カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「イザヤの預言40章1―5、9―11節」
本日の「イザヤの預言」は「バビロンの捕囚(紀元前597―539年)」の末期に活動した第二イザヤと呼ばれる預言者の書の冒頭部分です。
この箇所の5節までは、ある日イザヤが幻の中で神によって天上へと引き上げられ、そこで行われていた神と天使たちの会議の場に同席させられているという設定になっていると聖書学では考えられています。
その中で60年近くにわたった「バビロンの捕囚」という出来事は、神から離反した神の民に神が与えた「苦役の時(2節)」であったことが神ご自身の口から語られています。けれども神は民を回心させるために大きな苦しみを与えながら、ご自分も大きな痛みを背負われていたことが「慰めよ、わたしの民を慰めよ(1節)」と天使たちに「必死」になって呼びかけておられるかのような神の姿から感じ取ることができます。
また、「(イスラエルの民は)罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた(2節)」という言葉には民の苦しみにたいする神の悲痛な思いがこめられているように思えます。
神が私たちを「「こらしめる」ために苦しみを与えられる時、それは当然の報いであるというように平然として与えられるのではなく、「痛み」をもって与えておられることを、私たちはいつも心に留めておかなければなりません。
そして神は「苦役の時」を終えた民を一刻でも早くエルサレムに連れ帰るために、バビロンとエルサレムの間に横たわる広大な「荒れ地」の谷や山や険しい道や狭い道を造り変えようとされるのです(3―4節)。
それは回心して民が「生まれ変わった」ことにたいしての神の応答として、世界を「再創造」されることであったのです。この神の「再創造」が本日の「主の洗礼」の主題である「洗礼」と関連するために、本日の「イザヤの預言」の箇所が第一朗読として選ばれています。
次の第二朗読でパウロが語っているように、私たちの受けた「主キリストの洗礼」は私たちを新たに生まれさせ「再創造」するのです。そして「再創造」された私たちにとって、この世界もまた「再創造」されるのです。
それは私たち自身が洗礼を受けた喜びを思い起こしてみればわかります。
私も20歳の時に洗礼を受けましたが、それによって本当に私の生きて来た世界が「変わり」ました。それをひと言で言うならば、それまでのただ「偶然」に存在していた世界が、「神がともにいる」という「意味」のある世界に変わったということです。
第二朗読「使徒パウロのテトスへの手紙2章11―14節、3章4―7節」
本日の、パウロの宣教の協力者であったテトスへの手紙の中で、パウロはキリストの洗礼を次のように説明しています。
「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い(洗礼)を通して実現したのです(5節)」
キリストの洗礼は、聖霊によって人を「新たに生まれさせ」「新たに造りかえる」のです。それはキリストの受けられた「死と復活」が、聖霊の働きによって、私たちの命にも実現するからです。私たちはキリストの洗礼を受けることによって、古い自分に死に、新しい自分に生まれかわるのです。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマの信徒への手紙6章4節)
単に生まれかわるだけでなく、「新しい命」に「造りかえられる」「再創造」されるのです。それは神に創造された「被造物」の人間から、「神から生まれた神の子」にかえられることです。もちろん目に見える肉体は人間のままです。目に見えない「命」が「神の子の命」に「かえられた」というよりも「ひとつになった」のです。ただ、それはまだ「完成」していません。私たちは生涯をかけて少しでも、「神の子」に近づけるように努力して行くのです。そのための「模範」が聖書に書かれているキリストの姿にほかなりません。
このような「洗礼」という偉大な恵みを受けることができたのは、私たちがそれにふさわしい者であったからでしょうか。それに値するような業を成しとげたからでしょうか。パウロははっきりと次のように書いています。
「神は私たちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました(5節)」
私たちが何かをしたからでもなく、その恵みに値する者でもなく、ただただ一方的に神が無償で私たちに洗礼という救いを与えてくださったのです。それはひとえに私たちへの「神の憐み」「神の愛」によるのであって、私たちはそれに感謝して、応えていくだけなのです。
その「応え」こそが、神の子としてキリストのように生きて行くことです。その根本にあるのが、キリストのように隣人である兄弟姉妹を愛することです。
「愛する」に当たって何らかの「見返り」を求めてはいけません。イエスが十二使徒を宣教に派遣される時に言われたように「ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイによる福音9章8節)」なのです。
私たちは神から「ただで」愛されて、「ただで」洗礼の恵みを与えられたからです。
福音朗読「ルカによる福音3章15―16節、21―22節」
本日の福音は「主の洗礼」を記念する典礼暦に合わせて、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受ける箇所で、C年ではルカが選ばれています。
ただ、皆さんにしっかりと理解しておいて頂きたいことは、イエスの真の「洗礼」は本日の洗礼者ヨハネから受けた洗礼ではありません。
イエスが受けた真の「洗礼」は、イエスが受けられた「死と復活」という「新しい過越」の出来事なのです。イエスが「死と復活」を受けられたからこそ、私たちの命の中でも「死と復活」が実現するという「キリストの洗礼」が実現したのです。
ヨハネの洗礼はあくまでも「水による清め」という儀式、「かたち」です。聖霊が働く「「秘跡」ではありませんから、その人の命が新たにされたり、罪の赦しが与えられたりするわけではありません。体を清めるという「かたち」によって、回心へと「心」を促そうとするものです。
ある意味、人びとはヨハネの洗礼を受けることによって、回心への道を歩む決意を自らに、また兄弟姉妹の前で表しているのだと言えます。
ヨハネ自身も「水で洗礼を授ける(16節)」と言って、自分の洗礼は「水というシンボル」を使っての「儀式」であり、「聖霊と火(同上)」による「メシアの洗礼」とは別のものであることを明らかにしています。
ヨハネの洗礼が人びとを「「回心」へと促す儀式であるならば、罪を犯すことのない神の子であるイエスがそれを受ける必要はないということになります。
ではなぜ、イエスはヨハネによる洗礼を受けたのでしょうか。その意味はルカの以下の表現に示されていると思えます。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて(21節)」
つまり、イエスが洗礼を受けたのは「民衆が皆洗礼を受けた」からだと、ルカはイエスの洗礼の意味を説明していると思えます。「皆」が洗礼を受けたことによって、この民衆は「回心」の道を歩む一つの民となりました。イエスもその民と一つになって、共に歩むために「洗礼を受けた」のだと。いわば、イエスは同じヨハネの洗礼を受けることによって、回心の道を歩む民の「仲間」に加わったのだということです。
罪を犯したことのない「神の子」であるイエスにしてみれば、回心の道を歩む民を高みから見下ろしながら励ますこともできたでしょう。でもそのような「上から目線」で、困難な回心の道をあえぎながら歩む民をただ見下ろしているようなことは、イエスにはできないのです。急いで神の座から下って来て、自らもあえぎながら、汗をかきながら、共に歩もうとしてくださいます。
今も、そうなのです。目には見えなくとも、私たちの信仰の旅路を、いつも共に歩んでくださっているのです。
