神のことばの主日のミサ
カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「ネヘミヤ記8章2―4a、5―6、8―10節」
イスラエルの民は「バビロンの捕囚(紀元前586―539年)」という民族の存亡の危機とも言える大きな苦難の時を経て、再びエルサレムに帰って来ることができました。けれども神殿は破壊され、城壁もあちらこちらが崩されたままで、街は見る影もなく荒廃していました。復興に当たっては、ユダヤ人でありながらペルシア王の献酌官(けんしゃくかん)という側近の地位にいたネヘミヤ、同じくユダヤ人でペルシアの宮廷書記官として働き律法に精通していたエズラが、ペルシア王から派遣されて、それぞれ執政官、祭司として活躍します。
やがて神殿は再建され、城壁の修復も完成し、エルサレムの街の復興がほぼ達成されます。本日の箇所はその喜びの中で、安息日にエズラが律法を朗読し、それに聞き入る民の姿が感動的に描かれています。
「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた(9節)」
民が泣くのは喜びからです。民は今、本当に「帰って来た」と感じているのです。単に物理的に故郷に帰って来ただけでなく、今、民と神を結ぶ「絆」である律法を聞きつつ、本当の故郷である、神の懐の中に「帰って来た」という実感を持つことができたのです。エズラはその民に向かって語りかけます。
「今日は、あなたがたの神、主に捧げられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない(同上)」
けれども、「泣いたりしてはいけない」と民に語りかけながら、エズラもきっと泣いていたのだと思います。
新しい神の民、キリスト者である私たちにとっての新たな「聖なる日」がまさに今日、「主の日」であり、「主であるキリストに捧げられた日」です。
私たちにとっても、この「主の日」に共に集い、神の言葉を聞き、感謝の典礼を通して神を礼拝することによって「帰って来ている」のです。地上の生活の労苦、思い煩いの中で、今日、ミサに参加することによって「神の懐」の中に帰って来ているのです。「神の懐」は「神の愛」であり、その中にこそ、私たちの真の「故郷」があるのです。
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙一12章12―30節」
本日の朗読箇所は、キリストの教会を形成する共同体がどのようなものでなければならないかを教えている、とても大切な箇所です。
特に私たちが教会共同体を運営するに当たって、絶えず心に銘記しておかなければならないのが、以下の箇所です。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです(22節)」
日本のみならず現代の社会においては「生産性」と「効率性」が最重要視されます。それを教皇フランシスコは2022年2月23日の一般謁見講話で「生産性を追い求める文化」と呼び、人間の価値も生産性によって測られ、生産性の低い高齢者や能力的に低い者が切り捨てられる「使い捨て文化」であると非難しています。まさに社会の「弱く見える部分」である「弱者」が切り捨てられるのです。
その人に「生産性」があるかどうかはテストの「点数」や稼いだ「金額」などによって数値化され、絶えず結果が求められ、他者と比較され、順列化されて、底辺にいる「弱者」が軽視され、切り捨てられて行く社会です。
けれども教会共同体ではその「弱者」こそが尊重され、中心に位置づけられるべきなのです。パウロはそのことの大切さを私たちに教えるために、以下のように書いています。
「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています(24―26節)」
弱者を見捨てることなく、逆に何とか「生かそう」として、共同体のみんなが協力し合う、これこそが「キリストの体」である教会共同体の「協力」です。
一般の社会においては少しでもよい結果、成績を得るために「協力」します。
その時には能力のある「強者」のみが選ばれて中心になり、「弱者」は排除されるか、共同体の片隅に追いやられます。そのような利益だけを求める共同体には「愛」は生まれません。教会共同体においては数字や利益ではなく、「愛」こそが最優先すべき、最大の価値なのです。さらに、キリスト教の神の愛の特徴は「弱者を優先する愛」です。
私たちは共同体の中の「弱者」を中心とし、その人びとと共に歩むのです。そのために共同体の歩みがゆっくりとなったり、もたもたすることでしょう。でも、大切なのは「結果」ではなく、その「歩み=プロセス」です。共同体がどのように「歩んだ」のかということです。弱者を置いてけぼりにして、できる人だけで突っ走ったのか、みんなで協力し合って弱者を支えて、ゆっくりとではあってもひとりの落伍者も出さずに歩んだのか、が問われるのです。
「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない(マタイによる福音18章14節)」
この、「小さな者」の一人をも切り捨てずに大切にされる神の御心を生きる共同体こそが「キリストの体」である「教会」なのです。逆にもし私たちが教会活動や行事の運営に「効率性」や「生産性」を重視してしまえば、それはもはや「教会」ではなく「正体不明の集合体」になってしまうことでしょう。
福音朗読「ルカによる福音1章1―4節、4章14―21節」
本日の朗読箇所は、まずルカの福音書の「序文」と言える箇所が冒頭に置かれ、それに続くイエスの誕生物語などが記述されている2章、ヨルダン川でのイエスの洗礼などが記述されている3章が省かれて、4章のイエスが安息日に初めてナザレの会堂で聖書を朗読する箇所につなげられています。このように朗読箇所の選択が変則的になっているのは、本日の年間第3主日のミサの「神のことばの主日」という意向に沿うためです。
前半の「神のことば」の意向に関連するポイントは「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい(1:4)」にあります。ルカが福音書という「物語を書き連ねよう(1:2)」としているのは「教えを確実なもの」にするためなのです。私たちの信仰は「福音書」に書かれたイエスを中心とした出来事を読むことによって「確実」なものになるのです。逆に言えば「福音書」に裏付けられていない信仰は「不確実」なものにすぎません。
後半の「神のことば」の意向に関連するポイントは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(4:21)」というイエスの言葉にあります。この言葉は2000年前のナザレの会堂においてだけでなく、今、香里教会の聖堂において朗読され、皆さんが「耳にしたとき」にも「実現した」のです。
「神のことば」は「古典」にはなりません。絶えず、どの時代、どのような場所にあっても、それが朗読された時、実現し、その状況に合った意味をもって「現在化」するのです。2000年前ではなく、今、イエスが私たちに向かって語られ、その言葉は私たちの「今」の状況に、生活に、「響く」のです。私たちの生き方を照らし、導きます。だからこそ、「神のことば」は「生きたことば」なのです。
本日は「神のことば」についてのすばらしい教えが書かれている文章を皆さんに紹介したいと思います。「キリスト教の礼拝(J・F・ホワイト著 日基教出版)」の225ページからです(若干、本文に補足説明と省略を加えています)。
「聖書の中に包含された共同の記憶が教会に教会本来のアイデンティティーを与える。こうした記憶を継続的に反復することがなければ、教会というものは、善意に満ちてはいるものの真のアイデンティティーをもたない正体不明の集合体となり果ててしまうことだろう。聖書の朗読と解釈を通して、キリスト者はイスラエルや初期の教会が経験したことを(すなわち、エジプトの奴隷状態からの脱出、カナンへの進出、バビロンの捕囚、メシアの待望、受肉、十字架、復活、そして初代教会の宣教といったことがらを)彼ら自身の経験としてよみがえらせ、みずからのものとするのである。教会の存続は、まさにこれらの記憶と希望をみずからの中に強めることができるかどうかという点に懸かっている。」
私たちの教会が存続できるかどうかは「神のことば」に懸かっているのです。
