カトリック香里教会主任司祭:林和則
福音朗読「ヨハネによる福音2章1―11節」
本日の福音の箇所は「カナの婚礼」と呼ばれている出来事ですが、四福音書の中でヨハネだけが記録しています。ヨハネはこの出来事を「最初のしるし」としてイエスの宣教の始まりに位置付けています。華やかな婚礼の場でもあり、ぶどう酒の奇跡、またそれを受けての世話役のユーモアに満ちた応答など、祝典的な明るさと楽しさ、喜びに満ちています。
実はこの「祝典」は「神の国」の喜びの先取りなのです。それは冒頭の「三日目に(『聖書と典礼』では[そのとき、]となっています)」からわかります。福音書の中で「三日目」という言葉は「復活」の象徴です。ヨハネはイエスが宣教を始めるに当たって、やがて復活によってもたらされる「神の国」の喜びを先取りして、福音を読む者に示していると言えます。ヨハネは生前のイエスを復活後のキリストと重ね合わせて描くというように、このような重層的表現をよく用いています。
ただ多くの信徒の方がたから、「カナの婚礼」をすなおに受け入れることができないという声を耳にします。その原因は、イエスの母マリアに向けた次の言葉にあります。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません(4節)」
このイエスの無礼ともいえる、自分の母親を突き放すような言い方につまずいてしまうからです。そのために、ヨハネは聖母マリアをあまり大切に考えていないのではないか、と疑ってしまう人もいます。
それは違うということは明確に断言できます。「カナの婚礼」の冒頭では「イエスの母がそこにいた」と書かれています。「イエスがそこにいた」ではなく「イエスの母」です。イエスはその後で「イエスもその弟子たちも」というように、マリアに続くようにして登場します。つまり「カナの婚礼」ではマリアが中心、「主役」なのです。イエスでさえも「準主役」というような位置にいます。
「カナの婚礼」ではマリアは「母」であるよりも「使徒」として積極的に、中心的に働いているのです。
マリアのイエスに向けた言葉「ぶどう酒がなくなりました(3節)」には、実は二重の意味が込められています。ひとつは婚礼の場において人びとの喜びを増し加えるための道具である「ぶどう酒」が足りなくなってきたことですが、もうひとつは当時のユダヤ教によっては、もはや民を救うことができなくなってしまっていることだったのです。イエスの時代のユダヤ教は、600以上にも膨れあがった律法の戒律によって民をがんじがらめに縛りつけ苦しめていました。
聖書的に表現すれば、モーセやアブラハムを通して結ばれてきた「旧約」の契約ではなく、新たな「新約」の契約が必要となったということです。マリアはその新たな契約はイエスを通して結ばれることを確信していて、イエスに新たな教え(キリスト教)を始めることを願ったのです。
だからこそ、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と答えたのです。
ヨハネの福音に於いて「イエスの時」というのは「十字架の時」を指すからです。最後の晩さんに於いてイエスは「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください(17:1)」と父に祈ります。この「時」こそが翌日の「十字架の時」であったのです。新しい契約、新しい教えは神の子が自らをいけにえとして捧げる「十字架の時」によって初めて完成されるものであったから、イエスは「まだその時は来ていませんよ」とマリアに告げられたのです。ある意味この言葉によって、華やかな婚礼の場において、すでに「十字架」が示されていたと言えます。
けれども、マリアはそれを聞いていなかったかのように「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください(5節)」と召し使いたちに指示します。ここにも二重の意味があります。ひとつはこの婚礼の場に於ける召使たちへの指示、もうひとつはキリストを信じて、キリストの弟子(召し使い)となる全ての人(もちろん私たちも入っています)に向けて「イエスの教えられることは全て、その通りに守り、行いなさい」という指示です。それは人びとにキリストを指し示す、使徒としての働きです。
それに応えるかのようにイエスは動かれます。イエスにとって愛する母のとりなしを無視することはできないからです。イエスが指示した水がめが「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ(6節)」であったとあります。ここからも「ぶどう酒」が新たな神との関係を暗示していることがわかります。そこに入れられる水はユダヤ教において、神にふさわしく礼拝を行うための清めの水でした。それをイエスは新たな礼拝のための「ぶどう酒」に変えられたのです。
それを飲んだ世話役の言葉「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました(10節)」にも二重の意味があります。これまで多くの預言者が現れ、神の言葉を伝えて来ました。けれども「今」、神の子であるイエスの到来によって、完全な、もっとも「良い」神の言葉がもたらされたのです。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(ヘブライ人への手紙1:1―2)」
ヨハネの福音がマリアを大切に、重要視していることがわかる、もうひとつの箇所が、イエスの宣教の最後に於ける、十字架の場面です。
「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て(19章25―26節)」
イエスは十字架の上から母マリアと愛する弟子を見つめて、母マリアに語りかけます。
ここに登場する「愛する弟子」は、以前は使徒ヨハネと考えられていましたが、現在の聖書研究ではヨハネではないと考えられています。なぜなら、他の福音書では弟子たちはイエスが逮捕された時に皆、逃げてしまったと書かれてあり、十字架のそばに弟子の誰かが立っていたとはひと言も書かれていません。この「愛する弟子」について説明すれば長くなりますが、ひと言で言えば、時代を超えて、このヨハネの福音を読んでいる私たち一人ひとり、その群れである「教会」であると考えられています。イエスは目の前の母マリアと共に、私たち日本の教会にもつながる全教会の信徒をそこに見ておられたのです。そしてイエスは母マリアに言われます。
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です(26節)」
この時もイエスはマリアを「婦人よ」と呼びながら、十字架上で、マリアを私たち、また教会の母として任命されたのです。これだけでもヨハネが教会に於けるマリアの存在を重視していたことは明らかです。
さらにヨハネは、イエスのこの世での宣教の初めに「カナの婚礼」を置き、そこでマリアを中心とし、最後の十字架の時にマリアに大きな役割を与えています。つまり、これはこの世に於けるイエスの宣教の初めと終わりにマリアを中心的に置くことによって、聖母マリアの存在によってイエスの宣教を枠づけしている、取りかこんでいる構造にしていると言えます。ヨハネはこうすることによって、イエスの宣教はいつも母マリアの思い、祈りによって包まれていたのだと私たちに伝えたかったのではないでしょうか。
ではなぜ、イエスは「母」ではなく「婦人よ」と呼びかけたのでしょうか。それはイエスがマリアを自分だけの母ではない、全人類のための普遍的な存在であることを示すためだったのではないでしょうか。「私のお母さん」だけではない「みんなのお母さん」という思いを込めたのだと思います。
このすぐ後でイエスは「成し遂げられた(30節)」と言われて、息を引き取られます。これはイエスの宣教の最後の仕上げが、マリアを教会の母とすることであったのだと示唆していると思います。この後の復活、昇天を経てイエスが目に見えない神の姿に戻られた後、「教会」が目に見える「キリストの体」として生まれます。その「教会」を「母マリア」に託して後、イエスは安心して息を引き取られたのです。
