうからです。具体的に言えば、この世的な成功や出世を得ることが困難になるということです。それは何よりもキリストの「十字架」を仰ぎ見れば、わかります。「十字架」は当時のローマ世界にあっては、この世での最大の「敗北」のしるしであったからです。
逆に言えば、教会が世の権力とうまく付き合い、この世的にうまくやっていれば、それは教会が「キリストを生きていない」しるしであるのかも知れません。
教会が「反対のしるし」である最近の例として、私は聖公会のマリアン・エドガー・バッディ主教のトランプ大統領に向けた説教を想起します。先月の1月21日、トランプ大統領は就任式の翌日、これまでの慣例にならって新大統領としてワシントン国立大聖堂での礼拝に出席しました。その中でバッディ主教はトランプ大統領に向かって「祝辞」ではなく、LGBTや移民などのマイノリティー(社会的少数者)への慈悲、配慮をさとし、トランプ大統領の「「小さな人びと」を排除しようとする政策に「反対のしるし」を明確に示したのです。トランプ大統領は強く反発し、バッディ主教は何らかの報復を受け「生きづらく」なるかも知れません。けれども、まさに「キリストのしるし」となったのです。私は教派は違えども、同じキリスト者として、バッディ主教を誇らしく思います。
